言葉と教え

ジャイミニ・バーラタ 33日目

2025年8月14日、プージャ・シュリー・ダッタ・ヴィジャヤーナンダ・ティールタ・スワミジによる『ジャイミニ・バーラタム』講話の要約

『ジャイミニ・バーラタム』全体は、シュリー・クリシュナの本質と神へのバクティを詳細に描いています。アルジュナがバブルヴァーハナと戦った際、聖賢ジャイミニはそれをシュリー・ラーマとその子らとの戦いに似ていると表現しています。 アルジュナは多大な功徳を積み、バガヴァッド・ギーターを直接授かるという恵みを受けました。しかし、アルジュナが不必要に怒ったり傲慢になったり、シュリー・クリシュナのことを忘れてしまったりした例が数多く記されています。

傲慢にならずに任務を遂行するためには、私たちは神の手の中にある道具に過ぎないことを認識しなければなりません。ハンマーやコンピューターが私たちのところにやって来て、「今日はたくさんの仕事をしました!明日は私に栄誉を与えてください」などと言うようなことはないのと同じです。私たちも常に単なる道具であり続けなければなりません。

外的世界においても、私たちは多くの世俗的な行為に携わっている間も、神やグルを決して忘れてはなりません。信奉者ではない周りの人々は、理解できないでしょう。私たちは神やグルを嘲笑したり、からかったりする者を決して許してはなりません。ですから、私たちは静かに神を黙想しなければなりません。

アルジュナの物語を通して、シュリー・クリシュナが私たちに教訓を与えようとしたのは、リーラです。『ジャイミニ・バーラタム』はミニ・バーガヴァタムのようなもので、偉大な苦行を積み、神の偉大な信奉者である聖賢ジャイミニのような人物だけが、このような偉大な作品を書くことができるのです。

ラーマーヤナから抜け出して、バブルヴァーハナの物語に戻るのは非常に難しいです。ただラーマを唱えるだけで、私たちの心はそこへ導かれます。なぜなら、それはすべての人の物語だからです。ラーマとはアーナンダ、つまり至福を意味します。

rāmaḥ eva ayanam – ラーマは私たちの旅

rāmam prati ayanam – ラーマを求める旅

rāmēṇa ayanam – ラーマと共にする旅

rāmāya ayanam – ラーマのための旅

rāmāt ayanam – ラーマに由来する、あるいはラーマによって始まる旅

rāmasya ayanam – ラーマの旅

rāmē ayanam – ラーマへの旅

これがラーマーヤナムの意味です。ラーマとはアーナンダム(至福)を意味します。ですから、至福とは旅であり、至福とともに旅すること、至福に向かって旅すること、至福のために旅すること、至福と始まる旅、至福のために始められる旅、そして至福の中で旅することなのです。

私たちが行うすべてのことは、幸福と至福のためだけに行われます。私たちはただ、至福がどこにあるのかを見極めなければなりません。シュリー・ラーマは森の中で追放されていた間も非常に幸せでした。

シーターがシュリー・ラーマと引き離されたとき、シーターはブッディ、つまり知性を象徴しているため、シュリー・ラーマは動揺しました。知性が私たちと切り離されると、人はその喪失を悲しまなければなりません。ブッディを再び真我と結びつけるのがヨーガです。アーンジャネーヤ・スワミはヨーガを表しています。ヨーガを実践すると、ヴィヴェーチャナ・シャクティ(自分自身を識別し、批判的に調査する能力)として知られるサッドブッディを得ます。これはまた、グニャーナとしても知られています。人がグニャーナを得ると、アーナンダが戻ります。シュリー・ラーマはアーナンダの体現者となることでこれを実証しました。したがって、それはラーマーヤナとして知られています。アーンジャネーヤ・スワミは、サーダカ(探求者)、サーダナ(霊性における探求)、サーディヤム(目的)の3つの側面すべてを象徴しています。アーンジャネーヤ・スワミはヨーガです。彼は目に見えず、声も聞こえません。彼は決して「私は行った」とか「私は戻ってきた」などと、自分自身について語りません。彼には自我がありません。なぜなら、サーダカ、サーダナ、サーディヤムの三つが彼の中で融合しているからです。トリグナもまた、彼の中で完全に溶解しています。グナもまた存在しないので、彼には自我がありません。彼はただパラマートマと同一視するだけです。アーンジャネーヤ・スワミこそが、それゆえパラマートマなのです。

