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ラリタ・サハスラナーマの名の意味151~160

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151. Nirantarā 二ランタラー

意味)
1)彼女は永遠です。
至高のパラブラフマンが、ここでは至高の母である女性の姿で描写され、不死、遍在であり、いかなる限定もありません。

2)ニランタラはその存在のために理由や動機を必要としませんが、他の存在にその機会を与えます。
それは無限の空間が太陽系やその他の創造物がその中に存在する機会を与え、無限の空間自体はその存在のために何にも依存していないのと同様です。

152. Niṣkāraṇā ニシュカーラナー

意味)至高の母は、この創造のための原初のエネルギーであり、彼女の存在について原因(明白な理由、カーラな)を必要としません。

153. Niṣkalaṅkā ニシュカランカー

意味)彼女には完全無欠であり罪がありません。
ここで彼女の純粋な状態が繰り返されています。これは至高の真髄を描写するための強力な名です。

154. Nirupādhiḥ ニルパーディヒ

意味)彼女はウパーディ(乗り物、身体)を欠きます。
その語の通り、全ての存在にとって身体はその中にいる存在を運ぶウパーディ(乗り物、シャリーラ)です。この乗り物の住者(内なる存在)が降りて行ってしまうと、身体はシャヴァ(死体)と呼ばれます。全てに遍在する至高のエネルギーはまったくそのような存在のための乗り物を必要としません。

至高のエネルギーが他者を向上させるために下降し乗り物(身体)を持つとき、それはアヴァターラと呼ばれます。ドゥルガーやチャンディのような姿も他者の利益のために持つ乗り物です。

155. Nirīśvarā ニリーシュヴァラー

意味)彼女に命令することができる支配者(イーシュヴァラ)はいません。
イーシュヴァラは「主・支配者」です。ニル+イーシュヴァラは「支配者がいない」です。これを通して私たちは彼女より大きな力が存在しないことを理解します。彼女は主の中の主であり、指導者の中の指導者です。

ウパニシャッドは述べています。

Na chāsya kashchijjanitā na chādhipah
ナ チャ―スヤ カシュチッジャニター ナ チャーディパハ

意味)至高のエネルギー(至高の母)には父(ジャニタ)も主(アディパ、指導者)もいない。

次に来るいつくかの名は、個人のなかにある「六つの内なる敵(アリシャドヴァルガ)」について教えています。それらを克服する方法も教えています。それらの名は表面上は彼女を非常に称賛しているようですが、実際は人の中にそれらを取り除き、より高みへを登る深い望みを生みます。良い性質を培うために、強い意志で実践することが必須です。クリシュナがアルジュナに次のように語ったとき、このことを強調しました。

‘Abhyāsena tu kaunteya vairāgyena ca grhyate’.
アビヤーセーナ トゥ カウンテーヤ ヴァイラーゲーナ チャ グルヒャテー

156. Nīrāgā ニーラーガー

意味)彼女は好悪や執着などの感覚(ラーガ)を超えています。
(ラーガは人/物に対する愛情、親近感、強い欲求、愛着などの感情であり、ドヴェーシャは、別の人/物に対する嫌悪、憎悪、嫌悪、または反感の感情として理解できます)

ラーガはドヴェーシャの基礎です。ラーガはドヴェーシャに攻撃される前に克服されるべきです。
個人を支配する最初の特徴はラーガ・ドヴェーシャ(好悪)の感覚です。これは「わたし」「わたしの」「わたしの人」「わたしのもの」「わたしが親しい人」「わたしと近い人」という思いが始まる幼少期から始まります。これと共に好悪の感覚が芽吹きます。

そのような状態の中で生きることは壁を作り、その境界の中で生きるようなものです。これらの感覚は人を束縛する精神的な障壁であり、霊的な進歩を妨げます。真の「広い心」はこの精神的観点から来るべきです。その最高の段階では、このラーガがアヌラーガになり、全宇宙と全存在への愛と慈悲がその人を包みます。そのような広い心、普遍的な愛を培うために私たちは人生のあらゆる段階で他者の福祉のために全能者に祈る習慣が求められます。例えば食事の前に私たちは全能の存在に祈り、宇宙の全ての存在がその日の食べ物を得ることができるように祈ります。

戦場においてアルジュナが親類への愛情と慈悲(ダヤ)を表していたのに、クリシュナがアルジュナに武器をとるように教え、扇動したことが疑問に思えるかもしれません。ここで注目すべき重要なことはダルマ(正義)が全てが生じる基本的根源であるということです。ダヤ(慈悲)はダルマの枝にすぎません。主たる根幹であるダルマが根こそぎになるとき、枝である「ダヤ」を守る意味があるでしょうか?

アルジュナの慈悲(ダヤ)は不正(アダルマ)である統治者のもとで苦しんでいる国の市民に向けられるべきであり、彼らの平和を回復することがアルジュナの苦行であるべきです。彼は間違えて親類への慈悲の感覚を持ち、戦いをやめようとしました。これは正しいことではなく、クリシュナがダルマの回復を求めたのは正当なことです。

157. Rāga-mathanī ラーガ・マタニー

意味)彼女は信奉者の中にあるラーガの感覚をかき乱し、それを放棄させるようにします。
彼女はそうすることで信奉者が好悪を超える状態へと進むことを確かにします。

158. Nirmadā ニルマダー

意味)彼女は傲慢さと慢心(マダ)を持ちません。

159. Mada-nāśinī マダ・ナーシニー

1)彼女は信奉者の心を変容させ、マダ(傲慢、慢心)の克服を助けます。
さまざまな慢心があります。ダナ・マダは富を持つことによる傲慢さと慢心です。ヴィディヤ・マダは知識によるものです。他にも権力への慢心などたくさんあります。彼女は信奉者のなかの全ての形のマダを破壊します。

2)マダナーシニーは、マダナ+アシニに分割できます。「マダナ」は心が持つ欲望や意思(サンカルパ)です。「アシニ」は「飲み込むこと」です。彼女は渇望や欲望を飲み込んでしまいます。そのため、できる限り彼女が臨在する場所にいるのが重要です。

3)マダナは「狂気」も意味します。ここでは心を楽しませる様々な精神的な病のことに言及しています。彼女はそれらを引き抜き、信奉者をそのような狂気から自由にします。

160. Niśchintā ニシュチンター

意味)彼女は心配や不安の影響を受けません。
「チンター」は不要な思いや不安であり、それに伴う苦悶や悲しみを含みます。人は心が好むのと逆の出来事が起こるといつもチンタに苦しめられます。そのような心配と悲しみ(チンター)は破壊的であり、危険で有害なものです。

chitā dahati nirjīvam, chintā dahati jīvitam
チンター ダハティ ニルジーヴァム、チンター ダハティ ジーヴィタム

意味)焚き木(チター)は死体を囲み、それを灰にする。しかしチンター(心配、不安)は生きている存在を燃やす。

「チンター」が不要な心配や思いである一方、「チンタナ」は絶対の存在を熟考し反芻する手段です。チンタナは絶対者への道を敷き、チンターは破壊への道を敷きます。

続く

⇒ラリタ・サハスラナーマ目次
※シュリ・スワミジによる『ラリタ・サハスラナーマ』の詠唱アプリはこちらです。
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