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ダッタ・スタヴァの唱え方(第一詩句)

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Dattātreyaṃ mahātmānam varadam bhaktavatsalaṃ
Prapannārti haram vande smaṛtrgāmi sano’vatu ǀǀ
ダッタートレーヤン マハートマーナム ヴァラダム バクタヴァトゥサラン
プラパンナールティ ハラム ヴァンデー スマルトルガーミ サノーヴァトゥ

「ダッタートレーヤ」という言葉の意味については話しました。それは称号であり、名前ではないことを理解しました。ダッタートレーヤは「アトリの贈り物」という意味です。
この世界の何かの存在や物を理解する方法は、名前と形の二つだけです。名前と形がないと理解するのは不可能です。三つ目の手段はありません。これまでこの主に名前がないということを理解してきました。そこで主を理解するために、主の姿に焦点を合わせる必要があることがわかります。主の姿(ルーパ)を理解してみましょう。

主が三つの頭を持っていることを皆さんは知っています。このことから主が三柱の神だけから来ている推測できるのでしょうか?いいえ、違います。前に話しましたが、3億3千万の神々が三柱の主要な神の媒体として、神々自身を三つの頭を持った姿でマハルシ・アトリに贈ったのです。この姿を主は取りましたが、彼の本来の姿ではありません。ですからこの主について詳しく学ぶためには、本来の姿(スヴァ・ルーパ)を知ることが不可欠です。この句で、主のスヴァルーパは「マハートマーナン」という言葉で説明されています。

最近ではマハートマという用語の重要性が失われてしまっています。マハートマと呼ばれる人を見下したり、北インドで見られるように、サフラン色の布を巻いている全ての人をマハートマと呼んだりします。サフランの布を巻いてルドラクシャの長いビーズをつけて、長い髭や髪の毛をしている人を、その称号に値するかに関係なく、マハートマやサドゥーとみなします。南インドでは別のおかしな風習があります。奇跡を行う人、つまりコインやコーヒーの粉を出す人は誰でもマハートマと呼ばれます。現在のおかしな状況です。このどれもマハートマという用語にふさわしい定義ではありません。ではマハートマとは誰のことでしょう?

Mahātmānaṃ マハートマーナン
アートマ(自己)が分割されず、全創造であり、この創造の中の全てにアートマ(自己)を見る人、その人が本当のマハートマです。またアンタルヤーミ(内なる存在)またはサークシ(目撃者)とも呼ばれます。これが主ダッタートレーヤの本来の姿(スヴァルーパ)です。
そのためダッタが普通の存在だと思わないようにしてください。サフラン色の布をまとって歩き回ったり、奇跡を行ったりしません。ダッタに加護を求めること自体が素晴らしい奇跡です!ダッタは創造のいたるところに自身を見ます。どこにでも存在します。前回、話したようにこれが名前を持たない主の姿なのです。

スワミ・ヴァースデーヴァ・サラスワティがこの主が名前も形もないことを強調し、詩句は、「ダッタートレーヤ・マハートマーナン」という言葉で始まります。そのような主から得ることができる恩恵とは何でしょうか? このことがここで説明されます。

varadam ヴァラダム:願いを叶えるもの

bhaktavatsalaṃ バクタヴァトゥサラム:信奉者に愛と愛情の優しい思いを持ち、自分の子どもとして見るもの。ここでは信奉者に父親のような愛を注いでいることを理解する必要があります。それは単なる愛や愛情よりはるかに優れたものです。

ヴァラダムとは、一般的に私たちの全ての願いを叶える主として理解されています。
この句の内的な真の意味は、信奉者たちにふさわしい最も吉祥なものを授けるものという意味です。言い換えると、信奉者が求める願いを与えつつも、その人に最もふさわしいものだけを授けるのです。単に信奉者が求める全てを与えるのではないと理解しなければなりません。主は最もふさわしいものを理解し、それに応じて授けます。これは主の慈悲です。闇雲に私たちの欲望一つ一つを叶えていたら、猿と同じになってしまいます。私たちは何が必要であって何が必要でないのかを知りません。