もし私たちが至福の境地から遠ざかっているとしたら、それは単に私たちがグニャーナから遠ざかっているからです。知性が戻ると、私たちはグニャーナ、すなわちアーナンダを取り戻します。このように、サット・チット・アーナンダこそがパラマートマの姿です。パラマートマとは真理であり、グニャーナであり、それだけが至福です。ラーマーヤナの中でこれら三つが非常に美しく描かれているため、そこから抜け出ることは非常に困難です。他の物語はどれも終わりに近づいているように見えますが、私たちの物語は決して終わりません。私たちの知性と心がパラマートマに融合するまで、この物語は続きます。目覚めた瞬間から眠りにつくまで、物語は毎日始まります。時にはその日の出来事が夢にも現れ、物語は深い眠りの中でようやく終わりを迎えます。同様に、私たちがグニャーナ(英知)を獲得し、ディヤーナ(瞑想)を通してパラマートマに融合するまで、この物語は展開し続けます。 私たちは皆、数え切れないほどの生を受け、これからも多くの生涯を歩んでいきます。グルの恩寵と両親や年長者の功徳によって、私たちは、得るのが非常に難しい、少なくともほんの少しのバクティを獲得できたという幸運に恵まれています。もし私たちがサットサンに時間を費やしたり、良い言葉を口にしたり、サーダナ(霊性修行)をしたりできるなら、それはパラマートマの恩寵であり、私たちはそれをさらに培うよう努めなければなりません。グルの言葉に耳を傾け、より多くのバクティを育むとき、それは私たちを支えてくれます。

小さな赤ちゃんは、食べている最中に眠りに落ちます。彼らが睡眠をコントロールできないのは、それが私たちの真の状態だからです。眠りにつく時、それは至福の状態です。あらゆる心配や悲しみは私たちの本質ではなく、ただ途中の中間状態に過ぎません。深い悲しみの中にいる人でさえ眠ることができます。眠らなければ、脳は機能せず、脳内に血栓が発生します。

ヒマラヤに至福を与えるクシェートラがあるとどこかで読んだら、あなたは自然とそこへ旅したいと思うでしょう。同じように、神は日々、眠りの状態において私たちが経験する至福こそが私たちの真の本質であることを示してくださっています。しかし、私たちは常に目覚め、睡眠、夢見の状態という三つの状態を行き来していることを認識しなければなりません。これら三つの状態にさらに四つ目の状態があるのでしょうか?それはディヤーナム(瞑想)です。プラーナーヤーマ(呼吸法)とマントラの詠唱を行った後、体系的に瞑想を実践すれば、大きな幸福感を体験できます。この状態では、私たちは目覚めていますが、世界と関わっていません。夢を見ているのではなく、目を開けると昼寝の後のように爽快な気分になります。ラーマーヤナの目的は、私たちにディヤーナを追求するよう教えることです。アーナンダラーマとは、ラーマの物語ではなく、私たち自身の物語であることを意味します。ラーマはアーナンダ、つまり至福だからです。私たちは、ラーマがシーターを見捨てたシーター・パリッティヤーガムのエピソードを、ヴェーダーンタの観点から分析する必要があります。ここで、ラーマとシーターを五大元素で構成された肉体を持つ単なる個人として見てはいけません。

かつて、チャトゥルマスヤの期間に、アディカ・マーサが訪れました。マイソールにおけるチャトゥルマスヤの3ヶ月間、私たちはラーマーヤナ全体について説きました。質疑応答の際、ある女性が「もしシュリー・ラーマがアヴァターラ・プルシャであるなら、なぜシーター・マータを見捨てたのですか?そして、なぜ彼女が地に飲み込まれるままにされたのですか?」と質問しました。プージャ・グルデーヴァ(シュリー・スワミジ)は当時、生放送をご覧になっていて、アメリカから電話をかけ、この質問に答えしたいとおっしゃられました。プージャ・グルデーヴァはこうおっしゃいました。

