言葉と教え

シュリーマド・バーガヴァタム 第41話(神を理解し悟ること)

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十三章では、ヴィドゥラの助言を受けたドリタラーシュトラがガンダーリを連れ立ってヴァーナプラスタ(森に隠棲して修行する林棲期)のために森へ入ったことについてお話します。

ヴィドゥラは、巡礼の旅に出ていたのですが、聖仙マイトレーヤから真我に関する知識(アートマ・ジュニャーナ)の教示を受けてから、ハスティナープラに帰還しました。本章ではヴィドゥラのことを詳しく説明します。

ヴィドゥラは、聖仙マイトレーヤに幾多の質問を投げかけました。しかし、彼は、一つか、二つの答えを教示してもらっただけで主ゴーヴィンダへの絶対的なバクティ(信愛)を持つようになったのです。それ以降は質問はしませんでした。

あらゆる疑問に対して正解は一つしかありません。それは、「神を理解すること、神を悟ること」です。かつてのすべての疑問、探求、いかなる償いや苦労も、これを悟るための道のりにすぎません。これから何が起こっても忘れてはならないのです。これが到達点です。これですべては達成されます。「神がすべてであり、私のすべての疑問を解消してくれる。すべての慣習、意味のあるなしに拘らずすべての議題、ヴェーダ全体、本質的なことすべて、実生活の知識のすべて、ありとあらゆるものは、神を理解することによってのみ到達しうる」。このことを理解できた人は、もはや何の疑問も抱かないでしょう。

帰還したヴィドゥラに再会したドリタラーシュトラ、ユディシュティラ、彼の弟たち、クリパーチャーリヤ、サンジャヤ、 ガンダーリ、クンティ、ドラウパディ、 スバドラー、クリピ、ウッタラ、そして親族、配偶者、子どもたち全員がとても喜びました。彼らは失った自分たちの生命力(プラーナ)を再び取り戻したかのように感じました。彼らは、ヴィドゥラに駆け寄り、暖かく迎え入れました。

皆が彼を抱きしめ、敬意を表し、挨拶して、喜びの涙を流しました。 彼らは戦争の出来事を思い出しました。 後ほど、ヴィドゥラの偉大さについて詳しく説明します。

ユディシュティラはヴィドゥラがくつろげるように座らせ、彼に敬意を示しました。 ヴィドゥラは食事をとり、しばらくくつろぎました。その後、彼がゆったりと席についた時、ユディシュティラは彼に敬意を表し、皆の前で彼に尋ねました。

「偉大なる父ヴィドゥラ様! 私たちはあなたの保護の下で成長しました。 あなたは私たちに庇護と保護を与えてくださいました。あなたは多くの恐ろしい災害から私たちと母親を救ってくださいました。 あなたは火事、水害、毒薬の危険から私たちを救ってくださいました。 私たちのことを覚えておられますか。

巡礼の道中あなたはいかにしてご自分を鼓舞されたのですか?世界中を旅する最中にたどり着いた神聖な場所や神聖な川ではあなたは奉仕なさったのですか?

bhavad-vidhā bhāgavatās tīrtha-bhūtāḥ svayaṁ vibho
tīrthī-kurvanti tīrthāni svāntaḥ-sthena gadābhṛtā

なぜなら、あなたのような主の熱烈な帰依者は、聖なるものの姿にほかならないからです。

棍棒を握っている主クリシュナがあなたのハートの中に永遠に住んでおられるので、あなたは聖なる巡礼地そのものに神聖さをもたらします! あなたが沐浴するすべての川は神聖なものとなります。まったく汚れのない純粋なものとなるのです」

川がどのようにして純粋さを得るのか不思議に思いますか。 川は、沐浴する人の汚れを洗い流すほどに純粋であると言われます。川を純粋なものにできるような人はいるのでしょうか。はい、います。完全に清浄な人が沐浴すると、その川は清浄になります。彼らは主の熱心な信奉者たちです。 彼らは永遠に神に心を定めています。神を自ら理解し、悟った人々です。知識(ジュニャーナ)を通して神に到達しました。苦行によって、神の存在を悟りました。多くの結果をもたらした立派な行いを通じて、神を理解しました。彼らはパラーマトマ(普遍的な自己、普遍的真我)が存在するという証拠を示す聖人たちです。 そのような人はアヴァドゥータです。素晴らしいマハートマたちです。

