ガナパティの真髄と美しさ
更新日 : 2018.9.13
カテゴリー : バクティマーラ
バクティマーラ1983年10月号、1988年10月号より
ガナパティの真髄とはもっとも崇高なものです。もっとも崇高な秩序としての意義をもっています。簡単に表現するなら、真実(サティヤ)と美(スンダリヤ)を礼拝することが、ガナパティを礼拝することだと言えます!
ガナパティは至高の母(母なる自然/プラクリティ)が彼女の目的・目標を守るために生み出した真の息子であり、彼女の言い表せぬほどに優雅な美しさのすべてを身に着けています。ガナパティへの礼拝の中には、自然への礼拝が入っています。
美しさにおいて、ガナパティは主ヴィシュヌすらを凌いでいます。その神々しい美しさによって、ガナパティは、スンダラ・ガネーシャという名をつけられました。美(スンダリヤ)という言葉は、身体の美しさではなく、深遠な内面の美しさを表すものです。
当初、ガナパティはゾウの頭をしていませんでした。母なる女神パールヴァティは、自分の体から彼を生み出し、扉を守る仕事を任せました。彼はシヴァが自分の家に入ろうとするのを止めました。ついに彼はシヴァと戦闘をして、その戦いのなかで首をはねられました。彼はシヴァが自分の父であることを知りませんでした。このことは、子どもにその父親を見せるべきなのは母親であるということも表しています。
神々はゾウのガジャースラの頭を持ってきて、その少年の頭としてすげ替えました。それは聖典に記述された治療の方法(シャストラ・チキツァ)で行われ、彼にプラーナ(命)が吹き込まれました。このことから、私たちの太古からの聖典は、頭部転換と死者に生命力を戻す詳細な方法を含んでいたということがわかります。
こうして、彼はゾウの頭の恵みを受けました。ゾウの頭になっても、彼はとても美しかったのです。彼は奇妙な姿ではありましたが、とても魅力的でした。
プラーナ聖典(古代ヴェーダ文献)のなかで、特にガナパティについて述べているのはムドガラ・プラーナです。このなかでガナパティの姿、特質(グナ)、武器がそれぞれ詳細に描かれています。
ガネーシャ・チャトゥルティは主ガネーシャの誕生日であり、毎年、バドラパーダ月(インド歴による六月)の新月から四日目に祝われます。
この日を彼の誕生日として選んだ秘められた象徴を理解していきましょう。
バドラパーダ月は、第六月です。この数字の六は、私たちがガナパティとして礼拝しているエネルギーが、地、水、火、風、空の五大元素を超えているということを示しています。
月が満ちていく二週間は、英知(ジュニャーナ)を表しています。
第四日目(チャトルティ)、この数字の四は、ガナパティ神がサットヴァ、ラジャス、タマスの三つの特質(純粋、活動、不活性)を超え、三つの状態(目覚め、夢見、熟睡)も超えていることを象徴しています。
要するに五大元素を超え、三つの特質と三つの状態を超えた至高のパラブラフマーが、ガナパティの名において、この日に礼拝されるということです。
彼の誕生日には、私たちは野生動物や自然の過酷さからの保護、精神的な平安と平和も祈ります。
六つのチャクラ(霊的エネルギーセンター)のなかで、ムーラーダーラ(脊柱基底部に位置する)が最初で基本です。主ガナパティはこのセンターの主宰神です。これがどんな事をするときも、その前に彼が礼拝される理由です。
主ガナパティは、知識の授与者(ヴィディヤディーパティ)でもあります。
「ガナパティ」という語は、指導者を意味します。彼が比類なき指導者であるため、この名が彼に付与されたという事実は、彼の姿に象徴されています。
彼の姿の背後にある象徴を理解していきましょう。
彼のゾウの頭は、限りない強さを象徴します。それは彼が打ち負かされないものであることを強調しています。彼の大きな頭は、彼の知恵を表しています。小さな両目は、彼が遠くを見通し、一目見ただけで一瞬で出来事のすべてを理解できることを意味します。大きな耳は、おこったすべてのことを極めて詳細に聞くことができることを意味します。
