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ダッタ・スタヴァの唱え方(第三詩句)

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Śaraṇāgata deenārta paritrāṇa parāyaṇaṃ ǀ
Nārāyaṇaṃ vibhuṃ vande smaṛtrgāmi sano’vatu ǀǀ
シャラナーガタ・ディーナールタ・パリットラーナ・パラーヤナン
ナーラーヤナン・ヴィブン・ヴァンデー・スマルトガーミ・サノーヴァトゥ

「シャラナーガタ・ディーナールタ・パリットラーナ・パラーヤナム」

第一詩句と第二詩句では「プラパンナールティ(全託した人の悲しみを消し去るもの)」と「ディーナ・バンドゥム(苦しみある全ての人の親類)」がお互いに矛盾していないことを理解しました。この第三詩句の「シャラナーガタ・ディーナールタ」はこの推測に終止符を打ちます。
彼は彼に全託し(シャラナーガタ)、苦しんでいる人々(ディーナ)を悲しみ(アールティ)から解放する(パリットラーナ)ために特別な至高の旅(パラーヤナ)を引き受けます。

「ディーナ」という語は貧しい人や、深刻な苦境にある人々を指します。彼らの中で一部の人だけが主に明け渡します(シャラナーガタ)。主に全託した人を助けるためにこの主は特別な至高(パラ)の旅(アーヤーナ)を引き受けます。彼は彼らを助けるために急いでやってきます。彼ははるばるヴァイクンタから急いでやってきます。多くの神話の物語でヴィシュヌ神が、彼の信奉者を救うために急いでやってくるときに彼のチャクラ(円盤)や武器を家に忘れてきてしまった話を読んだことがあります。それは面白い話になっていますが、ここで伝えられている本質は彼の「無限の慈悲」と「熱心な信奉者の救出に急ぐときの迅速さ」です。主に明け渡して主を呼び出すことは完全に私たちの手中にあります。彼の側からの遅れは決してありません。

しかし私たちは心がさまよい、ふさわしい信がなく、エゴがあるために彼を呼び損ないます。それでどうして彼は現れることができるのでしょうか?心の奥底で私たちは彼の能力について議論したり、自分自身の能力にプライドを持っているのです。明け渡して、私たちはゼロ以外のなにものでもないですと宣言しない限りは、彼は助けにくることはありません。このことはバーガヴァタムのガジェーンドラ・モークシャの話で見たことがありませんか?象のガジェーンドラが闘っている限りは主は見ていました。最後にガジェーンドラが泣いて全託したときに、即座に主ヴィシュヌが助けに駆けつけました。
ダッタ・チャリトラでも同じような話があります。
主が呼ばれた瞬間にどうして現れることが可能なのでしょうか?旅する時間が必要ないのはなぜでしょう?この答えは「ナーラーヤナム・ヴィブム」のフレーズに含まれています。

「ナーラーヤナン・ヴィブン・ヴァンデー・スマルトルガーミ・サノーヴァトゥ」

ナーラーヤナは、すべての人間(ナラ)の中に存在するものです。また水の体(海)の中に存在するものです。25のタットヴァ(原理)全てから現れた「ナーラーヤナ」です。全ての生き物に融合するのが「ナーラーヤナ」です。この全ての意味から、ナーラーヤナは全ての状態、全ての時、つまり遍在する主であるということが解釈できます。彼のこの本質は「ヴィブム」という言葉で更に協調されています。
「ヴィブム」とは、全てに遍在する(サルヴァ・ヴャーピ)ものです。
彼は全てに遍在するので、即座に姿を見えるようにすることができるのです。旅する時間を必要としません。
「ヴァンデー」は、彼に礼拝するという意味です。
「スマルトルガーミ・サノーヴァトゥ」。呼ぶとすぐに応えて主が私たちを皆守ってくださいますように!

<続く>

☞ダッタ・スタヴァ(全詩句)
☞ダッタ・スタヴァ 音声(英語表記あり)

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