「シュリー・ラーマはパラマートマ、マハー・ヴィシュヌです。シーター・マーターはマハー・ラクシュミです。二人ともすべてを知っています!もし二人が楽しく劇を演じることを決め、シーター・マータが喜び勇んで地に沈んだのなら、なぜそんなに悲しむのですか?二人は五大元素を超越した存在ですから、どのように土に沈んでいくのか、私たちには知る由もありません。シーター・マーターが地に沈んだ後、シュリー・ラーマは、アリや小さな昆虫に至るまで、共に来ようと願う者すべてをサラユ川に連れて行きました。」

私たちはこれらの側面を理解しようと努めるべきですが、心の中に疑念を抱いて質問すべきではありません。それ以来、私はずっと考え続け、もし彼らの別れを、両親が別れたときのように辛いものと考えるなら、当然悲しみに暮れるだろうと気づきました。しかし、そこにはヴェーダーンタを通してのみ解き明かされる秘密があります。それは言葉や外見を超えたものです。真に理解するには、心の奥深くを見つめなければなりません。

エベレストがこれほど高くそびえ立つのは、その深さもまた深いからです。私たちが目にする氷山はほんの一角に過ぎません。水面下、さらに深いところには、氷山の十分の九が存在します。ですから、心の奥深くへと向かう者は、内面に深いガームビーリヤム(深遠さ)を持ち、外面にはアウナティヤム(高み)を持ちます。深遠さと高みの思考によってのみ、私たちは神を理解することができます。これらを単なる物語として聞くだけでは、常に疑問にとらわれてしまいます。マハー・ラーマーヤナムの一部としてヨーガ・ヴァーシシュタムを学んだ時、私はついにラーマーヤナを理解したのです。したがって、聖賢ジャイミニは、この非常に深遠で意義深い主題を私たちが理解できるように、ラーマーヤナをここに持ち込んだのです。

クリシュナはハムサドヴァジャに、アルジュナの傍らに留まり、儀式用の馬を守るよう特に指示していました。その後に起こった恐ろしい戦いで、バブルヴァーハナがハムサドヴァジャを襲い、王は意識を失いました。ヤヴァナーシュヴァの息子スヴェーガは強力なアストラを放ち、バブルヴァーハナはそれを5つに砕きました。そのうち4つは地面に落ちましたが、5つ目の破片がバブルヴァーハナの心臓を貫きました。その一方で、バブルヴァーハナは特殊な矢を放ち、スヴェーガは倒れました。バブルヴァーハナはそのとき、カルナの息子であるヴルシャケートゥを見ました。ヴルシャケートゥは、その場にいた人々の中で最年少でした。バブルヴァーハナは両軍の負傷兵を軍医ウルーピの治療を受けるため、王国へ送っていました。ウルーピの物語はマハーバーラタにも記されています。彼女はアルジュナが結婚したナーガカンニャです。彼女はヴィシャルヤカラニーの知識を持ち、骨折した骨を即座に接合することができました。また、ナーガマニというヒマラヤ産の希少な宝石を所有しており、兵士たちのあらゆる病を治す特別な力を持っています。

人間は蛇と非常に密接な関係があります。故意であろうと無意識であろうと、決して蛇を殺してはいけません。その罪は幾世にもわたってあなたを苦しめるでしょう。子どもを望む者は、スブラマニヤ・スワミに祈り、蛇を礼拝しましょう。なぜなら、神が人間を創造しようとした時、最初に蛇が生まれたからです。 私たちの内にも、クンダリニー・シャクティという形で蛇が宿っています。私たちが自由に動き回れるのは、手足があるからこそです。そうでなければ、蛇のように地面を這っていかなければなりません。私たちは生まれる前、父親の体内にいる時は蛇の姿をしています。母親の胎内にいる時は、胎児は頭と尾だけの蛇のような姿です。目と手足が発達するのはその後です。シャーストラとプラーナには、蛇に対して罪を犯した場合は、シュラヴァナ・マーサに来るガルダ・パンチャミーとナーガ・パンチャミー、そしてカールティーカ・マーサに来るナーグラ・チャヴィティにサンスカーラ(一種の儀式)を行うことで償わなければならないと記されています。

