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シュリーマド・バーガヴァタム 第29話

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クンティ・デーヴィは祈りを続けました。

“Govinda go-dvija-surārti-harāvatāra
Yogeśvarākhila-guro bhagavan namas te

おおゴーヴィンダ!あなたは牛たちの苦しみ、ヴェーダ学者の困難、そしてデーヴァタの苦悩を和らげるために生まれ変わりました。おおヨーガの主よ!おお宇宙の主よ!おお至高の主よ!私はあなたに敬意を表します。

このように、クンティ・デーヴィは様々な方法でクリシュナに祈りました。彼女の祈りはとても美しい旋律で、優しいものでした。

こうした称賛の言葉をすべて聞いた後、クリシュナは最後に穏やかに微笑みました。まるで、微笑むべきかどうか、微笑んだとしても、それが優しいものであるべきか、押さえられたものであるべきか、目に見えてわかるものにするべきかどうかを深く考えているようでした。

その微笑みは彼の口元で表されるのでしょうか?それとも内に秘められているのでしょうか? それともその微笑みは、すでに内にあったもので、そのまま留められているべきなのでしょうか?表現されるべきなのでしょうか?誰もわかりません。最後に、彼はまったく穏やかに微笑んだのでした。そして不意に「よろしい」と言いました。クンティ・デーヴィの長く、愛情のこもった祈りのあとで、主は一言だけを発しました。それだけでした。

その「よろしい」の意味は何だったのでしょうか?錯覚の世界から彼女を救うことを意味したのでしょうか?あるいは彼が出て行くときに彼女を一緒に連れて行くという意味でしょうか?それとも、もう少し彼らの場所に留まることに合意したという意味でしょうか?彼らには何も分かりませんでした。

その「よろしい」の意味を理解することはできません。しかし私たち(帰依者)がすることとして、その詳細を明確にしようとする傾向があります。「スワミジ、『よろしい』とは何に対してでしょうか?どのような意味でしょうか?一つ目の質問に対してでしょうか、それとも二つ目のでしょうか?または尋ねていない質問に対してでしょうか?『よろしい』とはあなたにとってどういう意味でしょうか?それは、私の質問に対してでしょうか、それとも私のパートナーに対してもでしょうか?」このように、帰依者は数多くの質問をします。それまでに私は、自分が最初に言った「よろしい」を忘れてしまうでしょう。そこで言うのです。「私はなんと言いましたか?『よろしい』?いえ、覚えていません。」このようになるのです。

あるマントラを人に手ほどきすることを考えてみましょう。彼は私を質問攻めにします。「スワミジ、何回このマントラを唱えるべきですか?いつ、唱えますか?様々な場所でするべきですか?朝にするべきですか?それとも夕方に?」すでに一つ目の質問の時に三つ目の質問ができています。それでも彼らは細かく質問をします。「朝に唱えるべきですか?いつするべきですか?どの方向に向かってするべきですか?唱えているときに寝てもいいですか?旅行中に唱えてもいいですか?」

これが現在の状況です。私が何を言っても、お返しに彼らは二十の質問を返すのです。それまで彼らは私を離れません。これが起こるのは、私たちが感覚器に縛られているからです。知性に縛りつけられています。カルマ的なものに束縛されています。迷妄に包まれているのです。そのため私たちには多くの疑いがあります。すべての側面において、疑いがあるのです。これらの疑いの二つ目の理由は、返す質問で私を縛るためのものです。みなさんはこのように言います。「スワミジ、あなたこそがこれを言ったのです。」

「スワミジ、あなたが来るようにいったので、私は来ました。あなたが頼んだので、私はきたのです。」人々はこのように言います。そもそも来るように言ったのはいつでしょうか?私は十年前に来るように言ったのに、あなたは今、来たのです。つまり、十年経たないと時間がとれなかったという意味でもあります。そして、今あなたは来て、私を苦しめることにしたのです。「スワミジ、あなたが来るように言ったので来たのです」「スワミジ、私は来ました」

