言葉と教え

シュリーマド・バーガヴァタム 第11話

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トリグナ、すなわちサットヴァ(善良、純粋な性質)、ラジャス(情熱の性質)、タマス(不活発、無知の性質)が、主の幻影の力(マーヤー・シャクティ)であるということについて話してきました。それらは主のグナ(性質、特徴)です。幻影の力を超越し、その上にあり、非二元的で、完成され、創造・維持・融合という目的のためにこれらの三つの性質を結合している至高の主は、ブラフマ―、ヴィシュヌ、ルドラへと変容します。それは「彼」がまとう象徴的な姿であると言うことができます。そのなかでもサットヴァ(善良、純粋)が人格化されたマハーヴィシュヌを通して、人類は究極の利益を得ることができます!

地の変容物である薪(たきぎ)から、煙が生じます。煙から、すべてのすべてのヴェーダの活動の根幹である火が生じます。地よりも薪の方が勝り、薪より煙の方が勝り、煙より火の方が勝ります。

ここでは四つの要素、すなわち土、薪、煙、そして火について述べています。木は土から生まれますが、土よりも優れています。煙は薪から生まれますが、薪よりも優れ、火は煙よりも優れています。

同様にラジョーグナ(情熱)はタモーグナ(不活発、惰性、怠惰)より優れています。そして純粋な性質(サットヴァ・グナ)は、情熱より優れています。なぜそうなのでしょうか?それはサットヴァ・グナがパラブラフマを照らすからです。サットヴァ・グナを通して、個人は絶対の真実を悟ります。つまりパラブラフマのヴィジョンを得ます。

過去に偉大な聖者たちは完全な純粋性(シュッダ・サットヴァ・グナ)に庇護を求め、ヴィシュッダー・サットヴァ・スワルーパ(トリグナを超越し、その上のもの)であるマハーヴィシュヌに奉仕しました。

そのようにあがめられる聖者に奉仕し、また彼らの指示に従う人々は吉祥なるものを獲得します。

純性(サットヴァ・グナ)が優勢な人はウグラ・デーヴァタ(神、半神の残忍な形態)を礼拝したり、奉仕すべきではありません。サットヴァ的な人々は思考が純粋で潔白な人々です。そのような人は純性であるヴィシュヌを礼拝すべきです。主の残忍な形態を崇拝すると情熱(ラジャス)と不活性(タマス)を得るかもしれません。それは正しくありません。

人は、自分の行いに基づいて特性を獲得するのです。あなたが食べる食物に基づいて、その特性があなたに吸収されます。だからこそ、食物は非常に重要な役割を果たします。純粋でサットヴィックな食物を食べるなら、あなたは純粋な特性を持つ人になります。ラジャスやタマスの特性を持つ食物を食べる人は、情熱と無知の状態にとどまります。彼らは純粋な特性を獲得することはできません。

純粋な特性を身につけようとする霊的求道者は、たとえ欠点を見出せなくても、バイラヴァのような主の獰猛な姿を礼拝すべきではありません。むしろ、マハーヴィシュヌ神の平穏な姿、あるいは吉祥の姿、あるいはその相(アムシャ)に焦点を当て、礼拝して奉仕すべきです。

私たちはすべての人が純粋な性質なわけではないと言いませんでしたか?食べるものの性格に基づいてその性質を得ると言いませんでしたか?私たちは、自分自身が食べたものになります。同様に私たちが平和的な傾向の神を礼拝するとき、その純粋で平安な性質を得るのです。

富、財産、力、子孫などの物質的快適さを求めるラジャス的でタマス的な性質(情熱的、不活性の性質)が顕著な人は、祖先、半神、プラジャーパティなどを、彼らの必要性や性質に応じて礼拝します。

情熱、不活性、無知に満たされた人は深くこの世に結びついています。彼らは欲望、怒り、強欲、その他の邪悪な情熱に夢中です。それらの邪悪の情熱に大いに重要性を与え、それが富と繁栄を家族にもたらすと信じています。そのような人々は家族の富を安全に守り、地位と権力を保つことが人生の本質だと信じます。ある程度は彼らは神を信じています。それだけです。しかし彼らがもっている崇拝の念はどのような種類のものでしょう?それは神との「取引的な関係」です。「もし見返りになにか祝福されるならばお金を捧げよう」「自分の名前がボードに掲示されるべきです。私がアンナダーナに貢献したことに言及してください」と。

しかしその行いから得る特別な利益は何でしょうか?今回の生で名声をえて、有名になり、祝福されるでしょう。物質的世界において良い子ども、素晴らしい財産に恵まれるでしょう。もし純粋な光、啓示へと到達することを求めるなら、彼らはすべての仲介者の神々、あるいは凶暴な神々への礼拝を諦めなければなりません。純粋性を求める人がどうやって同時にこれらの活動を続けられるでしょうか?

スワミジに近づく信奉者はたくさんいます。彼らは欲望の巨大なリストを読みあげ、スワミジが彼らを祝福すべきだと探し求めます。最後は「心の平安」「解放」で祝福されることに行きつきます。

この解放とは、何かのヤントラ(お守り)やマントラ(呪文)が与えることができるものでしょうか?お店で買うことができるようなものでしょうか?そのような人々に私は何を言わなければならないでしょうか?「あなたの富を諦め、大きな家を諦め、子どもを諦めなさい」と言えるでしょうか?そのようなことを私が言った場合、彼らは言うことを聞くでしょうか?私の元を去っていきますが、けっして物質的な接触をあきらめないでしょう。今、少なくとも彼らはグル・ダルシャンに来ています。そう言ってしまうことによって、私はこの小さな善良さを損なってしまうのです。

ですから、そのような人々は徐々に改心させなければなりません。「今ではなく、明日、バーガヴァタムの詠唱があります。その催しに参加しに来てください。バーガヴァタムを聞くことはあなたに富をもたらすでしょう」

時には、これらの人々を正しい道に導くために、小さな嘘をつくことさえ必要です。「聞くことによって、失ったものを取り戻すでしょう。権力を今のままに保つでしょう」  そして、私はすべての重荷をクリシュナ神に負わせて言います。「クリシュナよ、私はあなたの名を使ってこれらの人々に嘘をつかざるを得ませんでした。私の唯一の目的は、彼らが正しい道を歩むようにすることです。これには私個人の利益はありません。」 彼らが本当に失ったものを取り戻せる可能性もあります。もし取り戻せなければ、私の言葉が間違っていたことになります。そのような時は、それに費やした金額を慈善行為とみなし、手放しましょう。

ラジャス的、タマス的性質に溢れた人々に、純粋なサットヴァ的な性質、解放について教えることは非常に困難です。彼らに解放について教え、説明するのは大変な苦行のようです。それはヨーガです。

Vāsudeva-parā vedā Vāsudeva-parā makhāḥ
Vāsudeva-parā yogā Vāsudeva-parāḥ kriyāḥ
Vāsudeva-paraṁ jñānaṁ Vāsudeva-paraṁ tapaḥ
Vāsudeva-paro dharmo Vāsudeva-parā gatiḥ

オーム・ナモー・ナーラーヤナ

続く

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