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シュリーマド・バーガヴァタム 第166話

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死とは、肉体と内なる存在の両方が行為する力を失う時を言います。そして、誕生とは、肉体と内なる存在が再び一つになって行為する力を得る時を言います。

「肉体」とは、その存在が外にあるものを知覚できるようにするものです。ある時点になると、肉体はこの力を失います。それが死と言われているものです。

「これが私だ」という感覚で肉体を見て、この肉体という媒体を介して、全てのものを見ることを「誕生」と言います!

目の疾患により視力が低下すると、内なる視覚(チャクシュ・インドリヤ)も視力を失います。目と視覚の両方が機能しなくなる時、人は視力も失うということを理解しなければなりません。同様に、肉体が世の中を知覚する力を失う時を死と言います。誕生と死は、肉体(ウパーディ)にのみ属しているということを理解してください。

Tasmān na kāryaḥ santrāso na kārpaṇyaṁ na sambhramaḥ
Buddhvā jīva-gatiṁ dhīro mukta-saṅgaś cared iha

それゆえに、賢者は恐れを抱いたり、気弱になってはいけません。そして、俗事に夢中になる気持ちが己の中に入り込んでくるのを許してはいけません。己が真我(アートマ)であることを理解して、この世に対する気持ちを手放さなければなりません。

この世、そして、この世に束縛されることは、全くの幻想です。この肉体も幻想です。それゆえに、主の御足に至らんと欲する者は、創造において、何が永遠のもので、何がその場限りのものなのかを識別(ニティヤ・アニティヤ・ヴァストゥ・ヴィヴェーカ)できるように励まなければなりません。

これと同時に、人は、世の中に対して超然とした態度でいることを訓練しなければなりません。そして、日常生活の中で、己の肉体に抱いている偽我を手放していかなければなりません。

第三巻、第三十一章はこれで終わりです。

第三巻、第三十二章です。

この章では、徳の道を守る人が昇っていく高次の世界が説明されます。さらに、信仰の道の偉大さや、無知な人が生命の車輪を回転し続ける様子が描かれています。

カピラ・マハルシは続けました、「家住者は、日常的に果報を生み出す活動に従事していて、その結果として生じる恩恵である、物質的な繁栄(アルタ)や欲求の達成(カルマ)を享受しています。彼は、果報を生み出す同じ行為を繰り返し行って、同じサイクルを続けています。そして、欲求という媒体を介して、世俗への束縛という罠に捕まっています。(果報を生み出す行為とは、結果に対して何かを期待して行われる行為です。)

欲望が強くなっていくために、彼は、主に対する純粋な愛の信仰の道から外れていきます。その代わりに、感覚を満足させることに熱心になっていくため、神々や先祖を崇めるための儀式や供犠を執り行うことに専念します。儀式によってそうした存在を喜ばすことが、彼の人生になります。そして、この行為に献身的であり続けるのです。

このような人は、肉体を離れた後、チャンドラ・ローカ(月の世界)へ到達して、そこで甘露を味わいます。そして、功徳(プンヤ)が尽きると、地上に再生します。

崩壊の時であるカルパの終わりになると、シュリハリは、蛇の寝床で休まれます。その時、物質的な家住者が救いを求めている、こうした様々な階層の全てが、主に吸収されていきます。

これとは対照的に、主の純粋な信者は、物質的な繁栄(アルタ)や欲求の達成(カルマ)という形では行為に対する果報を味わいたいとは思いません!彼らは、感覚を満足させたいとは思いませんし、俗事に傾いていくことはありません!

彼らの内なる心は純粋であるため、サルヴァ・カルマ・サンニャーサ(果報を生み出す行為を完全に放棄すること)に献身奉仕しています。彼らには、自我意識(私)や愛着がありません。彼らは、常に放棄(サンニャーサ)に専念しています。このように彼らの内なる心が純粋なのは、己のダルマ(スワーダルマ)を守って精進しているためです!

主の純粋な信者は、肉体を離れた後、偏在して創造の全てを司る主シュリハリと一つになるために、明るく照らされた道(太陽の世界)を通って移行します。彼らは、最高の段階であるサティヤ・ローカに到達して、そこで主を崇拝し続けます。

この完全なる主が、創造の物質的原因(ウパーダーナ・カーラナ)です。主が創造と破壊を意図されると、主はその手段となる/効率的な原因(ニミッタ・カーラナ)にもなります。

ヒラニヤガルバとも呼ばれるブラフマーの寿命は、二回のパラールタ(ブラフマーの時間で五十年が二回)の期間です。ブラフマーは寿命が尽きると、至高の主に溶け込んでいきます。

トリグナが充満するこの宇宙全体を創造された主の中の主は、自らヒラニヤガルバを創造されて、その支配期間を楽しまれます。その後、自我意識(私)が満ち満ちていて、地、水、火、風、空、心、感覚、微細な知覚で出来ている、この創造全体を破壊することを決められます。主は、このように意図されると、絶対的な無性無相の至高の存在であるパラブラフマーに溶け込んでいきます。

ヒラニヤガルバが主に溶け込むと、サティヤ・ローカの住人であるヨーギもまた、肉体を捨てて、主に溶け込んでいきます。彼らは、完全に世俗を放棄して、すでに生命と心を克服していますが、己の中に自我意識(私)が残っているために、その時まで主に溶け込むことができないのです。

Atha taṁ sarva-bhūtānāṁ hṛt-padmeṣu kṛtālayam
Śrutānubhāvaṁ śaraṇaṁ vraja bhāvena bhāmini

おお母よ!私はあなたに、全ての存在のハートにおられる至高の主、シュリハリの栄光についてお話ししました。どうか、主に完全な信仰心を抱いて、全てを委ねてください。

主ブラフマーは、ヴェーダの権化であり、生物無生物の全存在の原因です。主は、自我のない無執着の行為(ニシュカーマ・カルマ)を媒体として、根源の至高の存在である、有形・有性神の主ナーラーヤナに溶け込んでいきます。ブラフマーは、マリーチ等の聖仙、偉大なるヨーゲーシュワラ、サナカ等の卓越した聡明な聖仙、ヨーガを完成させたシッダ・プルシャと共に主ナーラーヤナと一つになるのです。

しかし、ブラフマーの中には、二元性の感覚、肉体に対する偽我、行為者という感覚がまだ残っています。このため、創造が始まる時、物質自然の三性質(トリグナ)の均衡が崩れるや否や、ブラフマーは、至高の主の命令により、以前に行ったのと同じ創造の仕事を始めます。そして、再びこの世界として顕現するのです。

ヴァースデーヴァーヤ・ナマハ

続く

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