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シュリーマド・バーガヴァタム 第149話

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「自然に属する対象物への執着は完全に放棄する必要があります!無執着は、霊性の知識(ジニャーナ)の永遠の味方になるはずです。言い換えれば、霊性の知識(ジニャーナ)を獲得するとともに、無執着(ヴァイラーギャ)を培う必要があります。

ヨーガの探求に加えて、人が完全に私に全託するなら、その人生において、その人は自分自身の内なる真我という形で私に到達するでしょう」と聖仙カピラは説きました。

これを聴いて、デーヴァフティは尋ねました、「どの種類の信愛(バクティ)が解放を得るのに役立ちますか?主よ、あなたの蓮華の御足を簡単に手に入れることができるのはどの信愛(バクティ)でしょうか?

私は悲しみを洗い流そうとしています。未知の不安に悩まされています。私はいつも悲嘆し、恐れています。私はまだ世俗的な快適さに浸りたいと思っています。同時に、私は困難に陥ったことを悲しんでいます。私の最も近しき身内が私を捨て、去ってしまったという悲しみを克服することができません。事態が私の手に負える範疇にないので、私はいらだっています。

主カピラよ!比類のない純粋な至福が姿として現れ、今私の目の前に座っています!私はあなたを見ていません、私の前に座っている至福を見ています。

主よ、あなたが説いたヨーガは、至高の主に向けた矢のようなものです。そのような矢が私のハートに直接突き刺さり、真我の知識を生むでしょう。それは神を獲得するのに役立ちます。このヨーガの形について説明してください。どの類のものですか?

シュリ・ハリよ!私は機転が利かず、知識に乏しい女です。このヨーガを理解することは非常に難しいことはわかります。しかし、あなたの恩寵によって、私はそれを簡単に理解できます。これについて詳しく説明してください」

カピラは母デーヴァフティから生まれた息子であるので、母の気持ちを理解しました。彼女がこの様に質問したとき、彼は非常に嬉しく思いました。それゆえ、彼は彼女に、サーンキヤ・シャーストラとして広く知れ渡る哲学を詳細に説明しました。さらに、彼はバクティ(信愛の道)についても詳しく説明しました。

聖仙カピラは、「心が主に完全に定まっている霊性志向者の知覚器官(ジニャーネーンドリヤ)と行為器官(カルメーンドリヤ)は、ヴェーダによって規定された正しい行為に常に傾倒しています。

シュリ・ハリは、主に善良さと純粋さ(サットヴァ)の化身です。何の期待もなく、神に仕え、神を礼拝し、神について語り、神について考え、その栄光を歌うことは、真の献身です!これは、バガヴァッド・バクティと呼ばれます。そのようなバクティ(信愛)は、最高のヨーガです!

食べ物を消化する際に働く火が私たちの食事を助けるのと同じように、そのようなバクティ(信愛)は私たちの過去の果報ある行動の微細な印象の貯蔵庫でしかない、微細な身体をすぐに焼き尽くします。

このように成熟したバクティ(信愛)の状態にある人は、生きている間に解放されます!彼はその後、身体を持たずに一つになること(ヴィデーハ・ムクティ)を達成します!これを理解する必要があります。

私の蓮華の足に奉仕することを望んでいる帰依者の中には、私に愛される行動をするためだけに感覚器官を捧げている人もいます!彼らは私にすべての行為を差し出します。このように完全に主に仕えることに熱心な帰依者は、私と一つになろうとすらしません。彼らは私の神の栄光を歌うことに永遠に携わっています。それが彼らの唯一の娯楽なのです。

母よ!喜びに溢れた顔、魅力的な笑顔、赤みがかった美しい目をした私の神の姿は、常に帰依者に恩恵を与えます。私の帰依者はそのような姿を賞賛し、愛情を込めて私に話します。彼らは心の中で私と会話しています。彼らはすべての家事を、わたしを喜ばせるための仕事だと考えています。

美しく均整の取れた四肢、心地よい見た目、魅力的な笑顔を備えた私の超越的な姿は、高貴な聖人の心を奪います。私の神話と私の耳当たりの良い言葉は彼らの心を引き付けます。その結果、そのような高貴な存在の心はあちらこちらに走り回ることはありません。そのようなバクティ(信愛)は、パラブラフマーへの統合として知られる最高の解放を彼らに授けます。

そのような帰依者は至高の天界の喜びさえも求めません。また、アニマなどの超自然的力の成就を追求することもありません。彼らは最良最高の喜びさえ求めません。なぜ彼らが些細な取るに足らない慰めを求めるのでしょうか?

彼らは天国の喜びの存在にさえ気づきません。彼らの視線は私に完全に定められていることでしょう。彼らは、私が根源であることを理解しているため、他の対象物に関心を示しません。そのような人たちは、ヴァイクンタと呼ばれる私の住まいを手に入れます。そこには、ほんの僅かな悲しみの痕跡さえありません。

私はすべての人の中に存在する真我です。完全にひれ伏す感情とともに、私への無限の愛を育て、私を自分の息子と信じて心に抱き、私を永遠の信頼によって親友とみなし、私を自分のグルとして尊敬し、私を吉祥なものとして受け入れ、私を神として崇拝する帰依者は決して敗北をきたすことはありません」

アチュターヤ・ナマハ

続く

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