このような人々は彼らの感覚に縛られています。「彼らは執着と不注意に縛られています。カルマに縛られているのです。身動きがとれないでいます。なぜ無駄に、彼らと一緒に束縛されなければならないのか?」と私は思います。彼らは私を同じように縛ろうとします。一般の人々は私の教師です。ダッタートレーヤには二十四人のグルしかいませんでした。しかし、この経験を通して、私には何千人ものグル(教師)がいると分かっています。毎日、新しい教師や他の人が近寄ってきて話しかけるのです。私は彼らに敬意を表します。

私は目を開けるとき、主ヴィシュヌの顔だけを見たいと思っています。そして主ダッタートレーヤを。私が目をつぶるとき、ダッタを心の中で探し、または彼だけを想います。私は母である女神だけを考えたいのです。私は心の中で、「ナーラーヤナ、ナーラーヤナ、ナーラーヤナ、ダッタ、ダッタ、ダッタ」などと唱えたいのです。私の鳥たちは早朝に、「ダッタ、グル」などと歌います。しかし人々は、知性があるにも関わらず愚かな行動をとります。反面、鳥たちは知性が無くても、賢い行動をとります。人々に私は縛られていますが、鳥たちとは私は至福を楽しんでいます。鳥たちは、私が教えた一つの事だけを学ぶことを知っています。とても美しく、「クリシュナ、ラーマ」とささやきます。どのような神の名を教えても、彼らは繰り返します。ずっと繰り返すのです。

ここで、主は単に「よろしい」と言いました。クンティ・デーヴィは静かにしていました。現代において、クンティ・デーヴィのような人がいるでしょうか。現代では普通、人々は主を止めて、その「よろしい」の意味を相互に問うでしょう。もし「アブハヤ(恐れのないことを保証する)」の祝福が与えられれば、彼らは尋ねます。「この保証はなんですか?最後に訪問したとき私が言った願いが叶えられたでしょうか?あるいはこれは今の私に対する成就でしょうか?あるいは未来に対するものでしょうか?」彼らはまるでそうすることが生まれながらの権利であるかのように要求するのです。

クリシュナはクンティ・デーヴィや他の者たちから立ち去りました。彼はハスティナープラへと進み、スバドラーと他の人たちを置いていきました。彼の地であるドゥワーラカへと発つ際に、ダルマラージャ皇帝が優しくクリシュナを止めました。
ユディシュティラは、戦争で彼の知人や親族をすべて失い、深く悲しんで意気消沈していました。主クリシュナ、ヴィヤーサ聖仙、そして他の聖者達は皇帝の思いを理解し、様々な方法で慰めました。それでも、ユディシュティラの心は穏やかになりませんでした。彼は慰められることはなく、死んでいった者たちのために悲しんでいました。

ユディシュティラは識別心をなくし、友情や執着の気持ちに惑わされていました。識別心に満ちていて正義の典型であり本質的には賢明な彼が、今や識別心のない気持ちに包まれて、それに完全に没頭していました。怒りと無識別の気持ちが彼を完全に圧倒していました。そして、それに完全に閉じ込められていたのです。「私は多くの親族を殺しました。私は無限の悲しみをもたらしました。全ての場所で、私は人々の血を流したのです。この王国に今、どんな意味があるのでしょう?」彼は嘆きました。

アルジュナは戦争の始まりの時に、そのような感情を抱きました。そして今、戦争を終えてからユディシュティラが同じようにさいなまれたのです。もしかすると戦争中にも同様だったかもしれませんが、始まった戦争を止めることはできませんでした。戦争はすぐにその勢いを増します。戦争は始めるのは簡単だが、終えるのはとても難しいものであるといいます。このため、始まりの時には大いに注意をしなければなりません。美しく話さなければなりません。人が集まった時には、他の人を扇動するようなスピーチや、話し方を避けるべきです。ユディシュティラ皇帝は正気に戻ったかのように見えました。しかし実際には、無分別が彼の識別心を完全に包み込んでおり、この悲しみに完全に包み込まれていました。

スリーマン ナーラーヤナ!

つづく

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