手にしている武器「パシャ(輪縄)」は幻影(マーヤ)が彼の支配下にあることを示します。「アンクシャ(突き棒)」はアハンカーラ(自我)が彼の支配下にあることを示します。一本だけある牙は、最終的な勝利を意味し、その勝利の状態は、けっして元に戻らないものです。彼の大きなお腹は、すべての秘密が入っています。ヘビは眠れるクンダリニー(螺旋回転する霊的エネルギー)です。ネズミは敵のすべての秘密を破壊することを象徴します。ガナパティはネズミの上に座っているか、あるいは立っていますが、それは無知を払いのけることを意味しています。
ネズミとヘビが「彼」の近くにいることは、嫉妬、敵意、憎しみを放棄し、平安と調和のなかにいるということを意味します。長い鼻はプラナヴァ・マントラであるオームカーラを象徴します。
ガンディジの三つの原則、つまり邪悪を見ない、聞かない、話さないことは、実際に古代のマハリシたちが順守していた非常に貴重な原則です。目、耳、口は、完全な破滅の原因となる三つのインドリヤ(感覚器官)です。それぞれが他の二つより強力で洗練されています。見るものは、話しませんし、聞きません。話すものは、見ませんし、聞きません。聞くものは、話しませんし、見ません。このように、それらは破滅をもたらします。
ガナパティの小さな目(スクシュマ・ネートラ)は、「邪悪を見ないこと」を意味します。大きな耳(アナンタ・カルナ)は「邪悪を聞かないこと」を意味します。ガナパティは常にゾウの鼻(口)を丸めてしまっていますが、それは「邪悪を話さないこと」を意味します。
主ガナパティの誕生祭に入念な礼拝を捧げることが、壮大ですばらしいことだとみなされています。しかし、この礼拝(プージャ)のそれぞれの儀式すべてに秘められた深い内的な意義は、外的な壮大さをはるかに上回っています。
例として、この日にガネーシャに草の葉(ガリカ)を捧げることの背景にある意味を理解してみましょう。草はどこにでも簡単に生えますが、わたしたちはそれをけっして観察しません。わたしたちはそれに価値を見出しませんが、庭がきれいになるのでそれを育てます。それに秘められているエネルギーや隠された性質を見る人はいるでしょうか?
草は愛らしく、小さく、かわいいものです。それは容易に広がっていく性質を持ち、そのため、すべてに浸透するもの、と呼ぶことができます。小さなちっぽけなものですが、その葉陰で育つ多くの小さな虫を養っています。
その葉先は非常に鋭く一点を指していますが、私たちはその先端を明瞭に見ることはできません。その先端は常に上に向けられています。それぞれの草は純粋であり、それは純粋性を象徴します。さらにそれは謙虚さも象徴します。謙虚で、純粋で、常にアーカーシャ(空)を一点に指している性質は、非常に特別なものです。それは人生の目的を教えています。
草の葉は身体の病を癒すだけでなく、心とブッディ(知性)を助けるハーブとなります。これらの数えられないほどの肯定的性質によって、それはガナパティにとって非常に大切なものになったのです。この草の葉が礼拝に使われると、その人はアートマ・ジニャーナ(真我の知識)によって精妙な次元で祝福されます。
サトウキビや、サトウキビのジュースが主に捧げられる理由はなんでしょうか?一般的にはガナパティがゾウの神で、ゾウがサトウキビを非常に好むからだと考えられています。誕生日にはサトウキビも彼に捧げられるべきです。
サトウキビを捧げることには、深い象徴と重要性があります。サトウキビは人間の体を表します。サトウキビの節々は、私たちの体のつなぎめです。上についている葉っぱが私たちの髪の毛を意味します。根っこは足です。外皮は皮膚です。長い繊維は、筋肉系です。その樹液は、私たちの血液です。
