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シュリーマド・バーガヴァタム 第153話

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インドラは物を保持するエネルギーとともに、主の手に入りました。ヴィシュヌは運動の力とともに、主の足に入りました。川の神々は血とともに主の血管にはいりました。海の主は、飢え、喉の渇きとともに宇宙の主のおなかに入りました。しかし宇宙の主はまだ起きませんでした。

月は心とともに、ブラフマは知性とともに、ルドラ(シヴァ)は自我意識とともに主に入りましたが、無駄でした。
しかし、意識(チッタ)の主宰神であるクシェートラグニャ、つまりこの体を異なる存在として知覚する見る者が、意識とともに宇宙の主に入ると、その瞬間に主は目覚めました。主は水から起き上がりました。

エネルギー、心、知性、自我意識などが眠っている人を起こすことができないように、どんなに精を尽くしても、主宰神たちは意識の助けなしには宇宙の主を目覚めさせることはできませんでした。

人間は、絶対なる信愛の思いと、プラクリティとプルシャの原理を理解することで、完全な無執着を培う必要があります。それからヨーガから生まれる一点集中の知性(ブッディ)で、個別の真我の形で体の中に存在する主を見る必要があります。

物語の形式で基礎的な原理が説明されてきました。しかしどうやって神は眠ることができるのでしょう?主宰神たちが主の中に入り、主を目覚めさせようとすることの意味とは何でしょう?
それは、個人の中の霊的知識を目覚めさせる必要があるということです。これが宇宙の主を目覚めさせることの意味です。個人の中の霊的知識をどうやって目覚めさせるべきなのでしょう?どんな方法でしょう?人間は自分自身の体の全ての手足にどうやって入るというのでしょうか?この事について詳しく説明します。

個々人の存在の目的とは、その人自身の中に個々の真我として存在する至高の主のダルシャン(謁見、一瞥)を持つことです。
これで第三編の第二十六章は終わります。

第三編 第二十七章

プラクリティ/プルシャ(根本原質/真我)の知識を通して解放(モークシャ)に達することについて説明されます。バクティ・ヨーガで幻想が破壊される方法も説明されます。
カピラ・マハルシは教えを続けました。「おお、母よ、真我(プルシャ)は変容の対象にはなりません。(不変) 真我には行為がありません。また属性もないのです。

太陽が水面に映る反射と関係がないように、この「真我」そのものは、根本原質(プラクリティ)から創造されたこの体に避難所を持ってはいますが、トリグナから生まれる喜び/悲しみ、徳/罪のような二元性に結びつくことはありません。
真我(プルシャ)の知性が、私という感覚(アハンカーラ)によって心酔(モーハ)で曇ってしまっているとき、また、自然(トリグナ)の三つの属性に傾倒していくにつれて、「私がその行動をとっている」という思いがその人に生まれるのです!

私という感覚が生まれて、この体でなされる善行と悪行の結果を刈り取り始めます!
その人は自由を失い、良い転生、悪い転生、その両方が交じり合った転生を得ます。人間や動物、天人で生まれて、繰り返される転生のサイクルにつかまってしまい、悔やみます。本当の幸せから離れてしまいます。
生と死が繰り返されるこのサムサーラ(輪廻転生)は本当は実在していません。しかし、完全に物質的な快適さに傾倒している束縛された魂は、この再生誕とその苦しみから逃れることができません。

霊的な志向者はどのように行動すればよいのでしょうか?その規則が明示されます。

Ata eva śanaiś cittaṁ prasaktam asatāṁ pathi
Bhakti-yogena tīvreṇa viraktyā ca nayed vaśam

このようにこれらの邪悪な感覚的悦びに深く結びついてしまった心は、バクティ・ヨーガと無執着(ヴァイラーギャ)の熱心な実践で徐々に統御される必要があります。

霊的な志向者は、利己的な期待をもたずに愛をもって、私の話だけを聴くべきです。それに加えて、ヤマ(訓戒)、ニヤマ(遵守)などの規律とともにヨーガの道を歩む必要があります。

Sarva-bhūta-samatvena nirvaireṇa-aprasaṅgataḥ
Brahmacaryeṇa maunena sva-dharmeṇa balīyasā

生きとし生けるものに対する完全な調和の思いで、霊的志向者は、生きとし生けるものの中に純粋な意識の形として存在する、至高の主を見るべきです。そのような態度で、憎しみの思いを取り除く必要があります。世俗的な事への無執着を発達させるべきです。禁欲と沈黙(モウナ)の実践は必須です!過度の友情を持たずに、穏やかで幸せな心を持ち続ける必要があります。懸命に自分の義務を遂行しなければなりません。

過去の善行と悪行の結果として舞い込んでくるものに満足する必要があります。適度に食べなければなりません。至高の真髄を熟考しながら、一人で暮らすべきです。

好き嫌いをやめて、すべての人を等しく愛し、すべての人への慈悲の思いを持たなければなりません。成就に達したと固く信じて、「私はあの行動を完了できなかった」と嘆くのをやめなければなりません。そのような恐怖は捨てるべきです。

プラクリティ‐プルシャの原理を理解した真に聡明な人(ジュニャーニ)は、体またはそれに関連することに関して、「私」や「私のもの」という誤った知識から解放されています!

その人は目覚めの段階、夢見の段階、その他の段階が知性にだけに適用され、真我には適用されないのをわかっています。この創造の世界には、イーシュヴァラ以外には何も存在しないことを理解しています。

太陽は目の主宰神です。目自体でこの主宰神を見るように、ジュニャーニは純粋な心で、真我として内に存在する主を見ます。主に全託し、解放を達成します!

その人は個別の存在は、内なる心の純粋意識の反映に他ならないことを理解しています!

肉体を離れた後に、この純粋意識とともに存在が一体性に到達し、意識が一時的な宇宙全体に浸透し、照らしていることを理解しています。それが非二元であることを理解しています。

ケーシャヴァーヤ・ナマハ

続く

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