シュリーマド・バーガヴァタム 第397話
更新日 : 2025.8.1
カテゴリー : シュリーマド・バーガヴァタム
ナーラーヤナ
プラフラーダは父親に、この物質世界に傾倒する人々は家や持ち物を人生の最終目標とみなしていると説明しています。そのような人々は、マットレスの温かさをヴァイクンタ(ヴィシュヌの住まい)とみなしています。その人たちは午前5時に目覚めることを嫌います。日の出と日の入りの時刻とは無縁です。永遠と眠って、家から外に出ることをためらいます。義務には全く関心がありません。仕事を怠けて、そのために職を失うこともあります。彼らは怠惰に満ちています。映画を見たり、おしゃべりをしたりして夜中の12時まで起きていられるのに、どうして朝の5時に起きられるというのでしょう?彼らは無気力のままです。彼らはいつも仕事に遅刻します。そのような人々は感覚を制御できず、常に怠惰で、眠くて、あくびをしています。常に空腹を感じています。感覚的欲求を満たすことだけが彼らの唯一の目的です。
プラフラーダは続けました。
「彼らは輪廻と呼ばれる闇に繰り返し陥り、同じ行為を何度も繰り返します。同じ感覚的快楽を何度も繰り返し享受します。彼らの知性(ブッディ)は、自らの努力、他者の努力、あるいは聖者との交わり(サットサンガ)によっても、シュリー・クリシュナに定まりません。」
心をシュリー・クリシュナに定まるためには、生類は高潔な転生と心を得なければなりません。彼らは心をただ主に定まらせることができる必要があります。自分の体と家がすべてだと考えている者たちが、どうしてこのレベルに到達できるでしょうか?
家やその他の物に対して無執着を育むことができる者たちは、主へのバクティ(信愛)が爆発的に高まるのを目にするでしょう。世俗的な事柄が心からなくなるにつれて、心は最初から高貴な徳で満たされ始めるでしょう。至高の交わり(サットサンガ)の恩恵は、情熱と闇(ラジャス、タマス)の性質に満たされ、感覚的な欲望とその充足で満ち溢れた心には、決して入り込むことはありません。そのような心を健全と呼ぶことができるでしょうか?怠惰と先延ばしを遠ざけ、話や味覚といった感覚的な欲求から距離を置かない限り、心は決して空になることはなく、決してシュリー・クリシュナに集中することもできません。感覚が制御されると、闇の性質は消え始めます。清らかさ(サットヴァ)の性質が、心のこの空虚な場所を満たします。
プラフラーダは続けて言いました。
「感覚への執着によって心やその他の内側の道具が不純な生類は、物質的な傾向を持つ人々だけを模範とします。彼らは、この外界を人生の究極の目的(プルシャールタ)と信じて、その足跡を熱心に辿ります。それは、盲人が盲人を導くようなものです。」
心が霊的な無知(タモー・グナ)で満たされている人たちは、この世を人生の究極の目的と信じる物質的な傾向を持つ人々を英雄視して、彼らの教えに従います。そのような英雄たちは、感覚的な快楽を満たすことが義務であり、人生の最終的な成果であると宣言します。罪を犯し、不誠実に生きることは、彼らにとって義務です。彼らの考えでは、誠実さなど微塵も存在しません。彼らに心を奪われる無知な人々は、盲人がまた盲人に導かれるようなものです。彼らは皆、悪魔の一族に加わります。彼らは、心から悪習が取り除かれると、主が自動的にその空虚を満たしてくれるという単純な論理に気づいていません。
「彼らは永遠に、ヴェーダの中で果報的な行為の結果としての利益を扱う部分にのみ傾倒しています。これらの行為が解放をもたらすと信じて、それに縛られてしまうのです。」
一般的に、人々は果報的な行為に縛られています。それでも、神への信があれば、そのような人たちも成長の希望を持つことができます。
「神は私たちの果報行為の中に宿り、神自身が果報行為である」。
もしそのような信があれば、行為は神へと移され、神は彼らに英知を授けます。しかし、「私はこの行為の遂行者であり、偉大な存在であり、皆が私の言うことを聞くべきだ」という態度を持つ人は、罠にかかっています。
「そのような人は果報的行為という縄に縛られて、その中で際限なく回転し続けます。そのような心は神について考えることさえできません。人が神への愛と献身を育むとき、これらの縄は自動的に断ち切られます。」
スワミジの解説:束縛に囚われた人々は、自分のことについて延々と語ります。神について考える時間などどこにあるでしょうか?彼らが神へのバクティ(信愛)を持っているかどうか疑わしいです。もしそのような人が神へのバクティを育むとき、束縛という縄は自動的に断ち切られます。彼らは果報的行為に絶対的な信を置きます。ですから、彼らは決して神に集中することができません。」
内なる真我として宿る至高主を究極の目標と信じる者だけが、主に到達できます。聖なる聖者の足から出る塵は完全に純粋です。そのような聖者は世俗的なカルマの束縛から解放されています。彼らに従うことで、私たちはすべてを得ます。サーダカ(修行者)たちが聖者の聖なる足から出る塵を頭にまとわない限り、ヴァーマナとして化身して、その足で全宇宙を覆った至高主の足を得ることは決してできないでしょう。
ゴーヴィンダーヤ・ナマハ