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シュリーマド・バーガヴァタム 第148話

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アチュターヤ・ナマハ

私たちは、聖仙カピラが母親のデーヴァフティにした教えを聞くことができて本当に幸運です。

聖仙カピラは続けました。

「善良な特性は高貴な聖者の装飾です!純粋な心と揺るぎない献身が彼らの際立った特性です。あらゆる形に違いを見ることを放棄し、断固とした崇敬の念をもって『私』に一意専心しています。
時間、場所、状況に関係なく聖なる名前を唱えています。彼らは、旅行していようが、人ごみに紛れていようが、非常に困難に陥っていようが、その焦点を『私』から外しません。クリシュナ、ゴーヴィンダ、ハリの御名を休みなく唱えます。『私』を獲得するために、家族や友人全員を放棄します。見返りのある行動を完全に断念します(カルマ・サンニャーサ)。また欲望を手放します。実際、彼らは私に到達するため、この世界のすべてを放棄します。

Mad-āśrayāḥ kathā mṛṣṭāḥ śṛuṇvanti kathayanti ca
Tapanti vividhās tāpāh naitān mad-gata-cetasaḥ

聖者たちは完全に私に平伏し、いつも私の神の栄光を聞くことに従事しています。神話を聞くことは彼らの唯一の慰みです。何度も疲れることなく同じ話を聞きます。それに満足せずいつも私の栄光について話し続けています。

彼らの心は完全に『私』に定められているので、悲しみから解放されています。例え悲しみの中にあっても心は影響を受けません。

おお高潔な女性よ!これらの世俗的な執着に対して絶対的な無執着を育んだ人だけがサドゥー(聖者)です!人は黄土色のローブを着ているだけでは聖人になりません。その心が全ての対象物から完全に切り離されるべきです。

至高の聖者たちとの交友が、『この世界への執着』と言われるところの欠陥から人を解放します。したがって、聖者との友情を育むことが不可欠です。この関係を通じて、世界への愛着は弱まり始めます。徐々に完全に別れることを学び、すべての束縛を断ち切ります。

聖者との聖なる友情のために、私の話を聞く機会が生じます。私の物語は、マインドとハートに平穏をもたらす私の栄光を説明しています。

心が不純物と悲しみで満たされている人々は、神の物語を決して理解することも楽しむこともできません。常に彼らの心は不必要な話題にのみ飛びつきます。彼らはあきらめるべきものにしがみついています。神の物語をどうやって味わうことができますか?それは不可能です。

あらゆる機会に神とその栄光についてのみ語り、神に完全に没頭している人々にとって、解放の道はすぐに開かれます。そのため聖者と関わるべきです。

グルの近くにいるときは、世俗的なことに焦点を向けてはいけません。神の臨在においてさえ世俗的な困難や問題にだけ注意が向けられている場合、そのような人は決して解放に達することができません。おそらく彼らはいくつかの些細な問題を解決するでしょう。しかし真の至福は、純粋な崇敬の念と献身によって、世俗的な束縛を完全に放棄した場合にのみ得られます。サットサンガ(聖なる交友)によって崇敬の念は最高の段階に達します。

私のこの創造を熟考することによって、私に対する崇敬の念は強まります。この創造を詳細に観察しなさい。物がどのように創造されたか、生物がどのように維持されているかよく理解するようにしなさい。物体を大地に留め続ける力とは何でしょう?重力とは何を意味するのでしょうか?これらの惑星と星座は、どのようにして軌道の中に保持されていますか?あなたが創造の中でこれらの不思議について深く熟考するにつれて、崇敬の念は増加します。

創造に隠された秘密について考えることは、私について考えることと同等です!このため、この世界と来世の快適さに対する傾向は軽減されます。その人は感覚的な満足から距離を置くでしょう。それから、彼は絶対的な献身でヨーガの道に足を踏み入れるでしょう。

この局面では、献身と崇敬の念が重要な前提条件です。軽い態度や不注意な態度は、求められる結果をもたらしません。

ある科学者が新しい考えを思いつくことを想定してみてください。彼は、「この考えはどこから来たのだろうか」と考えるはずです。誰が彼にこの考えを引き起こしたのですか?突然の閃きであると信じるなら、「閃き」がパラマートマであることを理解してください。もし彼が研究と調査の結果であると言うならば、その「研究」はパラマートマです。では、その研究はそもそもどこから始まったのでしょうか?このようにして、軽く見ることなしに一歩ずつ対象を深く掘り下げていくのです。これを行うと、心に秘密が明らかになり始め、計り知れない驚きが起こります!

崇敬の念の道では、シンプルな道具を通じて、心をコントロールする必要があります。ヨーギはパラマートマに心を定めようとします。実際には何も存在しません。無に自分自身を定めて没入します。これ自体が解放です!

すべての人は、根本原質(自然)と、サットヴァ、ラジャス、タマスの三つの構成要素から生じるこれらの世俗的な快適さに対して無関心を育むべきです。自然から生じる心地よさとはどういうことですか?花を摘むことを想像します。あなたは、感覚器官を通して、その色や香りを楽しみます。そうすることにより、あなたは自然から生じる世俗的な安らぎに閉じ込められます。言い換えれば、あなたはすべり落ちたのです。代わりに、花を見て、主の創造を称賛してください。感覚器官を通してその香りと美しさを楽しんではいけません。

このため、マハートマたちは食べるときに異なる料理を混ぜるだけです。彼らは特定の味を楽しむことを求めません。食べものの味を楽しむことは正しくありません。聖者にとって、そのような味は完全に死んでいます。これに限りません!そのような聖者にとっては、聞くこと、見ること、香りをかぐことも、そういった楽しさは死んでいます。彼らはそれでも物を食べ、聞き、見て、香りを嗅ぎ続けていますが、それらに対する執着はゼロです。

したがって、自然に属する対象物への執着は完全に放棄されるべきです!これは非常に重要なポイントです。何度も何度もこの点を熟考する必要があります。

アチュターヤ・ナマハ

続く

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