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シュリーマド・バーガヴァタム 第147話

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ナーラシンハーヤ・ナマハ

聖仙カピラが母デーヴァフティにサーンキヤ哲学の話を続けました。

「その後、崇敬の念と無執着が、霊的な志願者に生じます。次に霊的な知識を生み出します。それから彼は自分の元の姿が非二元性の真我(アートマ)であることを悟ります。それは、根本原質(プラクリティ)を超越しており、内と外の違いを超越しており、自ら光を放つものであり、いかなる確実な証拠によっても証明しえないものであり、「あなた」と「私」の区別がなく、喜びや悲しみといった二元性を単に目撃するものです」

みなさんは、意識を集中して聴くと、カピラが母デーヴァフティに説いている教えが理解できます。私たちはもっと深く理解するために、この主題について何度も何度も耳を傾ける必要があります。要約しましょう。

真我(アートマン、魂)は非二元性です。それはプラクリティ(根本原理)を超えています。言い換えれば、それは私たちの目に見えるものを超えています。同時に、それは私たちの目に見えないものも超えています。

自然の美しさを見ると、私たちは驚嘆します。私たちは深い喜びに満ちています。したがって、すべてがその中に含まれていると結論づけます。しかし、それを超えたものもあります!それは至福です。すべてを超えた至福を描写することは不可能です。至福について説明するのに言葉は尽くしても尽くしきれません。

アムリタを味わうことは可能ですか?その味を説明することは可能ですか?味のないものがアムリタです。しかし、私たちは何を言いますか?おいしい食べ物を味わうときはいつでも、それはアムリタのような味だと言います。私たちが“赤糖を溶かした汁がアムリタだ”と言えば、アムリタになります。そう言ってしまうと、アムリタの価値が著しく乏しめられてしまいます。実際には、アムリタはこの味を超えています。

われわれは、マンゴージュースはアムリタのような味がすると言います。しかし、本当のアムリタを味わった人は、マンゴージュースをもう一度味わいたいと思うでしょうか?それでその人の欲求は満たされるでしょうか?満たされません。これはアムリタの特殊性です。私たちが何をアムリタとみなそうとも、本物のアムリタはそれらを凌駕します。言い換えれば、それは根本原質(プラクリティ)を超えています。それは創造を超え、創造の中に存在するすべての惑星を超えています。

この創造には無限の惑星があります。真我がこれらの惑星を包み込んでいることを理解すべきです。真我(アートマ)は、広大な創造全体を包み込みました。それはまた、創造物の内部と外部の違いなく等しく浸透することを意味します。

同じ神がこの創造物の内と外のすべてに浸透しています。体の中に存在するのは神です。それの外側に存在するのは神ですよね?外にいる神は中にもいます。別の神が私たちの内に存在し、別の神が私たちの外に存在すると言うことはできません。したがって、この真我はすべてに浸透しています!

真我(アートマン)は自ら光を放ちます(自己照明)。光は誰にも依存しません。自らの光を発します。照明は、パラブラマフンの本質的な特性です。ここで、「照明」という言葉を、明るい光、ランプ、または太陽の光のようなものと想定しないでください。これらの惑星はすべて輝いていますか?それ自体が輝くのは、パラマートマです。主は自ら光ります。

証明や確固たる知識(プラティヤクシャ・プラマーナ)を通して真我に到達することはできません。真我の知識は、いかなる事例を通しても与えることはできません。それはすべての事例(現象)と証明を超えています。事例や証拠の範疇を超えています。

真我(アートマ)は、可視の対象物でも不可視の対象物でもありません。私たちの目の前に存在するのは対象物だけだとは言えません。私たちの知覚を超えているのは目に見えない対象物だけだとは言えません。それはそれらの両方を超えています。

