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シュリーマド・バーガヴァタム 第9話

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私たちはバガヴァット・ディヤーナ(主を熟考すること)から得た果実について話し合っていました。賢者はバガヴァット・ディヤーナと呼ばれる刀を使って、エゴ(アハンカーラ)と呼ばれるカルマの結び目を切り落とします。そのような人たちの中から、神の物語への愛が現れます。聖地へ巡礼に行くことによって、偉大なるマハトマ(偉大なる魂)へ奉仕する機会が得られます。同じように、それは人の内に献身(シュラッダー)を生みます。この献身を通して、主の神聖なる栄光を聴きたいという願いは強まります。神のストーリーの中でも、主クリシュナの聖なる遊戯の話を聴く、深く強烈な傾向が人の内側に生まれます。

śṛṇvatāṁ sva-kathāḥ kṛṣṇaḥ puṇya-śravaṇa-kīrtanaḥ
hṛdy antaḥ stho hy abhadrāṇi vidhunoti suhṛt satām

主クリシュナのストーリーは聴き手と話し手を純粋にします。主クリシュナのストーリーを聴くことによって聴衆と語り手、そして周りの環境は、完全に浄化されます。そのストーリーを聴いているデヴォティ(帰依者)の内なる心の中に主クリシュナは自ら座し、その人の知性から不浄(純粋ではない傾向)なものを追い払います。

時として、知性は不純になります。疑いや推論が知性を不純にします。まさに誕生の時から死の時まで、疑いや他のものが存在につきまといます。これらの不安は自分自身や親せき、行動などに関してでしょう。常に何か疑問や疑いが彼のマインドに浮かび上がります。「この行動をこの方法で終わらせるべきか?それとも別の方法で?」「この方法は正しいか?」「このアプローチで何が間違っているのだろうか?」このようにして、人間は疑いに悩まされます。ともすれば、おそらく人は神に関わる面でさえ疑うでしょう。

それが主クリシュナである至高のパラマートマが、バーガヴァタムを読んだり詠唱する人のハートに座している所以です。そのような人たちは、バーガヴァタムを熱心に聴き、主クリシュナの賛美を歌い、主クリシュナにとって愛しい場所を訪れる人たちです。「どこにパラマートマがあるのでしょうか?」という質問があるとき、その答えは「今言及したような人たちの内側に住まわれます」「では、他の人たちはどうなるのでしょう?」そうですね、主は他の人たちを邪魔したりしません。その人たちも生を受けたので、彼らの宿命に従って生きていきます。それだけです。

最初のカテゴリーに属する人たちは非常に特別な人たちです。その人たちは永遠にバガヴァット・ディヤーナの中に生きます。与えられた義務を完遂し、それを主に捧げ続けるのです。

一方で、家庭での割り振られた義務をおろそかにして巡礼に行く人たちも多くいます。そういう人たちは自分の義務を怠ったり、軽視したりして、子どもたちに対しての責任もないがしろにしたりします。人は家庭への義務(グリハスターシュラマ・ダルマ)は何としてでも果たすべきです。この件について以前も話しませんでしたか?前にダルマの意味を説明しました。ダルマの規律や義務(割り振られた義務)に完全にとどまる人だけが真のデヴォティー(帰依者)だということも話しました。もう忘れてしまったのですか?だから私はこのことを何度も何度も繰り返しているのです。
時に、知性に汚れが蓄積してしまいます。これは時にほこりがミルクの中に落ちるのに似ています。時にはガンガー(ガンジス川)やネクターにさえも、ほこりが溜まります。とても美しい湖の水の中に葉が落ちませんでしたか?「なぜ美しい湖に葉っぱが落ちたのですか?」とあなたはこのことを疑問に思いますか?葉っぱは湖の水の中に落ちました。そして湖の大いなる所有物となりました。湖の力とはそのようなのです!

しかし、この不純のほんのわずかな痕跡さえ、デヴォティーの心と知性に残ることはできません。なぜならパラマートマが在り、自らの知性に座しているからです。これはパラマートマのすべてに浸透する性質を意味しています。まさに神が全てに浸透していると言われる所以です。それは手に巻き貝とチャクラ(回転盤)を持って金の玉座に座する神をどこでも仰ぎ見れることを意味しているのではありません。
私たちが行きつくことができないそれ、視覚を超えており、能力を超えているそれがパラマートマなのです。それはとても輝いている光です。輝いたイルミネーションなのです。

それを自分たちが見ている電球からくる光のようなものだとは思わないでください。このイルミネーションは太陽のイルミネーションよりもさらに何倍も何倍も大きいものです。目に見えないイルミネーションです。燃えるような思いを持ったデヴォティーのみに、その形でパラマートマは存在します。彼らの中に座して、知性の不純な傾向を追い払います。
そのために、疑いの時間で無駄にすることではなく、パラマートマ・タットヴァ(普遍的魂の本質)を熟考しなさい。それが聖者や聖なる人の幸福を引き起こすと言われている理由です。

naṣṭa-prāyeṣv abhadreṣu nityaṁ bhāgavata-sevayā
bhagavaty uttama-śloke bhaktir bhavati naiṣṭhikī
意味:果てしなくバガヴァタムを読むことによって、または主のデヴォティーに奉仕を与え続けることを通して、不純な性質は完全に破壊される。加えて、常に純粋であり栄光である至高の主、パラマートマに対しての不屈の信が達成される。

絶え間なく主を考える者、主の栄光を歌い、いつも説法する人、永久にハートに主を留めた人の、不運で不純な傾向は浄化されます。以前話した疑いは不運な傾向です。ですから、神への不屈の信を心に留めることができたならば、根深いすべての疑いは破壊されます。
この心の状態に達したとき、サットヴァ(浄性)、ラジャス(激性)、タモ(鈍性)の属性から生まれた貪欲な願望や他の情熱は、もはや彼らに触れることはできません。
貪欲、怒り、願望などはきりがありません。どこまでも引っ張ります。解放ではない別の祝福が可能であると言わせます。この怒りや願望は、人を欺き、幻想の餌食の犠牲にさせます。彼自身によって主張された方法のみが人を自由にさせられると信じ込みます。そして彼は、その幻想の中に留まります。
オームナモーナーラーヤナ

続く

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