また、外皮は私たちのアハンカーラ(自我の概念)を意味すると解釈できます。多大なる努力によってそれを削ると、白い繊維の果肉が出てきますが、それは私たちのハートを表しています。アハンカーラのないハートは、それ自体が普遍の姿(ヴィシュワルーパ)です。それは主ガナパティの波動を感じ、彼を理解する場所です。サトウキビを欠片に砕いて、それを噛んでいくことは、困難なことではありますが、かの境地に達するための霊的実践を表します。サトウキビを噛むことによって得られるジュースは霊的探求によって受けとるアムリタ(甘露)を表します。
草の葉、アルカ(白い樹液を出す植物)、サトウキビ、ネーラドゥ(アマゾンオリーブ、ムラサキフトモモ)は、ガナパティにとって、とても大切なものです。実際、人は3044枚の葉と、6000種の果物を捧げるべきです。しかし、たいてい市場で買うことができる五種の果物をプージャの間に捧げます。
これらの例によって、礼拝中に捧げられるそれぞれのものは、わたしたちのうちにあるものを捧げることを象徴していると理解すべきです。そして礼拝の儀式のそれぞれの手順の背後にある重要性を分析し学ぶ必要があります。
女神パールヴァティ(プラクリティ)はシヴァ(プルシャ)のことを少しも考えずに、ガナパティを創造しました。そのためシヴァはガナパティの頭をはねたのです。主ヴィシュヌがその少年にゾウの頭をつけました。
シヴァとパールヴァティ(プルシャとプラクリティ)の結合は、ブラフマーの真髄である知識(ブラフマー・タットヴァ)をもたらします。それなのになぜガナパティは、シヴァが家に入ることを拒んだのでしょう?彼はプラクリティ(自然)を邪魔したくなかったのです。もしプルシャが入って、プラクリティが不必要に邪魔されたなら、巨大なプラクルティカ・パララヤ(自然災害)が起こるでしょう。そのため、彼はシヴァを止めて、中に入ることを許さなかったのです。
シヴァとパールヴァティの結合は、個人の自己(アートマ)と知性(ブッディ)の結合(一つになること)です。これは真に吉祥(カルヤナ)です。マインドと知性を一つにすることがヨーガの実践です。私たちは、ヴィナーヤカ、主ガネーシャをこの目的で礼拝します。
目の前にない(目に見えない)対象や状況をどのように説明できるでしょうか?対象物が目に見えず、あるいは、精神的に想像もできないならば、ただその名前を言っても無駄に終わります。例えば、「ロバ」という言葉が存在しなかったら、それを他の人にどう説明するでしょうか?この問題を解決するために、言葉が存在するに至りました。私たちの言語の構成物はアルファベットに分解できます。それぞれのアルファベットが一つの神(デーヴァタ)を表します。それはデーヴァタ・タットヴァ(その神格の真髄)を表します。
しかし神の言語は沈黙の言語です。それは象徴言語です。私たちの言語でさえ、沈黙はとても特別な役割をもっています。多くの機会で私たちは沈黙を通してコミュニケーションします。実際のところ、沈黙によるコミュニケーションがもっとも力があります。
私たちは、それぞれのアルファベットが一つの神格を表すことを学びました。それならこの「沈黙」の主は誰でしょうか?この主の役割はなんでしょうか?彼を助けるすべての神々とは誰でしょうか?これらすべてはサーマ・ヴェーダ(第三のヴェーダ)で述べられいます。
沈黙(モウナ)の主はガナパティです。彼はオームの真髄(オームカーラ・タットヴァ)から生まれました。オームカーラが彼の際立った性質です。
私たちが主ガネーシャを礼拝するとき、富や健康を求めます。わたしたちは物質的繁栄によって彼から保護を受けますが、実はもっとも重要であるジニャーナ(至高の知識)によって保護を受け損なっています。したがって、第一にジニャーナを求めることを学びなさい。
「至高の母と至高の父(パールヴァティとシヴァ)の恩寵と祝福による保護のために、ガナパティが礼拝されるべきです」