「あなた」と「私」の違いは、真我には存在しません。それは喜びや悲しみなどの二元性の単なる目撃にすぎません。喜びと悲しみが違うとは考えていません。悲しい時に、何かが失われたり、何かが取り除かれたりしたとは信じていません。真我は喜びを超えています。また、悲しみを超えています。喜びと悲しみを超えたものは至福のはずですよね?したがって、この真我はあらゆる姿の二元性の単なる目撃者のままです。

このようにして、霊性の志向者は、この真我がその人の真の姿であることを悟ります!さらに、得られた知識により、根本原質(プラクリティ)がその人を捕らえる能力が低下したことを理解しています!二元性を超えているので、根本原質はその人を束縛する力を失います。

神に到達しようとする霊性の志向者は、崇敬の念の道を歩むべきです!バクティだけが私たちを目的地に連れて行く船です!バクティ以外の道はありません!バクティほど吉祥かつシンプルな道はありません。このバーガヴァタムの全話はバクティに関するものです。

バクティのみが手段です。ヴィヤーサと他のマハーリシ(聖仙)はバクティを通してのみ解放を達成しました。バクティは、パラマートマだけに心を定めることを意味します! 「私たちは地球上に住んでいて、これらすべての経験を受けていますが、実際には私たちのものは何もありません。私たちはこれを望んでいません。これは私たちの確固たる決断です。「この幻想的な世界では、食べる、寝る、話す、働くなど、私たちが行うすべての行動は、すべて至高の主に属します」そのような姿勢は、自己の明け渡しを反映しています。それだけでバクティです。

私たちは毎日このバクティを増やすよう努力すべきです。育むべきです。可能なすべての方法において、バクティを増やすよう努力する必要があります。

この世界への深い愛着は、人を閉じ込める頑丈な縄であることがわかります。ほとんどの人は、この世俗的な愛着を全力で保持します。すべてが自分の中に存在すると信じています。そのような人は、束縛の中で再び生まれ変わります。彼らは再び同じカルマを経験します。それは無限のサイクルになります。自動ボタンをスイッチオンしているようなものです。そのような人は、誕生後無限に同じカルマを経験します。

意識的にそこから離れるべきです。誰でも自分が離れていると考えていますが、再びこのカルマに引き込まれます。「それとは関係がない。私は手を切った」と口では言います。こう言う人は実際には引きずりこまれているのです。いったん愛着を甘やかすと、非常に大きくなります。この輪縄には一度つかまると、決して抜け出せません。

それを断ち切るためには、意図的な努力が必要です。その決然とした試みはそこから逃げるということではありません。この束縛から物理的に単に距離を置くだけでは意味がありません。精神的にも距離を置くべきです。

もし聖者との聖なるつながりに対しても同じ傾向を示すなら、その聖なるつながりは解放への門を開くでしょう!

人間は常に世俗的な執着のことを心配しています。思考は常にそこに集中しています。神への祈りもそういった世俗的な執着と問題についてです。いつもそのことを心配しています。「仕事がまだ途中だ。この仕事はまだ完了していない」それを心配し続けると、皆さん死ぬときにも一緒にその仕事を持っていくことになるとわかっていますか?次の転生でも、この保留中の仕事について心配することになります。そのため、現世でそれを断ち切りなさい。このことについて深く考えるときだけ、バクティの道に足を踏み入れるでしょう。

Titikṣavaḥ kāruṇikāḥ suhṛdaḥ sarva-dehinām
Ajāta-śatravaḥ śāntāḥ sādhavaḥ sādhu-bhūṣaṇāḥ

忍耐は聖者に見られる高潔な美徳です。聖者たちは存在すべてに対して慈悲の心を持ち、助けるために奮闘します。この世界では、いまだかつてそういった聖人は無敵でした。これまでも、これからもそうです。

聖人のような本性を持っている人は、この宇宙の存在に対して敵意を抱くことはありません!彼らの目には誰もが平等にみえます。すべての存在に対する慈悲の心を持っています。バクティの道にいる人は、そのような特性を必ずたたき込むべきです。

アチュターヤ・ナマハ

続く

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