言葉と教え

シュリーマド・バーガヴァタム 第323話

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「マハリシたちは熟考の末、深刻な罪には徹底的な償いを、軽微な罪にはより軽い償いの手順を提唱しました。苦行、慈善、ジャパム(マントラ詠唱)、その他の償いを通して、罪は解消することができます。」

償いとは、僧侶に金銭を渡し、自分のために儀式を執り行ってもらうことだという誤解があります。罪が大きければ大きいほど、適切な儀式を執り行って償いの手続きを完了するよう僧侶に求める金額も大きくなります。しかし、その人は僧侶に捧げた金銭がただの無駄遣いに終わっていることを理解していません。罪からの解放は達成されません。償いの手順に加え、心を清めることが不可欠です!これこそが真の償いなのです!

ある人が自宅でバーガヴァタムの詠唱を行うように頼まれたとします。彼は食事やその他の準備に集中します。僧侶たちがバーガヴァタムを唱えている間、彼は客の対応に追われます。準備は万端整っていたに違いありませんが、集中して唱歌に耳を傾けることはなかったでしょう。その後、彼らは世間にこう宣言するでしょう。「我が家ではバーガヴァタムを7回唱えました。僧侶には多額の献金を捧げ、必要なものも揃えました。客たちは食事の手配を絶賛しました。最終日には全員に衣服を贈りました。式典は大盛況で、皆が満足そうに帰りました。」

自宅でバーガヴァタムやラーマーヤナを唱えることの意味はこれでしょうか?あなたはその恩恵を十分に受けたと思いますか?「ハヌマーン・チャリサ詠唱会を企画しました。そのために10万人もの人を集めました。集まった人全員に食事を振る舞いました。素晴らしい体験でした」と言う人がいます。「ハヌマーンって誰ですか?」と尋ねれば、彼は「尻尾のあるあの神です。猿の顔をしています」と答えるでしょう。

ハヌマーン・チャリサを唱える目的がこれなのでしょうか?ハヌマーンとは一体何者なのか、その真のエネルギーとは何なのか、ハヌマーンは本当はどこに住んでいるのか、ハヌマーンの習慣とは一体何なのか、ハヌマーン・チャリサに秘められた内なる重要性とは何なのか、あなたはこれらのことを少しでも調べてみたことがあるのでしょうか?

さもなければ、人はこう自慢します。「知っていますか、私は200フィートのハヌマーンを見ました。今は80フィートのハヌマーンを作ろうとしています。」それは単なる競争に過ぎません。そのような決断や構築には何らかの根拠が必要です。何らかの論理が必要です。神を弄ぶのは正しいことでしょうか?何を得るというのでしょうか?一滴の甘露を飲めば十分です。コーヒーカップに入った甘露を飲むことはできません。その一滴にこそ本質があるのです。同様に、たとえ神像が小さくても、そのエネルギーは豊富である必要があります。重要なのは量ではなく質です。バンガロールのアーシュラムのハヌマーンはとても小さいですが、その栄光は無限です。コーチのアーシュラムにいるハヌマーンも同じです。

「人が主の御名を唱えるなら、それは故意であろうと無意識であろうと、その人のすべての罪を滅ぼします。それが主の御名に込められた意味です。」

バーガヴァタムは、たとえ冗談であろうと嘲りであろうと、主の御名を唱えた者に報いを与えます。これが聖典と人間の違いです。私たち凡人は、神を嘲笑した者に対して不当に怒り、復讐を求めます。バーガヴァタムは、主の御名を唱える者に報いを与えます。

「彼が最悪の罪人であることは我々も認めます。また、彼が息子を呼び出したことも我々は認めます。しかし、それは死の直前の心からの呼びかけでした。それゆえ、我々は彼をヴァイクンタ(ヴィシュヌの住まい)へ連れて行きます。」

しかし、そうです、彼の罪の償いのために、彼はあなた方のもと(地獄)へ送られます。罰が終わると、彼はヴァイクンタへ戻ってきます。死の直前に主の御名を唱えたことで、彼は輪廻から解放されたのです。彼は解放を受ける資格があります。

アジャーミラがまだ善良な性質を保っていた頃、彼は息子にナーラーヤナと名付けました。後に彼は最悪の罪人となりました。もし彼が息子を産んだ時に完全に邪悪であったなら、ナーラーヤナと名付けることはなかったでしょう。罪のために苦しむことは避けられません。彼は罪の代償を払って、ヴァイクンタへと連れて行かれたでしょう。

マドゥスーダナーヤ・ナマハ

第324話へ続く

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