そのため「おお、主よ、私にふさわしいもの何でも与えてください。あなたの好きなようにしてください、おお主よ。私がお願いしないものでもです。与えてくださるのがいいと思われるなら与えてください。でなければ自分が持っているもので満足です。私を泣かせたいと思われるなら、それも受け入れます。あなたが私に選んでくださった道として受け入れます。私を笑わせたいのでしたら、それが私にふさわしい道だと信じてそれを続けます。ですが涙の道を進むべきだと思われるなら、小さなお願いがあります。その痛みに耐えられるだけの強さをください。全ての痛み、全ての障害に耐えられる強さを私にくださる限り耐えることができます。でも、おお主よ、その痛みを感じたり、泣いているときであっても、私に叡智(ジュニャーナ)をください」と祈るのが最良です。

信奉者は皆このような方法で祈ることを学ばなければなりません。私たちはカルマを取り除かなければなりません。逃げ道はありません。悲しみが無くなるようにとか、生涯幸せであるべきだなどと祈ってはいけません。だれがあなたのカルマを完了させてくれるのでしょうか?
第二に全ての欲望があなたにとって良いわけではありません。小さな子どもが刃物で遊んでいると思ってみてください。お母さんは子どもから刃物を取り上げるでしょう。これと同じようにみなさんの欲望は刃物のようなものです。それが刃物だと気づいていません。欲望が満たされると、傷をつけ害を与えるでしょう。ですからそのような欲望は満たされないままにしておくことが最良です。その欲望から何の利益もなければ、叶ってもあなたを完全に駄目にする可能性があるのです。ですから神は何が信奉者にとって吉祥なのか判断して、それによって与える責任を負っています。

Prapannārti haram プラパンナールティ・ハラン:彼に完全に全託した(プラパンナ)人の苦しみ(アールティ)を消し去ります(ハラン)。
この主は願いを叶える上に困難も消し去ってくれるのかと皆さんは尋ねるはずです。主は確かに消してくれますが、これについてはある条件があります。あなたが本当に全託した(プラパンナ)ときだけ主は喜びます。心を込めて全託する必要があります。それは心からあなたの責任を無条件に主に託すべきであるという意味です。
クリシュナは宮廷でドラウパディの救出のために来たことを知っています。ですがいつでしょう?いつ彼女は両手を挙げて全託の思いで「クリシュナ、クリシュナ・・・」と呼んだのでしょう?彼女が闘っているうちはクリシュナは静かに彼女のことを見守っていました。ドラウパディが完全に負けたとき、闘いをやめて主に託しました。それからクリシュナは助けるために駆けつけたのです。

このことから、人は最初に自分の問題に最大限取り組むことを学ばなけれならないことがわかります。それは義務です。あなたの中にあるエネルギーも神が与えたものです。そのためエネルギーを使って問題に取り組みます。でなければ罪と見なされてしまいます。さらにその問題に取り組むエネルギーを自動的に得ることになります。人生の問題の全てや、ささいな義務の全てを完了してもらうために主のところに行ってお願いすることは間違っています。人が一生懸命働いてそのお金で穀物を買ったとします。その人はここで「おお主よ、あなたが私の全責任を負っていますので、私のために来て料理してください」と言うことができますか。あるいは食べ物を何口か口に入れて、「おお主よ、今あなたは口からおなかに食べ物を移動させます。私は飲み込みません。ただ座っています」とはなるでしょうか?これは現実的でしょうか?なぜ最初のところで働いたのですか?あなたは責任を部分的に負うことはできません。主はエネルギーを与えてくれます。「ただ家で座っています、神に何でもやらせよう」と言えるでしょうか?そのような場合、あなたは歩いたり、話したり食べたりする権利はありません。石像のようにただ座っていなければなりません。人生を楽しみ続けながら一方で願いを叶えてもらい、一方であなたの問題の責任を神に担ってもらおうと期待するのは正しくありません。