ピータプラムのアシュヴァッタ樹の下には、一対の蛇とスブラマニヤ神を描いた非常に美しいムールティがあります。その美しさは息を呑むほどです。絡み合った蛇は、私たちの体内のイダーとピンガラ・ナーディーを表しています。夫婦がこのムールティを巡礼する際、この蛇たちと同じくらい近くにいられるようにと祈らなければなりません。サルパ・デーヴァタたちもその人たちを祝福します。スブラマニヤ・スワミにとって、蛇は非常に大切な存在です。彼はしばらくの間、蛇の姿でシュリーシャイラムの洞窟に隠れていたため、グハンと呼ばれています。蛇の姿をとったことから、蛇たちに恩義を感じ、彼らに恩寵を求めるように言いました。彼らは、信奉者がサルパ・デーヴァタたちに祈るたびに、神の恩寵によって子宝に恵まれるよう祈ったのです。スブラマニヤ・スワミとヴァースキは友人です。8月22日には、アースレーシャ・バリが行われ、41の供物が主に捧げられます。

家や建物を建てる際は必ず、サルパ・デーヴァタ・シャンティを執り行わなければなりません。なぜなら、建設の過程で蛇とその子どもたちが殺されたかどうかは分からないからです。

ウルーピはこの貴重な宝石を使って倒れた兵士たちを癒し、生き返らせたので、アルジュナが戦争に負けつつあることをとても喜びました。これは『ジャイミニ・バーラタム』には記されていませんが、『マハーバーラタム』の聖賢ヴィヤーサが説明しています。アルジュナがチトランガダと結婚し、南インドで彼女と過ごしていたとき、ウルーピはハンサムなアルジュナを見て恋に落ちました。アルジュナが湖で水浴びをしていると、ウルーピは湖の水を通ってナーガ・ローカ(蛇の界)へと彼を連れ去って、自分と結婚すれば解放してあげられると告げました。そのため、アルジュナはこのナーガカンニャと結婚するしかありませんでした。二人の間にイラーヴァンタという息子が生まれました。ウルーピはナーガ・ローカのイラーヴァンタを離れ、人間の姿をとって地上に残り、赤ん坊のバブルヴァーハナを育てました。彼女は、地上に残っていればアルジュナにもっと頻繁に会えるだろうと願いました。

マハーバーラタの戦いが終結した後、八番目のヴァスであるビーシュマは、ヴィシュヌ・サハスラナーマを授けた後、高次の住処へと旅立ちました。彼のバクティは深く、衰弱した体躯にもかかわらず、矢の敷かれた床に横たわり、ヴィシュヌ・サハスラナーマを唱え続けました。ユディシュティラがクリシュナが動揺しているか見ようとした時、クリシュナは瞑想に入っていました。するとクリシュナは突然立ち上がり、ユディシュティラに、すぐにビーシュマのもとへ行き、ダルマの教えを学ばなければならないと告げました。

できるなら、ヴィシュヌ・サハスラナーマを毎日唱えましょう。無理でも、少なくともエーカーダシーごとに、あるいは少なくとも月に一度、プールナミの満月の下で唱えましょう。月を見上げれば、必ずサッドグルデーヴァとマハー・ヴィシュヌを月の中に見ることができるでしょう。

ビーシュマの兄妹である七人のヴァスたちが集まり、アルジュナがどのようにして兄を殺したのかを議論していました。彼らは、いつ死の淵を去るかを自分で決められるビーシュマが、どうしてアルジュナに殺されたのかと不思議に思いました。そして、アルジュナが戦略的にシカンディを自分の前に送り込み、それをおとりとしてビーシュマを襲ったのだとわかりました。実は、アルジュナはこう尋ねていたのです。

