バガヴァット・ギーター 第2章17~20節
更新日 : 2025.1.28
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アルジュナよ! タットヴァ・ダルシの観点を受け入れて、二元性に耐えなさい。蜃気楼のように、実際には存在しないのに存在しているように見える。これを認識して耐えなさいとクリシュナは言いました。
16節で、クリシュナは何が実在であるかを定義しませんでした。今、答えを出すことにしました。
avināśhi tu tadviddhi yena sarvam idaṁ tatam
vināśham avyayasyāsya na kaśhchit kartum arhatiǁ17ǁ
すべての創造された物に浸透している「真の存在」(sat) は不変であるため、破壊できません。誰も消したり、変化させることもできません。
破壊できるものは「ヴィナーシvināshi」です。破壊できないものは「アヴィナーシavināshi」です。16節で、アサットasat (非実在) と サットsat (実在) について教えられました。
トゥtu という言葉を通して、ここでは非実在が実在から切り離されて、実在は破壊できないと言っています。ヴィナーシャVināsha は知覚できなくなることです。ヴャヤVyaya は拡大または縮小することです。アヴィヤヤAvyaya は縮小も拡大もないことを意味します。実在には分割がないので、大きくなったり小さくすることはできないので、アヴィヤヤavyaya のままです。
さらに、何も所有していないので、枯渇することはありません。私たちは「デーヴァダッタは資産を失って滅びた」と言いますが、実在がデーヴァダッタのように滅びると言うことはできません。そのため誰もアヴィヤヤavyaya である実在を破壊することはできません。
他者は実在を破壊することはできません。しかし実在は自分を破壊することはできないのでしょうか? ここでは誰も自分自身を破壊できないと言われています。イーシュヴァラでさえもです。アートマ(真我)は実在です。アートマは自身の中でいかなる行動もできません。
もしそうであるなら、その実在を捨ててしまった非実在とは何なのでしょうか? これに答えます。
avināśhi tu tadviddhi yena sarvam idaṁ tatam
vināśham avyayasyāsya na kaśhchit kartum arhatiǁ18ǁ
アートマ (シャリーリśarīri’) は永遠であり、破壊することはできない。それはプラマーナ pramāna を超えている。アートマが得た肉体は壊れやすいものだ。このことをわかって今戦うのだ。
破壊できない実在は、肉体の中にアートマとして存在します。
適切に調べて水がないことが明らかになると、蜃気楼は消えます。すなわち破壊されます。 肉体についても同じです。幻の体や夢の体のように、この肉体にも終わりがあります。アートマは肉体を得て、その体(シャリーラ)の中に存在します。そのためそれはシャリーリ/デーヒです。それは永遠であり、破壊できず、計測や想像を超えています。
「プラメーヤ」とは、証明によって決定された知識です。証明によって決定できないものは、「アプラメーヤ」です。
プラティャクシャ、アヌマーナ、ウパマーナ、シャブダ、アルタパッティ、アヌパラブディ、アイティヒャは、広く受け入れられている有効なプラマーナ (証明) です。
心と5つの感覚を使って得られた知識はプラティャクシャです。 別の対象を理解するために想像力を適用することは、アヌマーナです。ある対象を他の類似の対象と比較して、それについて学ぶことがウパマーナです。ヴェーダはシャブダ・プラマーナです。
この4つが主な証明(方法)です。他にもあります。実在はアプラメーヤであり、どれも実在を完全に説明することはできません。
ニッティヤ (永遠) とアヴィナーシ (破壊不能) は同義語のように見えますが、そうではありません。この世界では、永遠と破壊には 2 つの種類があります。死体が焼かれて見えなくなると、滅びたと言います。病気のために体が縮んだり変化したりする場合、見えていても滅びたと言います。アヴィナーシとニッティヤという言葉は、これらの破壊はどちらもアートマには当てはまらないことを示しています。
さらに、アートマを地や他の元素と同じくらい永遠であると誤解する可能性があります。その永遠性がそれらの永遠性とは違うことを明確にするために、彼は特にアヴィナーシとニッティヤを使用しました。これを通して神は、地や他の元素が破壊されてもアートマは不滅で永遠であると伝えています。
アルジュナ!このように、アートマは永遠で不滅であるという認識を持って戦いなさい。あなたが攻撃するのは肉体であって、アートマではないことを理解しなさい。
クリシュナは戦いを義務として命じてはいません。しかし、アルジュナが戦場に足を踏み入れて戦おうとした後、妄想と悲しみのために戦場から逃げるなら、神はその妄想と悲しみの結び目を断ち切らなければなりません。「戦うのだ」と言うのは、アルジュナがすでにやろうとしていたこと(アヌヴァーダ)に言及しているに過ぎず、神から与えられた命令(ヴィディ)ではありませんでした。
主は、悲しみや妄想(ショーカ/モーハśoka-moha)などの形で存在する輪廻(繰り返し生まれ変わること)の種を取り除きたいと考えて、ギーター・シャーストラを教えるという任務を引き受けました。ギーター・シャーストラの主な目的は、人を「ニヴルッティnivrtti」(帰還の道)に導くことであり、さらなる行動(プラヴルッティpravrtti)に追い込むことではありません。
この点を承認するために、主はここでカトーパニシャッドから直接2節を取り上げます。
ya enaṁ vetti hantāraṁ yaśh chainaṁ manyate hatam
ubhau tau na vijānīto nāyaṁ hanti na hanyateǁ19ǁ
ある人は「私は殺人者だ」と考え、ある人は「私は殺された」と考えます。このように話す人は、アートマが殺されることも殺人者になることもできないので、アジュニャーニです。
アートマが殺人者であると考える人、また体が死ぬと自分が殺されると考える人は無知です。どちらも、私と呼ばれるアートマを理解していません。
アートマは行動することがないので、殺すことも殺されることもありません。
na jāyate mriyate vā kadāchin nāyaṁ bhūtvā bhavitā vā na bhūyaḥ
ajo nityaḥ śhāśhvato ’yaṁ purāṇo na hanyate hanyamāne śharīreǁ20ǁ
アートマは決して生まれません。死ぬこともありません。アートマは生まれもせず、永遠で、不変で、古来のものです。肉体が殺されたり、肉体が滅びても、アートマは死にません。
636話に続く