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スワミジの伝記 1-07-2 (『Swamiji The Manifestation』より)

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最初の周期(1942-1954) サティアナーラーヤナ第7話その2

[ジャヤラクシュミーマータ(スワミジの母)は話をつづけた。]

「ある日、私がブラフマクンダに座っていると、自然と瞑想のレベルが上昇し、サマーディ(霊的超越)の状態になりました。数時間が経って、私は外の世界の意識に戻りました。すぐに私は(カラパートラ)スワミのもとへ行きました。しかし、その道の途中に小さな洞窟があり、そこで彼らはお互いに反対向きに座っていました。私を見て、スワミが『彼女はとても有用だ』と言いました。私は彼らにお辞儀をしました。その次の日から、ファーキル・タターによるアシュタンガ・ヨガ(パタンジャリのヨガ経典による8重の道)の科学についての教えがはじまったのです。私はタターと打ち解けていくうちに、リシェーシュワラとのダルシャン(謁見)を得る方法を教えてほしいと彼に祈るようになりました。そしてタターは『あなたはそれを得るだろう』と言ったのです」

「だんだんと私の霊的実践は進歩していきました。サプタリシ(ヒンドゥー教における7人の大聖者)はたびたび私に姿を見せました。私はサンガムへやって来た、秘密の力をもったシッダヨギ(シッディという超自然的な達成にいたったヨギ)たちとのダルシャンを得ました。デーヴァ、ガンダルヴァ(天上の楽師たち)、その他の聖なる存在たちのヴィジョンを持ちました。しかし、リシェーシュワラのダルシャンだけは得ることができなかったのです。すべての人にジョーティ(最高度の意識の霊的光)を見ることができましたが、それだけでは満足しませんでした。数日経ったころ、ブラフマクンダの近くの洞窟でスワミに会いました。スワミは私にシャーストラ(聖典)について教えはじめました。彼は経験については何も語りませんでした」

「しばらくの実践の後、ある日、スワミの前で挨拶しようとしたら、スワミがやさしくダンダ※7(真の行者がもつ聖なる杖)で私の頭に触れました。それがすべてでした! 何がおこったのかわかりませんでした。自分自身に気づくようになったときには、ヴィディヤ(最高の知識)全体の澄みきったヴィジョンをもっていました。私は至福のなかへ流れ込んでいきました。この内なるヨガ(内なるものを礼拝する手段)は、数か月をかけて平安のなかで進展していきました。どんな心の状態のなかでも内なる礼拝はずっと続いていましたが、スワミによって教えられたものとは違った魂意識の経験をし始めていたので、このことが心配になりました。スワミに尋ねると、スワミはそれぞれの質問に『そうかね?』と言って笑うのでした。ファーキル・タターは彼の太鼓を鳴らし、「カヤレ、アラー!」と言うだけで、行ってしまいました。