「おお、お祖父様!力強い獅子のように勇敢に戦っているあなたを、どうやって倒せばいいのか教えてください!」

アルジュナにシカンディを戦場に送るよう命じたのはビーシュマでした。シカンディがアムバであることを知っていたビーシュマは、武器を取らず、女性と戦うこともしませんでした。七人のヴァスたちは、この大罪を犯したアルジュナを呪うことを決意しました。この呪いを知ったウルーピは、父であるナーガ・ローカ王に、夫をヴァス族の呪いから解いてくれるよう祈りました。王がヴァス族に救済を祈ると、彼らは「この呪いを解く唯一の方法は、アルジュナが我が子の手で死ぬこと」だと言いました。

そのため、ウルーピはアルジュナがバブルヴァーハナの手にかかって敗北することを大変喜びました。今、戦場に残っているのはアルジュナとヴルシャケートゥの二人だけでした。アルジュナはヴルシャケートゥをハスティナプラへ送り返したいと考え、

「あなたは世界の模範である。誰もがあなたから慈悲の心を学ぶべきだ。あなたは私たちの血統の中で唯一生き残った者だ」と言いました。

アルジュナがそう言った瞬間、再びハゲワシが飛んできてアルジュナの頭に止まり、再び王冠を落としました。このハゲワシは他でもないガルダでした。アルジュナに、せめて今こそシュリー・クリシュナを思い起こさせるため、ガルダがやって来たのです。

アルジュナは言いました。

「おお、ヴルシャケートゥよ、今は不吉な兆ししか見えない!戦乱の渦中に、鳩が私の戦車に飛び乗り、アーサナで眠りながら大きないびきをかくとは、一体どういうことか!なぜこのハゲワシは私の冠を何度も叩き落とすのか、私には分からない。自分の影さえ見えない。もう長くは生きられないのではないか。今すぐハスティナプラへ行かなければならない。もしあなたもこの戦いで命を落としたら、クンティ・マーターとユディシュティラもまた悲しみに暮れるだろう。」

ヴルシャケートゥは言いました。

「私はあなたの傍を離れず、この戦いから退くつもりはありません!私には傷一つありません!もし私が困難に陥っているあなたを見捨てたら、皆から叱責されるでしょう!困難にある友を助ける者は、永遠に高次の世界へ行くことが保証されています。たとえ私たちの命が危険にさらされていても、危険にさらされている牛や子牛を守り、救わなければなりません。困難な時に友を見捨てる者は、永遠に地獄で過ごすことになります。」

もしあなたの家の近くにゴーシャラ(牛舎)があるなら、そこから牛乳を調達してください。牛は元気に育つはずです。

ヴルシャケートゥがアルジュナの指示を無視して戦場に飛び込んだとき、バブルヴァーハナはヴィシュヌのアストラを使い、ヴルシャケートゥと彼の戦車、そして御者を空へと飛ばしました。するとヴルシャケートゥは別の戦車に飛び乗り、バダバーストラを放ち、バブルヴァーハナの戦車を空へと飛ばしました。二つの戦車は空中で衝突し、戦っていました。バブルヴァーハナは地上に飛び降り、別の戦車に乗り換えました。ヴルシャケートゥとバブルヴァーハナの戦いは五日間続きました。ユッダ・ダルマは、一方の戦士が戦っているときは、もう一方は戦ってはならないと教えています。そのため、アルジュナは傍観者として戦いを見守っていました。

yaṁ yaṁ vāpi smaran bhāvaṁ tyajatyante kalevaram |

taṁ tam evaiti kaunteya sadā tadbhāvabhāvitaḥ || バガヴァッド・ギーター 8.06

私たちがこれまでどのように生きてきたかは一つの尺度です。これからこの世界を去るまでどのように生き、何を考えているか、それだけが私たちの未来を決定します。

六日目、バブルヴァーハナは深いバクティをもってシュリー・クリシュナに祈りを捧げて、矢を放ち、ヴルシャケートゥの首を切り落としました。首は飛んできてバブルヴァーハナを気絶させて、アルジュナの足元に落ちました。深い悲しみに暮れながらヴルシャケートゥの首を拾い上げると、その首は安らかに微笑み、「ケーシャヴァ・ラーマ・ナラシムハ」と唱えていました。アルジュナはヴルシャケートゥのバクティに驚嘆し、今までシュリー・クリシュナを思いめぐらさなかったことを深く悔い改めました。

34話へ続く

PAGE TOP