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シュリーマド・バーガヴァタム 第10話

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絶え間なくバーガヴァタムを読むこと(仕えること)や、永遠に主に帰依している偉大なる聖者方に仕えることによって、ひどく不吉で不純な傾向は殆どすべて打ち砕かれてしまいます。これに伴って、人は、至高の主への不屈の愛と献身を培い始めます。私はあなた方のマインドにたたきこむために、同じポイントを何度も何度も繰り返しているのです。不屈の献身の(意識の)状態に達すると、サットヴァ(純性、浄性)や、ラジャス(激性)、タマス(鈍性)の特性から生れたカーマ(渇望)、クローダ(怒り)、ローバ(貪欲)や他の感情は、マインドにその影響を与えることはできなくなります。すべての邪悪な傾向から自由なマインドは純粋な特質(サットヴァ)の中にシェルターを求め、素晴らしい平安を楽しむのです。

悪習から解き放たれた心を持つことはとても大切です。(単なる)心を持つことは素晴らしくないですが、純粋な心を持つことは素晴らしいのです。このようにして、主へ向けた献身(バクティ)の道に完全に向いた、主との永遠なるつながりを築くためのマインドを持つことによって、人は完全なる平安を楽しむのです。そのような人は、この俗世に関する無意味な対象/事象に平静(願望が無くなること)を培うことが可能になります。

主が全てであると信じる心の中で、至高の主へ集中した人は、サトヴィック(純粋)の特質が優勢であり、心の中から不純な傾向を全部洗い流した人です。そのような人たちは、得たものすべてを神や神に関連する活動に捧げます。肉体を活用し、すべての時間を、実に人生全てを神に捧げています。義務を遂行するにあたって正しい道から逸れなければならないのなら、例を挙げると、嘘をつかねばならないくらいなら、すべての仕事を放棄して、離れるのです。その人たちは至高の平安に達しているのです。世俗の無価値な問題や対象への好みや願望がありません。

そのような人は無駄に話しません。「神が私にして下さったのです」「神がこのように話しなさいと言ったのです」「神が私の舌にいらして、そのために私が発する言葉のすべては神の言葉なのです」などと他人に表明したりしません。無益で、見境のないそのようなコメントをする人に出会います。「神が、あなたを裏切って非難するように要請してきたのです」敵対する相手に対して、このように話す人たちがいます。だとすれば敵対する人は「神が私のところにいらして、あなたを殴るように仰いました」などと言って報復することができます。これに対して最初の人は何と答えられるのでしょうか?その敵は神の意志に従ってのことと主張し、無慈悲にその人を殴り、骨をへし折るでしょう。こんな言い方はありません。至高の主を安っぽく話すべきではありません。そのような低いレベルに主をひきずり降ろしてはいけないのです。

純粋な特質が勝った人はそんな風に安っぽく話したりはしません。至福に没頭しているでしょう。この世に生まれたために、与えられたすべての義務を完璧に果たして、与えられた残りの時間をすべてパラマートマ(至高の魂)へ向けて生きていくのです。
多くの人たちは自由な時間を、だます方法や、簡単に稼ぐ方法や、他の人をどう巻き込むかなどを考えめぐらせて無駄にしています。こういった間違った道にいる人が大勢います。そうなるべきではありません。

人は皆、本質的に純粋になろうとすべきです。あなたは誰ですか?どこから来たのですか?あなたの系譜は?人として、あなたの性質と行いはどうあるべきなのでしょうか? 規範にしたがって生きていますか? 人はこういった質問を自分自身になげかけ、正しい道に行くためにも、ライフスタイルや習慣の基礎的なところを改善しなければなりません。そのような帰依者たちは、真実で/実際的な主の形(ヤタールタ ルーパ)のヴィジョンとともに祝福されます。

「神はその形の中にある」「主はそれに似ている」―しかし実際の主の形とは何でしょうか?これらの人たちは実際の至高の主の形態を見ることができるのです。

主の形態であるパラマートマのヴィジョンに達したときにだけ、アハンカーラ(自我の感覚、エゴ)と呼ばれるハートの中の結び目(フルダヤ・グランティ)は切り落とされます。

私たちの肉体には、ヴィシュヌ・グランティのような、沢山のグランティや結び目が存在します。『ヴィシュヌ・サハスラナーマ』、『ラリタ・サハスラナーマ』はこれらのグランティ(結び目)について言及しています。
しかし、「アハンカーラ・グランティ」と呼ばれる一つの結び目があります。この結び目は、至高の主のヴィジョンに達したときにだけ、断ち切られます。存在が至高の主を彼の真我の形(アートマ・ルーパ)として認識できたとき、結び目は断ち切られるのです。

パラマートマとはどこにいるのでしょうか?パラマートマとは真我(アートマ)の形です。神は内側で鼓動するハートのことでしょうか?違います。真我は目に見えません。ではパラマートマとは誰のことでしょう?パラマートマが私たちの中の生命フォース(プラーナ)のことでしょうか?それはプラーナの形とも言えますし、ハートの形であるとも言えます。それは真我(Self)です。
『真我のヴィジョン』に達したときだけ、アハンカーラ(エゴ、私という感覚)の結び目が断ち切られます。一旦アハンカーラが破壊されると、あなたは自由になります。これが至福(アーナンダ)の意味です。すべての疑念が明らかになります。ジニャーニ(賢者)において、カルマ(行為と行為の結果の経験)の鎖は破壊されます。プラーラブダ・カルマ(過去の行為と経験しなければならないその果報の集積)のみが残ります。違う言い方をすれば、未来の行為のみが残るということです。

さあ、あなたは準備ができています。ですが、あなたの行為を完成させるべき何かがあります。これがプラーラブダ・カルマです。それだけが残ります。

この重要な理由のために、知的な人間は、ヴァースデーヴァの息子として降臨した主クリシュナに心をただ固定させ、献身の道において厳格に進みます。このことに加え、心の平安を得て、次には至高の至福を楽しむのです。

サットヴァ(純粋)、ラジャス(活動、情熱)、タマス(惰性、停滞)は主の幻想の力(マーヤ・シャクティ)の特質を表しています。私たちはこれらの用語にちょくちょく出会います。ヴェーダンタやプラーナ(神話)の中で出くわします。ですが、この特質/特性とは正しくは何でしょうか?ここまでアハンカーラの視点から説明してきました。アハンカーラの不在、またはアハンカーラが破壊された後に味わう至福を話してきました。このような方法で本質について少しだけ話し合ってきました。

幻想(マーヤ)の力を超え、その上にある至高の主は非二元性であり、完全です。これらの三つの特性(トリグナ)と創造の助けを借りて、維持し、創造を吸収し、ブラフマ、ヴィシュヌ、ルドラとして顕現します。
オーム ナモ― ナーラーヤナ

続く

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