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シュリーマド・バーガヴァタム 第207話

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スワヤンブヴァ・マヌは続けました、「神がこの幻想の世界を司っているのだ。この世界は存在しているように見えても、実際には存在していない。しかし神は永遠の存在だ。至福の権化なのだ。あらゆる種類のエネルギーが、永久に主の奉仕をしているのだ!神に対する自我意識のない愛を育てなさい。こうすることで、お前は、執着や陶酔という形をした霊的無知を断ち切ることができるだろう。

おお皇帝よ!怒りは、人が獲得しうる吉祥のすべての最大の敵だ。病気が治療によって癒されるように、私の教えを噛みしめて怒りを癒すのだ。吉祥なる祝福があらんことを!

どんな生命体であっても、怒りに満ちた人を見ると、恐怖で震える。ゆえに、解放を求める人、他者を恐れさせずに、己も他者を恐れないことを求める聡明な人は、怒りに屈してはならない。

お前はヤクシャに弟を殺されて激怒し、そのヤクシャたちを殺している。そうすることで、お前は、彼らの長であり、この世界の守護神でもあるクベーラを侮辱しているのだ。カイラーサの主であるシヴァは、クベーラを御身の弟のように思っているのだぞ。

我が子よ!激怒した守護神が我々の血統を飲み込んでしまう前に、どうか、敬意のお辞儀を捧げなさい。穏やかな言葉で話しかけて、彼を喜ばせるのだ。」

スワヤンブヴァ・マヌは、このように孫のドゥルヴァを諭しました。ドゥルヴァは、祖父に敬意のお辞儀を捧げました。その後スワヤンブヴァ・マヌはマハルシたちを伴って、その場を出立しました。

第四巻、第十一章はこれで終わりです。
第四巻、第十二章です。

この章では、ドゥルヴァがクベーラ神を喜ばせます。王国に戻った彼は、たくさんのダクシナ(謝礼)を捧げてヤグニャを執り行い、主シュリハリを崇拝します。その後、彼は三界が崇拝し、尊敬する主シュリハリの究極の住まいを獲得します。これは、七人の偉大な聖者でさえも獲得しがたいものなのです。

マイトレーヤ・マハルシは続けました、「クベーラ神は、ドゥルヴァが怒りを手放してヤクシャへの攻撃を中止したことを知ると、彼に会うことを決めました。ヤクシャ、チャーラナ、ガンダルヴァたち(クrベーラ神に仕える副神群)が祈りを捧げる中、彼は前に進みました。

ドゥルヴァはクベーラ神を前にすると即座に、合掌してお辞儀を捧げました。クベーラはドゥルヴァを呼び止めて言いました、「おお皇帝よ!あなたはこの上なく偉大だ。あなたに会うことができて大変嬉しく思っている。敵意や憎悪の感情を手放すのは、非常に難しいことだ。だが、あなたは祖父の忠告に従って、ヤクシャに対する怒りを即座に手放した。

実のところ、あなたはヤクシャを殺してはいなかった。同様に、あなたの弟を殺したのもヤクシャではなかった。あらゆる生命体の生と死に責任があるのは、時間だけだ。

夢の中に出てくるものは全て、その人のものだ。しかし夢の中でも、ある特定の肉体に「私と私のもの」という感情が生じると、それ以外の全てが別個に存在しているように見える。しかしそれは事実ではない。なぜなら、夢の中では、同一人物(夢を見ている人)が様々な登場人物として現れているからだ。

これは、目覚めの状態でも同じことだ!ある人の中で、己の肉体に対する「私」という感覚が大きくなっていく。そのために「私」と「あなた」という違いが生じる。二元性が入り込んでくる。これは実相とはかけ離れている。その根底にあるのは、霊的無知だ。人の中に差別の感覚と二元性があるがために、カルマ的な束縛と輪廻転生が生じる。

おおドゥルヴァよ!王国に戻るのだ。あなたに吉祥なる祝福があるように!おお王よ、主シュリハリは、直接的に目に見える証拠で理解することはできない。主は様々な生命体という形をして私たちの目の前にいる。主の蓮華の御足を熱心に崇拝する人は、輪廻転生の繰り返しから解放される。

神はトリグナ(三性質)で構成される幻想(マーヤー)という媒介を用いて、創造、維持、破壊の仕事を引き受けているが、非二元性であり続けている。幻想は彼に触れることができない。輪廻転生の回転から卒業することを意図して、純粋な心で至高の主に奉仕するのだ。あらゆる生命体を主の顕現として見るようにしなさい。

おおウッタナパーダの息子よ!おおドゥルヴァよ、あなたは賜物を授けられるに値する。私たちは、あなたは蓮の目をした主シュリハリが愛する者だと聞いている。ためらうことなく、どうか、好きなものを何でも求めよ」

主の至高の信奉者であるドゥルヴァは、非常に知的で賢明な人です。王の中の王であるクベーラ神が賜物を選ぶように言った時、彼はこのように答えました、「私は、解放を妨げる霊的無知を追い払うことができるという至高の主の記念品を求めます。そして、霊的無知のために生じてくる輪廻転生の循環を容易に乗り越えられるシュリハリの記念品を求めます。それから、主シュリハリに対するゆるぎない信念で祝福されることを求めます。」

クベーラ神はドゥルヴァの願いを聞いて、大いに喜びました。そして、ドゥルヴァの心が永遠にシュリハリを思うことができるように祝福を与えました。それから、ドゥルヴァが見守る中、そこから姿を消しました。

ドゥルヴァは王国に戻りました。彼は、主シュリハリを喜ばすためにたくさんのヤグニャを執り行いました。そして、多額のダクシナ(謝礼)を捧げました。

ヤグニャ(儀式)は主シュリハリの顕現です。ヤグニャで使用される材料や、ヤグニャの部分と過程もまた、主シュリハリの顕現です。さらには、ヤグニャの果報を授けるのもシュリハリなのです。

Sarvātmany acyute ’sarve tīvraughāṁ bhaktim udvahan
Dadarśātmani bhūteṣu tam evāvasthitaṁ vibhum

シュリハリは、目に見えるあらゆる存在の根底にある大本なのです。あらゆる肉体は神の中で輝いてはいるけれども、実際には神の中にはありません。ドゥルヴァは、絶え間なく流れる献身の思いを主シュリハリのみに結び付けました。そして、遍在する主シュリハリが真我という形で己とこの宇宙のあらゆる創造物の中に存在するという目で世界を見始めました。

献身奉仕が彼の資質の一部となりました。そして、彼はヴェーダの学者たちを礼拝しました。無力な者たちには慈悲を持ちました。ダルマの規則も守りました。国民は皆、彼を父親のように愛していました。

皇帝ドゥルヴァは、徳と不徳の両方を使い果たしつつありました。国王としてある豊かさや快適さを経験しながら、残りの功徳(プンニャ)を使い果たしました。そして、ヤグニャを執り行うことにより、罪の全てを洗い流していったのです。

フリシケーシャーヤ・ナマハ

続く

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