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スワミジの伝記 2-30(『Swamiji The Manifestation』より)

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第2の周期(1954-1966) 若きスワミ 第30話

郵便の仕事を辞めて、スワミはフルタイムで自分の使命に専念できるようになった。ケセアアシュラムでの活動は劇的に増えていった。スワミが毎日いられるようになったので、より多くの人が、外の町や村から彼に会いに来るようになった。シヴァラトリ、ナヴァラトリ、ガナパティ・チャトゥルティ※26のような祭日は特に群衆が大きくなった。
1964年、インドでもっとも偉大なヴァイオリニストの一人であるチョウダイアがスワミのダルシャンを得るためにケセアにやって来た。チョウダイアはカルナータカ州の生まれで、マイソールに住んでいた。彼が二度目に電気街を来訪したとき、誰もが驚いたのだが、オーケストラと共にやってきたのだった。そして恭しい環境のなかで素晴らしい演奏をした。コンサートの間、スワミは大いに涙を流し、その出来事に完全に没頭しているようだった。
 コンサート後にスワミとチョウダイアは友達になり、その有名な音楽家はときどきヴァイオリンをもって夕方頃に訪れてくるようになった。サティアナーラーヤナは具合が悪くなると、そのヴァイオリニストを呼んだ。ヴァイオリニストはやってきて彼のためにラーガを奏でた。スワミがチョウダイア邸を訪問することもよくあった。美しいプージャの部屋があり、彼らはそこで夜通し音楽を礼拝し演奏した。
 徹夜のセッションを行ったある朝、チョウダイアが言った。「60年に渡る音楽の修練の後でさえ、今、私はケセアのこの少年から音楽のイロハを学んでいる。彼は私を音楽のより高みへと連れていってくれる!」
 チョウダイアとスワミの関係はニュースになり、他の素晴らしい音楽家たちをケセアに魅了した。アンジャッナパ、シヴァ・ルドラッパ、ムルティ、スーリヤナルヤナ、スリカンタン(ヴァイオリニスト)、ヴェンカタッパなどの面々であった。芸術的な好奇心によってやってくるものもいれば、後になって妻がスワミによって癒されたヴェンカタッパのように個人の問題や家族の問題でやって来るものもいた。
 帰依者たちにとって喜ばしいことに、これらの有名な芸術家たちはケセアのプログラムに定期的に参加し、霊的な催しにすぐれた音楽的様相をもたらすようになった。これらの偉大な音楽家たちによる甘い音色に魅了されたのは、帰依者たちだけではなかった。コンサートの間に、蛇がスワミの膝や首に這い出てきたり、演奏中に首に巻き付いたりするのはいつものことだった。
 スワミの歌が最初にレコーディングされたのはこの頃だった。ある日の午後、スワミはバンガロールからきた帰依者タムマナに言った。「今晩のサンキルターナはレコーディングされるべきです」
 タムマナはスワミに自分がテープレコーダーをもっていないことを話した。「問題ありません」とスワミは言った。「あなたの一番の親友がもっています。」
 タムマナはその友人がテープレコーダーを持っているという覚えがなかったのだが、それでも彼のところへ行った。すると案の定、友人はテープレコーダーを購入したばかりであり、サンキルターナの収録のためにそれを使うことに同意したのだった。
 スワミの活動は増えていき、もっと多くの助力者たちが必要になった。コンサートの間にどこからともなく出てくる蛇たちのように、あらゆる職業の人々が助力するために街にやってくるようになった。一人はムルダンガのラーマチャリであり、サットサンガ(聖なる仲間の集い)に楽器を持ってスワミに同行し始めた。だんたんと彼はスワミが必要とするだろうものを運ぶようになり、増えいくそのような機会にスワミを助けた。結局、彼はスワミの最初の個人的なアシスタントとなった。
 医者のアナスヤンマは街に定期的にやってくる女性たちを組織した。彼女たちは「母たちのサークル」をつくり、スワミの個人的な家事の配慮をした。それに加えて彼女たちはプラサーダムの準備や礼拝に必要な花を集めることなど祭事の手配でも僧侶たちを助けた。
 最初の僧侶たちの一団はだんだんとスワミを離れ、ヴェンカテーシュワラ・シャストリ、ラーマ・シャストリやその他の人々が新しい僧侶のサークルをつくり、愛と崇敬の念に基づいて無私の奉仕を喜んで行った。彼らは残された生涯のあいだスワミのもとに留まった。
 サンキルターナのレコーディングは電気街を超えてスワミの使命を広げる最初のステップとなった。バサヴァラジャ・バハドゥールとナンジュンダラジャ・ウルスの二人の兄弟が第二のステップとなった。彼らはスワミの教えが含まれたパンフレットの出版を提案した。甥の末期的な病気がスワミによって癒され、彼らは感謝の念とともにこの奉仕をおこなった。スワミは喜んで彼らの奉仕を受け入れた。
 これらの活動のほとんどはスワミによって歓迎され、鼓舞された。しかし、何人かの帰依者たちは物事の広め方を懸念した。
「たしかにスワミは比類なき霊的な力を持っている。しかし組織を運営することについてはその手腕を欠く」と不平を言うものがいた。「彼はまだ少年だ。私たちが彼を助けよう」と他のものは提案した。スワミを助けようという高貴な意図をもって数人の帰依者たちが委員会を作った。最初のミーティングで彼らは委員会の後援者として自らの名を連ね、スワミが全ての組織的な問題において彼らの助言に従うべきだと決議した。そして、もしスワミが彼らの助言に従うならば、委員会が土地を見つけ、彼のためにアシュラムを建設すると加えた。彼らはスワミの承認を得るために恭しく決議文のコピーを提出し、グループの写真を撮ることを提案した。しかし、スワミは彼らと写真を撮ることを拒んだ。それはスワミを導こうという彼らの最良の意図への不承認を示すものだった。
 「ケセア・スワミ」という名前は長く続かなかった。サティアナーラーヤナは彼の新しい生のために新しい名前を得ることになった。ある日、ケーララ州の湾岸都市コーチンからの来訪者の一団があった。彼らはケセアに到着すると、「ガナパティ・スワミ」を探していると言った。村人たちは彼らにケセアにはそのような名前のスワミはいないと言った。しかしコーチンから来た人々は執拗だった。彼らはナーディの書(シュロの葉に書かれた古文書)でマイソール郊外に住む彼らのグル、ガナパティ・スワミについて読んだのだと説明し、自分たちのグルを探しに来ていた。村人たちは電気街にスワミがいて、そのスワミはいつもガナパティを礼拝していると彼らに話したので、コーチンからの来訪者たちは彼に会いにいった。幸運にも彼らはダルシャン(謁見)を得て、その後、サティアナーラーヤナは「ガナパティ・スワミ」として知られることになった。

続く

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