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シュリーマド・バーガヴァタム 第167話

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ダルマを守り、果報的な(果報を期待した)行為をすることなく、至高の主とすでに一つになっている称賛に値する人たちも、創造の時、以前と同じ役職で誕生します。

この世の欲望に熱中している人たちは、ヴェーダで定められている義務を怠って、その代わりに、己の欲望を満たす行為に関わっていきます。激情だらけの彼らの心は、己の欲望を満たすことのみに専心しています。よって、彼らは、感覚を支配することができません。彼らは、家庭やその他の世俗の活動に対する欲望のみに関心を寄せています。こうした人たちは、先祖を崇拝しています。

悪魔マドゥを滅ぼしたシュリハリは、この上なく勇敢です。そして、主の信者のこの世の束縛を断ち切ってくれます。しかし、物質的な富(アルタ)や欲望を満たすこと(カーマ)のみに心を捧げている人たちは、主の話や栄光に耳を傾けることはありません。

豚は美味しい食べ物には目もくれず、糞のような不浄な食べ物を食べることを好みます。同様に、主シュリハリの話を聞く代わりに、不潔で不浄な話を聞くことに時間を費やすような人たちは、これまでの運命の結果(プラーラブダ・カルマ)、完全に滅亡させられてしまいます。

このような物質的な人たちは、受胎の時の儀式から葬儀に至るまで、何一つ滞ることなくしっかりと執り行います。彼らは、肉体を離れた後、南の道を通って、ピトリ・ローカ(先祖の世界)に到達します。そして、功徳(プンヤ)が尽きると、再び地上に戻ってきて同じ家系に再生します。

おお母よ!その者は、プンヤ(功徳)がある限りは天上界の贅沢を楽しみます。しかし、功徳が尽きるや否や、神々から先祖の世界(ピトリ・ローカ)から追い出され、なすすべもなくこの世に下落して、そして再生するのです。

Tasmāt tvaṁ sarva-bhāvena bhajasva parameṣṭhinam
Tad-guṇāśrayayā bhaktyā bhajanīya-padāmbujam

それゆえに、おお母よ、溢れんばかりの愛を捧げて、そして、心、思考、行為をこの上なく純粋にして、至高の主の蓮華の御足に奉仕してください! 愛と優しさに満ち溢れる献身奉仕を行って、主を崇拝してください!主の蓮華の御足は崇めるに値します!

偏在する主にゆるぎない信仰を捧げれば、離欲(ヴァイラーギャ)と悟りに至る至高の叡智の両方が呼び起こされるのです!

心は、感覚器官を通して、この世に関する音等の知覚を把握します。しかし、好き嫌いの感情を一切捨てて、ヨーガの行者の心を持って、この世の全ては至高の主の顕現であると理解するならば、人は、己の真我の、真実の形相を覚ることができるでしょう。

彼は、真我は、純粋で、執着なく、全ての事物に等しく存在し、無性であることを理解するでしょう。この理解に到達すれば、己の根源である真我と一体化します!これが究極の状態です。

Jñāna-mātraṁ paraṁ brahma paramātmeśvaraḥ pumān
Dṛśy-ādibhiḥ pṛthag bhāvair bhagavān eka īyate

全ての聖典(シャスートラ)は、叡智であり、全宇宙の支配者である至高の主(バガヴァーン)の一元性について説明しています。至高の主は、物質自然を超越し、その本質は比類なきものです。そして、パラマートマ、イーシュワラ、パラブラフマー、プルシャ(真我)とも呼ばれています。

至高の主自らが、目に見える世界、この世界を見ている存在、そして、この世界を見るための感覚として輝いています。
ヨーガを修行して得られる究極の無比の果報は、完全なる無執着です!これは最高にすばらしい結果です!

叡智の権化である、無性無相の一元なる至高の主は、創造において実在する一者なのです!しかしながら、感覚が、名称や形相と関わり合うために、外の事物へ向かっていくようになって、惑わされてしまい、様々な特質と特色を持つ多様な事物を認識するのです。

自ら光り輝くパラブラフマーは、マハー・タットヴァ、アハンカーラ(自我)、物質自然の三性質(トリグナ)、五大元素、そして、五つの知覚器官、五つの行動器官、心という十一の器官に変化していきます。

この十一の特質を伴って、パラブラフマーは、個別の存在として顕現します。世界全体が一つの塊として見られた時、サミーシュティ、すなわち、主の普遍的形相と呼ばれます。これがヒラニヤガルバです。

この理由は、個別の存在も普遍的な存在も、パラブラフマーという唯一の根源から生まれてきているからです。

Etad vai śraddhayā bhaktyā yogābhyāsena nityaśaḥ
Samāhitātmā niḥsaṅgo viraktyā paripaśyati

主の信者は、完全なる心の平安とヨーガを実践して、己の内なる心を浄化しているため、実際に世界全体を至高の主の形相として認識することができるのです!

おお母よ!このように、私は、あなたに真我の達成の助けとなる叡智(ジュニャーナ)という道具をお教えしてきました。この助けを借りて、主の信者は、プラクリティとプルシャ(物質自然と真我)の原理を理解するのです。

無性の主(ニルグナ・ブラフマー)は、叡智の道(ジュニャーナ・ヨーガ)の到達点です。特質を持つ主(サグナ・ブラフマー)は、信仰の道(バクティ・ヨーガ)の到達点です。

バクティ・ヨーガでは、私のみに心を固定します。この二つの道が最終的にたどり着くのは、同じ一つの目的地です。「バガヴァーン」という言葉は、この本質を説明しています。言い換えれば、神に到達することが、バクティ・ヨーガとジュニャーナ・ヨーガの唯一の成果であると理解してください。

ある一つの事物は、味、形、性質の収容所となります。つまり、それは、様々な感覚器官に働きかけ、様々に経験されるということです。目でその美しい色を楽しみ、舌でそれを美味しいと知覚するというようなものです。同様に、一者である神の概念は、様々な聖典によって、様々に説明されています。

アニルッダーヤ・ナマハ

続く

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