「あるとき私はこの問題について明確にしようという決意をもってブラフマクンダの洞窟の近くへとやってきました。洞窟に入ると、中にいくつかの火がともっているようでした。注意深く見てみると、その明るい光のなかに誰かがパドマーサナ(蓮華座)で座っていました。彼のオーラは燃えているように見えました。彼は座っていましたが、立ち上がったら、私の父の2倍はありそうだと感じました。黒い肌と対照的なまっしろな服を着ていました。白い髭が胸にあるルドラクシャの首飾りを完全に覆っていました。肩には聖紐がかかっていました。額には聖灰の3本の線があり、灰色の髪は頭頂で結わえられていました。その目を見つめることは難しいことでした。つきさすように輝いていたのです! 彼はやさしく微笑みました。たぶん私が彼を熱心に観察していることに気づいたのでしょう。恍惚とした感覚で体がうずきました。彼が誰か尋ねる必要はありませんでした。私は地面にひれ伏し、従順に頭を洞窟の床につけ、そして喜びのなかで立ち上がりました。彼は私に座るように促すと、話し始めました。
『あれこれと話すために来ました』と彼は言いました。
『どうぞ話してください』と私は微笑みました。
『いろいろな場所を放浪して父のアシュラムに行くと、私の母アナスヤも、ちょうどあなたのように微笑み、私がどんなニュースをもっているか聞くのです』と彼は言いました。私はこれを聞いてとてもうれしくなりました。再び彼は話し始めました。
『カリユガ(ヒンドゥー宇宙論における最後の暗黒の時代)がやってきて、その影響が次第に強まっています。私は多くのものを自身のなかに秘めていますが、カリユガ時代の人々はその苦痛に耐えることができません。もちろん私の一時的な体において、いくつかの仕事が行われています。しかしそれでは十分ではありません。私はある計画をなさねばならず、それはこの地上に永続して打ち立てられるものです。それを行うために、ある肉体を持たねばなりません。その肉体によって人々の手の届くところにいやすくなるのです』と言って彼は話をやめました。
彼はゆっくりと花弁を折りたたむ蓮のように目を閉じました。するとなんともすばらしい至福が私にやってきました。しばらくした後に考えました。『ああ!私の2人の師がここにいるべきです。彼らが来れば、主ダッタトレーヤ※8のダルシャンを得るのだから』私の心を読んで、この謎めいた主が言いました。
『起源の神がここにいるのに、なぜそこに付属する属性やほかの名前を持ち出すのですか?』目を閉じたまま言ったのです。私は完全に驚いてしまいました。少しの間、私は理由なく恐れを持ちました。しかし再びおおいなる至福の波を経験しました。私は瞑想している彼の穏やかな顔と目を見つめていました。しばらくすると彼は『私はもう行きます』と言いました。彼は小さな洞窟を出て、空へと飛んでいきました。彼が消えていくのを見続けていましたが、いつ自分の目が閉じられたのか、いつ彼が消えたのが気づきませんでした。再び意識を取り戻すと、至高の意識についてのすべての疑問は、単に私の個人的な経験によるものだとわかりました。私はこのダルシャンに圧倒され、ながいあいだブラフマクンダの近くにとどまっていました」

「その次にファーキル・タターとカーラパトラ・スワミに洞窟のなかで会ったとき、驚いたことに2人ともカンナダ語(地元の言葉)で話していました。彼らは私のことを『マータ(母)』と呼びはじめました。彼らは、メクダトゥにおける使命を果たしたので、出発するのだと話しました」

「私は感謝の意を表してから、自分は厳格な独身生活に従いたいと話しました。2人の師は弟子が師の命令を待つかわりに自分の気まぐれを表現するのは間違っていると言って私を叱責しました。私は自分の間違いを悟り、ゆるしを請うために熟考に入りました。私が瞑想のために座るとすぐに師たちは精妙体で話し始めました。その理由を知るためあたりを見回してみました。すると私の母が洞窟の近くに隠れていて、この会話を聞いていたのです。師たちは母が聞くべきことはカンナダ語でおおっぴらに話し、秘密のことに関しては精妙体で話していました。その会話のなかでもカーラパトラ・スワミは私をマータと呼びました。私はその新しい名前にすっかり驚いていました」

「ある時点で私は彼らに言いました。
『今まで私は自分が得た力、まだ得ていない力を試す機会を持ちませんでした』と。
『主ダッタトレーヤ自身があなたのお腹に入るときに、そのようなことを思うのですか?』とスワミは叱りました」

「アーディグル(原初の師)が肉体を持つと言った洞窟での会話を思い出した瞬間でした。突然スワミの考えがわかり、まったく驚きました。この会話の後、私は挨拶をして静かに家に戻ったのです」

ジャヤラクシュミーは話をつづけた。

「4日後、瞑想のためにサンガメーシュワラ寺院へ行きました。深いレベルの熟考に入ったときに目をあけると、起源の師がふたたび目の前で座っていました。彼が座っているのはいつもカーラパトラ・スワミが使っているところでした。私は持っていたはずの花の首飾りを手探りで探し彼の足元に置いて、その足に触れて敬意を表しました。言い表せないなにかが私の中に入ってきました。アーディグルはその花輪を自分の目に当ててから、主シヴァのところにそれを置きました。
『母よ、夜明け前にあなたの家にやってくる新しいブラーミンが、あなたの夫になるだろう』と、主は話しました。」

