シュリーマド・バーガヴァタム 第383話
更新日 : 2025.7.16
カテゴリー : シュリーマド・バーガヴァタム
マーダヴァーヤ・ナマハ
ヒランニャカシプは続けました。
「スヤーグナ王の妻たちは、夫の遺体を火葬に運ぶことを許しませんでした。その間に日が沈みましただ。王妃たちの泣き声を聞き、死の神ヤマが幼い少年の姿でそこに現れ、こう言いました。
「アホー・アミーシャーム。(なんと驚くべきことでしょう!)あなた方は皆、この世の生と死を見慣れた老女のように見えます。それでもなお、あなた方はこの王に深く心を奪われています。あなた方は皆、いつかは死ぬ運命にあるのではないでしょうか? 死は避けられないものです。あなた方は、生じた場所の源へと還ったあの人のことを、無駄に悲しんでいます。
おお!なんと幸運なことでしょう!たとえ両親が亡くなり、自活を余儀なくされ、無力になっても、私たちはあらゆる悩みから解放されています。この世でジャッカルなどの肉食獣に飲み込まれることもありません。母の胎内にいた頃から私たちを守ってくれた神は、今も私たちを守ってくれています。
おお、女性たちよ!形のない至高主は、自らの意志によってこの広大な宇宙を創造しました。そして、主だけがこの宇宙を守り、滅ぼします。動くものも動かないものにあふれたこの世界は、主にとって玩具に過ぎません。マハトマはこう宣言します。彼はこの宇宙を守り、滅ぼすことに長けています。ヴィシュヌ神に守られた物は、たとえ道中で置き忘れられても、安全です。神の加護がなければ、どんなに厳重に守られても、その物は破壊されてしまいます。同様に、森の中を一人でさまよう孤児は主の加護によって安全に過ごせますが、家の中で家族にしっかりと守られている人も、主のこの恩寵がなければ死んでしまいます。
生類は過去の果報の力によって、ある時点で適切な肉体を取り、またある時点でそれを捨てます。根本原質の結果であるそのような肉体において、真我は光を放ちますが、肉体とは別のままです。この真我は根本原質とその三つの特質に縛られることはありません。体への同一視(「私は肉体である」という感覚)によって、生類は肉体を得ます。
生類は五大元素で構成されたこの家に住んでいますが、実際にはその存在は、この家とは異なります。家主は巨大な邸宅を建てます。しかし、彼は家の所有者であっても、彼の存在は家とは異なります。同様に、真我はこの肉体の所有者であっても、それは肉体とは異なります。彼の本来の姿はこの肉体とは異なります。
水から泡が生まれるように、火、土、その他の粗大な元素から他の物体が生まれます。これらの物体はすべて、ある時に誕生し、変化し、またある時に消滅します。同様に、人間も五大元素からなる粗大な肉体を持って誕生し、変化し、その後、ある時に死に、肉体を去ります。
木に遍満する火が木とは異なるように、身体に遍満する風が身体とは異なるように、遍満する空間がそこに含まれるいかなる物体とも関係を持たないように、真我(アートマ)は、トリグナの結果として生じる身体の避難所でありながら、それらすべてから隔絶されたままです。
おお、愚か者たちよ!あなた方が嘆いているスヤーグナの肉体は、今もなおあなた方の目の前に横たわっています。それなのに、なぜあなたは泣くのですか?かつてあなた方すべてに耳を傾け、応答していた彼の微細な肉体は、この世界では決して目に見えませんでした。あなた方はそれを一度も見たことがないのです。
生命エネルギー(プラーナ)は、肉体のあらゆる活動の拠り所であり、至高のものであると言われています。しかしながら、そのような生命力(プラーナ)でさえ、聞くことも応答することもできません。
感覚を通してあらゆる出来事を目撃して、指示する真我は、肉体や生命力とは依然として異なる存在です。真我は肉体の駆動者であり、その動きを決定づける存在でありながら、それらすべてから隔絶して、異なる存在であり続けます。
感覚(インドリヤ)と心は結合して粗大な肉体を創り出します。それは五大元素の集合体です。そのような肉体の中には、至高のものもあれば、劣ったものもあります。しかしながら、そのような肉体を受け入れ遍在する真我は、それらの肉体とは依然として異なる存在なのです。
このように平易かつ明快に、ヒランニャカシプは死について説明しています。
ナーラーヤナーヤ・ナマハ
第384話へ続く