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ダッタ・スタヴァの唱え方(第九詩句・パラシュルティ)

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Jaya lābha yaśaḥ kāma dātur-dattasya yaḥ stavam ǀ
Bhoga mokṣa pradasyeyam prapaṭet sakṛtī bhavet ǀǀ
ジャヤ・ラーバ・ヤシャハ・カーマ・ダートゥル・ダッタスヤ・ヤハ・スタヴァム
ボーガ・モークシャ・プラダスイェーヤム・プラパテートゥ・サクリティー・バヴェートゥ

これはこの賛美句のパラ・シュルティ(詠唱の成果)です・
人は大抵すぐ結果を求めます。そのためこの句はそのような成果について説明しています。プラサーダム(神への供物のお下がり)やほか他のものを欲しがる人がいます。寺院で配られるクムクムやヴィブーティでは満足しないで、食べられるプラサーダムを探します。お店からプラサーダムを喜んで買おうとしますが、寺院を訪れることの報いがないと不十分に思います。

それでも、祈りから何の成果も求めないと宣言する熱心な信奉者もいます。利己的な動機もなく祈るためこの九番目の句を唱えません。中には祈りの成果として考えて寺院で配られるプラサーダムを拒んだり、クムクム(赤粉)やヴィブーティ(聖灰)をつけるのを拒んだりする人もいます。これは立派な特質ですが、これら全てが祈りの一部であることがわかっていません。寺院に座って、捧げられた花やクムクム(赤粉)、ヴィブーティ(聖灰)、カラカンド(甘いインドのお菓子)を受け取ることは祈りの一部です。それは主へのアルチャナ(念拝)と考えるべきです。それがパラ・シュルティです。
祈りの成果を求めないことは立派なことですが、パラ・シュルティを唱えたくないというのは正しくありません。このパラ・シュルティはマントラの一部でもあるので、義務として唱えなければなりません。祈るときにあえて何の成果を求めなくても、生まれ変わり(ジャンマ・サンサーラ・バンダグナム)から救われることを求めたのだということを忘れてはいけません。そのためこのパラ・シュルティは唱える必要があるのです。

このパラ・シュルティを唱えることによって、このマントラの主宰神への思いが強くなります。言い換えるとパラ・シュルティはこの賛美句を賛美する句です。それ自体がこの賛美句にある力を強化する賛美の句なのです。

寺院で高層のゴープラムを畏敬の念で見上げます。畏敬の思いで見上げるとき、神の偉大さが空間全体に広がっていることを意味してます。それは主がどこにでもいるということを表しています。ですが寺院の境内に入ると、神像は小さなものです。狭い内奥に入るのに、また主にお辞儀をするために屈まなければなりません。神像は小さいものですがその偉大さは遍く広がっています!同じようにこのパラ・シュルティはこの賛美句の重要性と偉大さについて説明しています。

「ジャヤ・ラーバ・ヤシャハ・カーマ・ダートゥル・ダッタスヤ・ヤハ・スタヴァム」:このダッタ・スタヴァムが唱えられるとき、主ダッタは信奉者を勝利、成功、名声、願望成就で祝福します。これが彼の特質です。

「ボーガ・モークシャ・プラダスイェーヤム」:現世での快適さと、解放で信奉者を祝福します。

「プラパテートゥ・サクリティー・バヴェートゥ」:絶え間なく唱えると求めていたもの全てで祝福してくれます。
プラパテートゥは、(賛美句)を繰り返し唱えることです。これには二種類あります。パーラーヤナとして繰り返し唱えることと、唱えるときにその意味を理解しようとしながら唱えることです。この方法が一緒になるときだけ、その人は集中して唱えていると言えます。そうしてこそ本当の「プラパタナム」です。

私たちが唱えている賛美句の意味を理解しようとしなければなりません。バガヴァン・ヴェーダ・ヴィヤーサが、彼が唱える『マハーバーラタ』の句を書き留められるのにふさわしい人物を探していたとき、ガナパティの名前があがりました。速記においてガナパティは比類のない存在でした。マハルシ・ヴィヤーサが一句を完成する前にガナパティは書き終えることができました。ガナパティは同意しましたが一つ条件がありました。「中断なく書き続けないならば、私はただ立ち去ります」と彼は言いました。マハルシ・ヴィヤーサはこれに同意し、逆に「あなたは私が行っていることを理解して書かなければなりません」という条件を出しました。この合意をもとにガナパティは初めに句を理解してから書かなければなりませんでした。

ただ賛美句を唱えるように言われると、普通、人は集中せずに機械的に唱えてしまいます。通行人のことも気になるでしょうし、唱えているときに、周りで起きていることの全てに注意が行ってしまいます。このような詠唱では何の役にも立ちません。「シュリー・マータ」と唱えたり書いたりするときも同じです。プージャーを見て書くのは罪になりません。でも書きながら、誰が座っていて、どこに誰が立って、誰が誰それに話しているのか、議論を観察したりします。「シュリー・マータ」と書くのに慣れた手で機械的に書き続けます。書いているときに携帯で噂話もします。このように唱えること/書くことは許されるのでしょうか? 実際それは罪、ドーシャです。「シュリー・マータ」と書くときは聖なる母に集中しなければなりません。

