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シュリーマド・バーガヴァタム 第223話

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至高の神は言いました、「賢明で高潔な人たちは、他の生き物に腹を立てることはない。また、他人を騙そうともしない。彼らは人間の中でも最も至高な人たちである。なぜなら、その人たちは、肉体は真我(アートマ)ではないことを理解しているのだから。

私の幻想の魔力にかかって、あなたのような人が誰かに悪意を抱くのならば、長きにわたって年長者たちに奉仕して積んできた功徳は台無しになってしまう。これまでの善行の全てが、ただ時間の無駄になってしまう。

Ataḥ kāyam imaṁ vidvān avidyā-kāma-karmabhiḥ
Ārabdha iti naivāsmin pratibuddho ’nuṣajjate

人は、本来、完全な状態にあることを理解しないがゆえに、己の中に欲望が生じる。欲望を満たそうとして、果報を期待する行動をとるがために、肉体を獲得するに至る。この深遠な真理を理解する知性ある人には、「私と私のもの」という感情や、肉体に対する執着はない。

肉体が己であるという思いを捨てている人は、家、財産、子供、配偶者といった、肉体に関連する事物への執着を自然と手放していく。

肉体は多数あっても、真我は一つである。真我は非二元だ。徳や罪(プンヤとパーパ)とも無関係で、永遠に純粋であり、生来、光り輝いている。真我はトリグナからの避難場所であるが、そこからは独立しているのだ。そして、遍在する存在であり、鑑賞者として全ての行動を永遠に見守っている。

Ya evaṁ santam ātmānam ātma-sthaṁ veda pūruṣaḥ
Nājyate prakṛti-stho ’pi tad-guṇaiḥ sa mayi sthitaḥ

根源なる真我は、「私」という感覚(自我意識)の形をとって、生命体に真我自身の姿を見せている。真我は肉体ではないことを理解している人は、己の根源なる姿(アートマ・ルーパ)であり続けるのだ。その人は、パラブラフマの中に確立している。そして、トリグナ(三原質)からなる肉体の中にあろうとも、肉体があるがゆえに生じてくる徳や罪とも関係なしに生きる。

おお王よ、人は欲望を完全に捨てて、完全なる献身の念を持って己のなすべき仕事を行い、果報を期待することなく私を思う者の心は、次第に純潔になっていく。

純粋な心のヨーガ行者は、トリグナにより生じる喜びや悲しみに影響されることはない。その者の心は、バランスがとれた状態にある。そして、神は遍在することを理解しているがゆえに、世俗の束縛から解放されていくのだ。また、至福という解放を獲得する。その者は、真我である私の中に完全に確立されることだろう。これがアドヴァイタ(非二元性)という境地である。

The Self is changeless and is merely a witness. The person who realizes that such Self is beyond the body, senses and mind crosses this samsāra (worldly bondages) and attains liberation. In other words, the person who recognizes his original form obtains liberation.
真我は不変なる鑑賞者にすぎない。真我は肉体、感覚、心を超越していることを理解する者は、サンサーラ(世俗の束縛)を渡って解放を獲得する。言い換えれば、己の原点が何であるかを認識している者が、解放を獲得するのだ。

肉体が真我であると思っている者に、この話が理解できるだろうか?その者たちの関心が己の苦しみや身体的苦痛にあるならば、どうやって彼らに真我(アートマ)について教えることができようか?他方、己は、生来、真我であることを理解する者は、この世からも、そして、その束縛からも解放されていく。束縛とは、転生の繰り返しのことを言う。生を受けることは、行為に携わるということである。行為には、善行と悪行の両方が含まれる。悪行を行えば、その結果として、再び、誕生しなければならない。そしてまた、善行を行っても、人は再生しなければならない。

それゆえに、人は善行を行いながらも、精進して真我を学ぶ必要がある。こうすることによって、解放への道が拓かれていくのだ!

通常、人は、こうした話を一日の中のある一定の時間、例えば、一時間かそこらは、耳を傾けるものだ。しかし、その後は、その日の残りの時間では、果報を期待する行為に携わっていく。つまり、物質的所有、執着、それに伴う悲嘆に意識の焦点が移っていくということだ。霊的な教えに二時間を費やすことが何の役に立つのか。それゆえに、常に、あらゆる状況において、人は真我にのみ意識を合わせなければならないのだ!

肉体が己の真我であると信じている者は、幾転生にもわたって、トリグナにより生じてくる喜びや悲しみ、執着を常に味わうことになろう。これとは反対に、真我に確立している者は、富める時も慢心することなく、また、悲嘆や損失の時にあっても、落ち込むことはない。そして、あらゆる状況において、鑑賞者としてあり続けるのだ。

それゆえに、心と感覚を抑制して、喜びも悲しみをも等しく扱うことを学びなさい。そして、価値ある人、普通の人、価値なき人にも平等に応対しなさい。私が創造したあらゆる生命体を守護しなさい。」

続く

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