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ヴェーダーンタの三つの言葉

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バクティ(信愛)、ジニャーナ(知識)、ヴァイラーギャ(無執着)―これはヴェーダーンタの説明においてよく繰り返される三つの言葉です。真我の認識に達するために極めて重要です。

霊性の道において最初のレッスンは信愛(バクティ)を洗練させることです。次に正しい知識(ジニャーナ)の習得が続くべきです。その後、無執着(ヴァイラーギャ)は自動的についてきます。

『バーガヴァタム』は真我の認識を体現したものです。パリクシット帝が完全な無執着を培うまで、聖仙シュカは真我の認識を説くことを控えました。最初のうちは信愛(バクティ)、知識(ジニャーナ)、そして無執着・平静(バイラーギャ)を教えました。バーガヴァタムの最初のスカンダ(章)で真我の認識の概要だけが与えられて、本当の認識はマインドから不純なものすべてが浄化された後、すなわち最後に授けられます。

信愛(バクティ)が固定された後にだけ、人はジニャーナ(霊的知識)を獲得するために旅します。正しい知識の獲得は、無執着(ヴァイラーギャ)の発現を導きます。無執着(ヴァイラーギャ)に続いて、真我の認識が起こります。

ハヌマーンチャリサで、スワミ・トゥラシーダースはハヌマーンをバクティ(信愛)、ジニャーナ(知識)とヴァイラーギャ(無執着)を意のままにした王としてその栄光を讃えています。

大抵の場合、人は物乞いしてくる人に持っているものを分け与えます。裕福な人はお金を譲り、穀物の蓄えがある人は穀物を分け与えるでしょう。同様にサッドグルは慈悲から帰依者に財産を与えます。物質的で壊れやすい財産を与えるのではなく、サッドグルが与えるのは非常に貴重で、永遠の財産です。言葉を変えると、サッドグルはバクティ(信愛)、ジニャーナ(知識)、ヴァイラーギャ(無執着)を帰依者に与えます。

これに向けて、皆さんのサッドグルに対する断固たる敬愛と献身を発達させることが必須です。サッドグルを崇敬しなければなりません。尊敬しなければなりません。至高の主に行動のすべてを捧げることから始めなければなりません。「私のすべての言葉はマントラです。私のすべての歩みは主へのプラダクシナ(礼拝)です」というような思いで信愛を養わなければなりません。

規律が信愛の前に必須のものです。あなた自身を規律することを学びなさい。規律のために外的な先生はいません。不規則なスケジュールは規律が欠けていることを表しています。例えば朝八時に起きて、他の日には昼の十二時に起きて一日じゅう寝て、ある日は三食食べて、他の日には完全に絶食するというのは規律のない生活習慣を表しています。規律は毎日毎日厳格なスケジュールに体が従うように教えることを意味します。

毎日、火を主に対して灯し、食べる前には食べ物を主に捧げなさい。捧げた食べ物を主が食べていることに信を養いなさい。主との深い絆を発達させなさい。
お寺を周ることや神像にアーラティ(火)を捧げることは機械的で面倒な仕事になってはいけません。信愛が伴わなければなりません。ハートが信愛でいっぱいにになるときだけ、寺院に出かけることは実のあるものになります。そのような信愛は故意に養わなければなりません。最初に心、体が反抗します。ですが、やがて火を灯さないと、神とつながっていないと、祈りを唱えないと不十分な感じになる日がやってきます。主から離れることを拒否します。主とのこのつながりを養うにつれて、主のことを知りたいという願望がハートの中に独りでに出てきます。問いが始まります。「私は誰か?」「あなたは誰か?」「何の理由で私は生まれたのか?」「どうしてこういう問題が頭の中に降りてきたのだろうか?」「繰り返し生まれてくるサイクルからどうやったら出れるのだろうか?」そのような質問が心をかき乱し始めます。

時が進むにつれて自分が地球にいるのはしばらくの間であるということが本当だと認識します。この世界の一時的な性質を理解します。これとともに無執着(ヴァイラーギャ)が現れます。家や仕事でかっとなって捨ててしまうような無執着であってはいけません。無執着は肉体的に対象を捨てることを意味しません。精神的に対象を手放すこと、対象に対する執着を取り除くことを意味します。無執着を達成することは最後のステップです。一度達成すれば人はゴールに非常に近づきます。