これを表すためにプラパタナムという言葉が使われています。大人数で唱えるときにも、込められている意味を適切に理解した上で唱えるようにしなければなりません。
プラパタナムの恩恵とは何でしょう?
主ダッタは「サクルティ・バヴェートゥ」で信奉者に報います。それは「クルタクルティヤ」、つまりなされるべき必要なことを正確に行う者になることを意味します。
求める成果に応じて人は働くべきです。ご飯が食べたい人は小麦ではなくお米を買わなければなりません。ラギ・ムッダを食べるにはラギの穀物を買わなければなりません。ラギ・ムッダを食べたいときに小麦を買ってもどうなりますか? 言い換えれば期待される成果に応じた仕事しなければなりません。ですが主ダッタの場合はこの規則は適用されません。勝利(ジャヤ)、利益(ラーバ)、名声や解放など何かを得るために、このダッタ・スタヴァを唱えれば十分です。先に説明されたようにプラパタナム(意味を考えながら繰り返し詠唱すること)を行ってください。そのように詠唱をすることであなたはクルタクルティヤ(為すべきことを為す人)になります。そして全ての願いは成就されます。

ダッタ・スタヴァはそのような至高の作品です。こうした所がこの賛美句の偉大さです。このパラ・シュルティで主ダッタの偉大さを説明して、スワミ・ヴァスデーヴァーナンダ・サラスワティは他にもメッセージを伝えています。それは何でしょう?
まず個人は何かの欲望を持つ必要はないということです。欲望があっても叶えてくれる神を探しに行く必要はありません。欲望については全て忘れ「ダッタ・スタヴァ」を繰り返し唱えなさい。あなたの仕事は全てなされます。
それぞれの望みに対して、それぞれのマントラ、それぞれの神が存在すると言われています。しかしこの場合は望みを忘れて、ダッタ・スタヴァを唱えるように言われています。ダッタは全てを面倒みます。これがダッタの信奉者がダッタに祈る際の方法であるべきです。

グル・シシャ(師と弟子)の関係においても、何か特定の願いを叶えるのを求める代わりに、彼に「おお、サッドグル・デーヴァ!あなたは私に何がふさわしいのかをご存知です。ですから私にとって最良のものを授けてください」と祈るほうがより良いことです。特定の願望成就を求めるなら、その限界が生じます。彼はそれだけを叶えて、静かにしています。他の望みを叶えてもらおうとするなら、また彼を追いかけなければなりませんが、そのとき彼は可能ではないかもしれません。ですからすべてを彼の裁量に任せるのが良いのです。「私にふさわしいものだけを与えてください。あなたは私が望んでいるものをご存知です。どれだけ食べるべきかわからないのですから、何を求めたら良いかわかりません。利己的な望みのために私のところに来た全てを食べ、その結果、苦しい思いをします。どうか私のためにお決めになってください」

九つの詩句全ての意味について述べてきました。もう一度本質をおさらいしてみましょう。

「スマルトルガーミ・サノーヴァトゥ」:この主は名前もなく、姿もなく、住所もないと話し合ってきました。彼は全てに浸透しています。

彼に住所を割り当て「ヴァイクンタ・ヴァーサ・ナマオーム」と言うと、主はヴァイクンタからはるばるやってくることになりますし、「おお、マイソールに住まうダッタ」と言えばダッタはマイソールから飛行機に乗って会いに来なければなりません。一方で「おお、私のハートに住まう主よ」と祈れば彼は即座にそこに姿を現すことができます。

「ダッタートレーヤム・マハートマーナム」という句では、ダッタートレーヤ自身がパラブラフマンであり、自己を明け渡すことは彼に辿り着く唯一の方法だと討議しました。

「ディーナ・バンドゥム」の句では、人間が直面する困難の根源が説明されていて、主が示される慈悲の特質が詳しく述べられています。

「シャラナーガタ・ディーナールタ」の三つ目の句では、主の遍く浸透しているという特質が説明されています。

「サルヴァ―ナルタ・ハラム・デーヴァム」の四つ目の句では、この主を世俗的な願望を得るように礼拝しても、彼はパラマールティカの成果を与えることが説明されています。

「ブラフマンニャム・ダルマ・タットヴァグニャム」の五つ目の句では、主はブラフマ・タットヴァとダルマ・タットヴァの知識を信奉者に与えることが説明されています。

「ショーシャナム・パーパ」の六つ目の句では、この主が信奉者の罪を破壊する方法が見事に語られています。

「サルヴァ・ローガ・プラシャマナム」の七番目の句では、主は信奉者の願望つまり悲しみ/病を破壊して、快適/幸福を得る望みの両方を叶えることが説明されています。

「ジャンマ・サンサーラ・バンダグナム」の八番目の句では、人間としての生まれた最高の目的であるダッタ・タットヴァ、そして主と信奉者の関係性がはっきりと説明されています。

「ジャヤ・ラーバ」の九番目の句は、パラ・シュルティの名前で呼ばれていて、この主が礼拝されるべき方法が実際に説明されています。

このようにこの九つの句はダッタの本質と、ダッタがどのように礼拝されるべきかも極めて明瞭に教えています。心と呼ばれる鏡の中で彼は見えるようになります。この小さいストートラで心に主自身を見えるようにしているのです。

Śri Ganeśāya namaḥ
Śri saraswatye namaḥ
Śri Pādavallabha ṇrusimha Saraswati
Śri Guru Dattatreyaya namaḥ
シュリー・ガネーシャーヤ・ナマハ
シュリー・サラスワティ・ナマハ
シュリ―・パーダヴァッラバ・ナラシンハ・サラスワティ
シュリー・グル・ダッタートレーヤーヤ・ナマハ

☞ダッタ・スタヴァ(全詩句)
☞ダッタ・スタヴァ 音声(英語表記あり)

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