自分の名前にアヴァドゥータという称号を冠するだけでは不十分です。多くの人がアヴァドゥータと自称しています。どんな意図があるのでしょうか。ある人がクリシュナと命名されたからといって、彼は最高神クリシュナになるのでしょうか。ラーマと名乗ることで、その人は、最高神である主ラーマにはなりません。ラーマの名前を称するということは、ラーマが持つ資質を育むべきだということをその人に思い起こさせます。 それは、ラーマ神について何度も思い起こさせる方法なのです。彼をそのように呼称する必要がある親、友人、知人の恩恵のためでもあります。彼らもまた、いくらかの功徳(プンニャ)を積むべきではないでしょうか?「ラーマ」もしくは「クリシュナ」という名前を繰り返し唱えることによって、彼らは間違いなく多くの功徳を積んでいます。

しかし、クリシュナと名付けられたからといって、それだけでは功徳を積んでいません。不必要な犯罪行為に完全に耽溺していては積むことはできません。 彼のどんな行いも、全てが価値のあるものとはみなされるわけではありません。人生とはそのようなものなのです。どのようにしてクリシュナになることができますか。クリシュナの善き資質を理解し、その性質を模倣すべきです。 彼の行為を間違って理解し、それらを真似するのでは意味がありません。クリシュナは火を飲み込みました。あなたは火を飲み込めますか。彼はこの宇宙全体を創造しました。あなたにはそれができますか。

彼の日常的な行為を模倣することは素晴らしいことではありません。彼は平凡な人としてこの世界に出現し、特別な行為を実践しました。あなたは彼を平凡な人として過小評価し、平凡な行為を真似しようとしています。それは正しいでしょうか。プラーナ神話にさえ、そのような話がたくさんあります。彼のように、長い花の花輪と黄金の王冠を身に着けて、手に円盤を持っている人々の実例が示されています。その着こなしを模倣することで、その人は最高神クリシュナになることができるのでしょうか。それはせいぜい舞台の芝居と比較される程度でしょう。誰も、 「ああ、クリシュナが私たちの恩恵のために地上に降り立った」とは言いません。彼らは「今日も彼はクリシュナ役を演じた」と言うでしょう。彼らは互いに言い合うでしょう。「彼を知っていますか?私の隣人のビーマラオです。どんな化粧をしているのでしょう!彼のセリフを聞いたことがありますか? 」行動、変装、振る舞いが完璧であっても、人々は彼がクリシュナの役を演じていると信じ続けます。「彼の演技は素晴らしい」と言うかもしれません。しかし、「ああ、クリシュナがまた私たちのために降りてきた」と言う人はいません。

同様に、表面的にアヴァドゥータの特徴を表現する人は、本当のアヴァドゥータになることはできません。あなたが声をかけた人の心を覗き込むだけで、彼がアヴァドゥータであるかどうかが分かります。そのような人が訪れると、主ダッタートレーヤ自身が本当に訪れたかのように感じられます。

ユディシュティラは続けました。

「クリシュナが永遠にあなたのハートに住んでいるので、あなたは川そのものに吉祥と純粋さを与えます。そのような純粋な人が川で沐浴するとき、それはパラマートマ(普遍的自己、真我、創造者)自身があたかも沐浴しているかのようです。このようにして川は純粋になります。 罪の積み重ねがあり、神について考えない一般の人たちがこの川で沐浴するとき、彼らは川から純粋さを得ます」

みなさんが通りを横切る際に、偶然に神の名があなたの耳に入ったのなら、その人は純粋になります。 同様に神の名を唱える人は、プンニャ(徳)を積むのです。

クリシュナ!クリシュナ!ゴーヴィンダ!クリシュナ・ゴーヴィンダ!ダッタ・クリシュナ!ゴーヴィンダ!

第42話へ続く

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