高い教養があるIASの事務官やMBBSの医師たちが全てを捨ててハリドワールに辿りついているという話は本当です。ハリドワールにいる黄土色の衣を着た人が全員詐欺師だと思い込むのは間違っています。このサドゥーたちは厳しい状況の中で、何もない床で寝たり、捧げられたどんな食べ物でも食べたりして、欲求などを楽しむためではなく、自分を訓練しているのです。その中には無執着を探求しようとする裕福なビジネスマンも多くいます。

頻繁にサッドグルのダルシャンに行ったり、巡礼に行ったり、神聖な本を読んだりすることは信愛と知識を養う道です。例えば、マイソールに来ると時々お湯が使えないときがあります。そのような時は冬のピークであることも気にせずに冷たい水で沐浴します。柔らかいマットを要求することなく何もない床に眠ります。そのような実践とともに徐々に体は取り入れることを学びます。私たちはそのことに気づかずに無執着を学んでいるのです。十日間近く、またはもっと長くアシュラムで不便さにもかかわらず適合して幸せに生活します。

最初に信愛を求めてスワミジに近づいた人はやがて信愛を求めるのを止めます。というのも自動的に彼らに信愛が増加するからです。霊的知識(ジニャーニャ)を探している人たちはスワミジの忠告の言葉を繰り返し聴くことでその知識を見出します。ジニャーニャが自動的に彼らの中に芽生えるのです。これは次に無執着(ヴァイラーギャ)の出現を導きます。
このようにしてサッドグルのそばで過ごすことはヴァーナプラスタシュラム(森の中で世俗から離れて霊的実践を行うこと)と同じ種類のものです。私たちは自分自身を訓練してこの鍛錬を故意に続けなければなりません。

他を害することなく生きることを学び、人の持っているものをむやみに欲しがらず、他人を噂したり批判することを控えることは、サッドグルとの繋がりによって自動的に学ばれるレッスンです。人を不正に非難したり、詰問したり、嘘をついたり、摩擦を生んだりするような特色はアシュラムで生活することでゆっくりと消えていきます。アシュラムとの関わりがあるのにかかわらずそのような特色が続くなら悪魔的な傾向に満ちた人だということを意味します。他の人を悪く言う前に最初に自分自身を深く綿密に調べなさい。自分の間違いをチェックしなさい。人を非難する前に二度考えなさい。

私たちは罪を犯した後に自分を浄化するためにガンジス川に走ります。もし人に純性さを授けるガンジス川自体が汚されてしまったなら、ガンジス川から人は何を得られるでしょうか?同様に自分の罪を浄化するためにサッドグルの所にやってくる前に皆さんは自分の悪い習慣を除くことに奮闘しなければなりません。ここに着いてからも自分を修正することに失敗するのなら、その人は間違いなく悪魔です。

そのため最初に人を詰問したり非難することを控えることを学びなさい。口を封印しなさい。仲間の帰依者たちの個人的生活に意見を言わないようにしなさい。この習慣をやめないのなら深刻な問題に陥るでしょう。私の帰依者たちを不正に非難する人を私は助けません。病気の形をとって私は彼らの中に入ります。私には三つの顔があることを覚えておきなさい。ヴィシュヌの顔すなわち慈悲で満ちているものだけが通常目に見られます。時に霊的な知識が与えられる時は私のブラフマーの顔が見られます。しかし恐ろしいルドラ(シヴァ)の顔も持っています。人を害する人の家で私は狂乱の中で踊ります。完全に彼らをかき回して道路に投げられるようにします。すなわち仲間の帰依者たちを悪く言って罪を犯している人は直ちに行ってその人からの許しを請わなければなりません。

スワミジと頻繁に話す機会がある人に嫉妬しないようにしなさい。過去生での良い行いでこの機会が与えられたのだということを覚えておきなさい。その人に幸せを感じるように学びなさい。他の人がスワミジの恩寵をたくさん受けるときは決してすねてはいけません。「ああ、彼は特別な報酬をもらったけどスワミジは長いこと関係している私には与えてくれない」と考えてはいけません。あなたの心にそんな考えが浮かんだら、あなたに授けた恩寵までも取り除いてしまうでしょう。他の人の幸せに喜びを持つことを学びなさい。

スワミジが帰依者にペンダントを贈るとき仲間の帰依者たちは、本当に信愛でいっぱいなら、近づいてそのペンダントに恭しく触ります。そのような確実な至高の恩寵を得たのでその人をハグします。そのような帰依者と関係を持つことで彼ら自身が祝福されたと考えます。これが真の帰依者のあるべき振る舞いです。他の人の成功に愚痴をこぼす代わりに喜ぶことを学びなさい。

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