パラマートマがあなたの責任を担うことを本当に望むのなら、まず完全に全託すること(アートマルパナ)を学ぶ必要があります。力がある限りあなたは戦わなければなりません。それから主の慈悲に全託すべきです。

ある時、地上に狂った僧侶が住んでいました。つねに彼は主の名前「シヴァ、シヴァ・・・」と声に出していました。ある日少年たちがこの狂った僧侶を見つけて、石を投げつけました。シヴァは自分の信奉者が困っているのに気づいて助けに駆けつけました。しかしこの僧侶はしばらくすると石を取って報復し始めたのです。シヴァはすぐに家に戻りました。女神パールヴァティは詳細を知りたがりました。シヴァは答えました。「彼は私を熟考することに完全に没頭していたので、彼を守ることは私の義務だと考えた。それで助けに駆けつけた。だがその後、熟考することをやめ、代わりに自分を守ることに集中した。自分のことを面倒見れるのだから、どうして私がいる必要があろうか?それで戻ったのだ」僧侶が主を思い続けていたら、主シヴァが面倒をみてくれて石で傷つくことはなかったでしょう。このことから完全なる全託の本質を理解する必要があります。

Vande ヴァンデー:この崇敬される主にお辞儀をします。
Smaṛtṛgāmi sano’vatu- スマルトルガーミー・サノーヴァトゥ:呼ぶとすぐに答えてくれる主が私たち皆を守ってくれますように!

『ダッタ・ダルシャナム』では、ダルマキールティ王の話がこの最初の句の本質を引き出しています。有神論と無神論(アースティカ、ナースティカ)の間を絶えず行ったり来たりするダルマキールティ王はある時主ダッタートレーヤに近づいてダルマの知識を与えてくれるように求めました。ダッタートレーヤはしばらく熟考して、ついに教えることに同意しました。ダルマキールティは数日間、主とともに過ごしラージャダルマ(王に適用されるダルマ)を学びました。王国に戻り一定期間、誠実にダルマを固守しました。ですが王は徐々に無神論者の影響を受けました。悪い友人たちの影響を受けて、主から学んだことを全て忘れてしまいました。主自身を忘れるところまでいってしまったのです!主とともに過ごして主から全てのダルマを学んで、長い間ダルマを実践してきた後に、悪い交際のため彼は全てを忘れてしまったのです!もっと重大なことは、彼にダルマを説いた主をも忘れてしまったのです!

信奉者が求めた恩恵が最高のものだったので、主は彼の願いを与えて満たしました。しかし信奉者は主に全託しませんでした。彼はダルマを教えてもらうという願いだけを持っていましたが、将来、悪い時期がやってくることを予想していませんでした。そのため、彼は全託(アートマルパナ)していなかったのです。
悪い交際のため王は悪習にはまっていきました。悪徳に囚われてしまったのです。死が近づいてきたとき、ついに彼は深く後悔しました。最期の時に彼は主に全託しました。彼は至高の主に全託する重要性を理解したのです。

主ダッタは「スマルトルガーミ」であり、呼ばれるとすぐに応えます。王が深い反省と全託の思いでいっぱいになった瞬間、主ダッタは、王の魂(ジーヴィ)が聖者の家の幼な子として生まれることを確実にしました。主は王を良い生まれで祝福しました。これで彼の問題は終わりを迎えました。小さな男の子は、前世の記憶を持ち、悪いつき合いから自身を常に守りました。彼は常に正しい仲間といるようにしました。そのように警戒して、その転生で解放に達しました!
ダルマキールティの話で、主ダッタの全ての定義はヴァラダム(恩寵を授けるもの)バクタ・ヴァトゥサラム(帰依者を自分の子どものように愛するもの)、そしてプラパンナールティ・ハラム(全託する者の全ての困難を消し去るもの)という意味を持ちます。

<続く>

☞ダッタ・スタヴァ(全詩句)
☞ダッタ・スタヴァ 音声(英語表記あり)

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