「洞窟にいたときからの続く4日間、私は師とともに女性の正しい行いについて熟考して過ごしました。そして私は『御心のままに』と答えました。『見なさい、母よ』とアーディグルは続けました。『カリユガの影響によって、世界は正義と邪悪の混合したものになっています。美徳と罪の絡み合った網が人間を捕らえています。生活の問題によって、人間は美徳の原理に沿って進むのが困難になっています。太古の聖典は人々が美徳に従う方法を完全には説明していません。私は理想的な人々を欲しています。彼らは自らの行為をもって、この混乱した時代のなかでもわたしのことを考えられることを教えることができる人々でなければなりません。はるか昔、私はプラジャーパティ(ヒンドゥー教のプラジャーパティはキリスト教におけるアダムに相当する)に、人々、男女を誕生させ、創造を続けるようにと命じました。女性もまた霊的実践を必要とします。しかし、その実践が宇宙の車輪であるデーヴァヤジュナ(聖なる創造への礼拝)の障害になるならば、実りのないものになるでしょう。そのため女性の正しい行いは、より難度が高いのです。私は女性の美徳を実演することができる女性を探していました。このことに心を配っていました。今、私はその仕事をあなたに託しています。良いことをあなたに起こらせます』」

「アーディグルの言葉は戦争を始めるラッパの高鳴りのように聞こえました。私は沈黙を保ちながら、謙遜して頭を下げ、手を折りたたんでいました。アーディグルは消え去りました。その夜、あなたのお父さんがとても奇妙な状況のもとでわたしの家へやってきて、私と彼の結婚がまもなく祝われたのです」

「私はあなたのお父さんの二度目の妻です。お父さんの家にいるのは、私の家にいるよりもとても困難なことです。あなたもお父さんの怒りやすい性格を知っているでしょう。お父さんにお金があるときわたしたちはお祝いをしますが、ないときは断食をします。この土地ではわたしたちの親類は教育を受け、ウパーサカ(神の崇拝者)です。しかし、誰も他の人とはうまくいっていません。村は完全に未開の地で、私の故郷のランバニ族と何も違っていません。実家で私は甘やかされていました。私は家事をしませんでした。日々なにかを熟考して、自由に歩き回って、歌っていたのです。それが全部でした。これらのことと、私が地元の言葉を話せなかったという事実によって、結婚生活への適応は困難なものでした。このような状況で、私は義理の母の家に足を踏み入れたのです」

「ここに来てからというもの、トゥルシー・プージャ(トゥルシーは聖なるバジルの草。聖なる母の転生だと考えられ礼拝されている。それを育てて礼拝する家庭ではデーヴィの臨在と祝福があると信じられている)のときを除いて、すべてのプージャ(礼拝)ができず、ジャパ(聖なる御名の暗唱)もできていません。お父さんが何かをしたいと思ったときはいつでも、彼の計画が入念に行われるように見るようにしました。同時に、彼が一僧侶としての仕事、プージャ、ジャパ、給仕、その他の重労働によって働きすぎないか気づかいました。何の仕事も知らなかった私ですが、ここで米を弾くこと、牛糞を固めること、家畜の世話を学びました。このような雑事をこなしながらも、私は霊的実践を続け、またあなたを教えてきたのです」

「お父さんはお金に頓着しない人なので、私は事務員のようにもなりました。私がお金についてなんらかの権限をもっていることに彼が気づいたなら、彼は激怒するでしょう。しかし、もし私による何らかのコントロールがなければ、家計は機能しないのです。私は彼の名においてのみ力を行使し、そのことについて彼にいかなる疑念の余地も与えませんでした」

「この家庭生活の日々のうちで、私の村での評判はよいものです。私は村の一員の普通の女性として引っ越してきて、私の力を実演することはありませんでした。しかし村人のためにいくつかの善行をしていて、そのことにより彼らの心に崇敬の感覚が目覚めているのです」

