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神を経験すること

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『バクティマーラ』1994年2月号より

霊的な場に入ると、神がすぐに来てダルシャンを与えるのは義務だと感じる人がいます。実際この種の感覚は帰依者の献身よりもエゴを明らかにしています。これはまた、帰依者が「神ご自身が現れるために、私は受け入れる器があるだろうか、十分進化しただろうか?」という質問を少しも検討していないためです。

この考えは脇に置いておきなさい。何年もの間、厳しい霊的実践を行ってきたにもかかわらず、神の本質を理解できない人々がいます。その人たちは自分に欠点があると考えたり、実践方法に欠点があると考え始めます。落胆する代わりに、その考えが自己分析を導くのならそれは素晴らしい特質です。しかしながら今、神が与えるダルシャンというテーマにおいて私たちは正確な理解をする必要があります。

 最も大きな間違いは神が他の場所から来てダルシャンを与えると考えることです。プラーナ文献にそのように記述されている場合、唯一の目的は神の遍在性を明らかにすることであり、神がどこか遠く離れた場所に住んでいることを意味するものではありません。神とは唯一経験されるものです。その経験がハートに反映されるとき「バガヴァッド・サークシャトカーラ」と呼ばれます

ハートは鏡のようです。真の反映はその本質の反映です。しかし最高の鏡でさえ、不安定で煙や汚れにまみれていたり、離れて置かれている場合はふさわしい反映を映し出すことができません。したがって鏡のようなハートの撹乱や動揺を止める必要があります。これは、完全な集中の達成と呼ばれます。

 今、私たちは鏡を覆っている煙や汚れをきれいにすべきです。これはあなたのエゴの明け渡しを意味します。次に私たちは鏡に近づこうとする必要があります。それは私たちの欲望を減らさなければならないことを意味します。これらがなされるならば、鏡のようなハートは自動的にきれいになるでしょう。それは神を映し出すでしょう。それ自体がバガヴァッド・サークシャトカーラ、あるいは神を経験することです。

右手で与えたものを左手は知るべきではありません。人に知られずに慈善行為を行うべきです。

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