「アーディグルがこの仕事を私に与えたとき、これはとても難しい仕事だと思いましまた。しかしその場所に来るまでは、それがいかに容易なものであるか知らなかったのです。主婦になるまでは、偉大なる聖者たちによって指示された正しい義務の遂行と、霊的な相関性の複雑さを理解できていませんでした。この吉祥の古代からの学校を受け入れたとき、私のそれぞれの家事は霊的実践に他ならないとわかったのです。お皿や調理器具、排水溝を洗うこともまたわたしにとってはウパサナ(霊的実践)でした。私はこれらがほかの人にとって障害とみなされることに疑問をもちました。不幸なことに、正しい美徳の義務が神によって創造され、自分自身の義務を行うことは犠牲、聖なるヤジュナ(儀式)であることを人々は忘れてしまっているのです。家庭を切り盛りすることはわたしの義務であり、宗教的な犠牲にひとしい行為です。そして聖なる神像から家事で使われる掃除の布まで、すべてのものがわたしにとっては神聖な道具として敬われるものでした。わたしはこの実践から霊性を発展させ、他の人がまちがいを犯すのはここだと理解するようになりました」

「あなたが心に疑問を持っていることを知っています。私にこの難しい仕事をする困難があるとき、だれがそれをするのを見ているのだろう?と。まず、これらの仕事はわたしにとってなんの困難も感じさせないのだと言わせてください。至福を得るためになされる行動と実践は、至福をもたらすだけです。至福がないならば、その方法と実践を行う人の両者に欠点があるのです。そして次に、だれが見ているか? これがあなたの疑問です。よく考えてみなさい。誰が観察すべきでしょう? 誰があなたを見ることによって利益をえるでしょう? 人が水のなかに落ちて沈みはじめたとき、その人が遠くに水泳の得意な人がいるのを見ているだけだとしたら、なにか利益があるでしょうか? 水泳の得意な人を見ているだけでは、彼は救われずおぼれてしまいます。しかし水泳について何かしら知っている人が同じ水泳の得意な人を見るなら、彼はその専門家を見て、学び、模倣し始めることができます。あるいは海岸にいて泳ぐことができない人が、水泳の専門家を見て、水泳を学ぶインスピレーションを持つかもしれません。泳げる人も、海岸にいる人も、彼に泳ぎをうまく教えてくれる水泳の専門家を探すでしょう。同様にヨガの実践に関心をもつ高貴な人々は、霊的実践のより高い段階の理解を助けるためにマスターを注意深く近くに見て、その聖なるヴィジョンを使用します。好奇心をもつ百人がわたしたちのところへ来るなら、さらに数千の人が彼らを通して育つでしょう」

「溺れている哀れな人はどうなるでしょう?水のなかで必要とされる技術を使うのは専門家の水泳者ではありません。それは勇敢で強い人です。渦巻く水のなかに飛び込み、溺れる人を引っ張り、必要な命を助ける人です。この勇敢な人もまた専門家です。このような勇敢な人が、人々が霊的達成に苦闘する現代世界に必要とされています。この勇敢な魂は、このような生き方で意識の内的階層を上昇させる方法を実証することができるべきです。さらに彼は段階的に展開する意識の進化段階について説明することができるべきです。また、霊的成長の過程でやってくる障害について理解があり、それらを克服する方法も知っていなければなりません。このすべての方法を知っている一方で、この勇敢な魂は不運な魂のために喜んで自身の生命を危機にさらし、サムサーラ(生まれ変わりによる生と死の終わりのないサイクル)の海のなかから彼らを安全な海岸まで引っ張りあげなければなりません。この目的を満たし、勇敢な魂として転生するために、アーディグルはわたしを彼の目的のための道具としてわたしを選んだのです」

この母の話の後、サティアナーラーヤナは母がなぜ「通常の規則はどこでも適用されるものではない。特別な状況下では特別な原則が適用される」と言っていたのか、より理解できるようになった。彼は多くのことを考えるようになった。

※7 ダンダは真の行者がもつ聖なる杖。ヨギ、サドゥー、サンニャーシンなどによって携行され「補助具」と呼ばれる歩くための杖。サドゥーの生活の基礎である禁欲を表す。またスシュムナーという主たるナーディ(身体の微細なエネルギー経路)と探求していることの現実化も表す。

※8 ジャヤラクシュミーは聖なる光の形態をダッタトレーヤの形態とみなした。ダッタトレーヤはヒンドゥーにおける三位一体、ブラフマ、ヴィシュヌ、シヴァであり、人類の永遠の教師(グル)として考えられている。

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写真:アヴァドゥータダッタピータムにあるダッタトレーヤの神像

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