言葉と教え

シュリ・チャクラ(女神の象徴)についての9つの講話 その1

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至高の自己についての知識(アートマ・パリチャヤ)

バンダ・ムクタ(肉体の牢獄からの解放)

 内在する永遠の真実は、たった一つ、唯一のものであり、それは「ブラフマ・サティア」です。アドヴァイタ(不二一元論)・ヴェーダーンタのもっとも純粋な形も同様に教えています。真実は、「錯覚(マーヤ)」のヴェールの背後に隠されています。その真実とは、精妙で絶対的な聖なる母「ジャガンミティヤ」です。すべての創造物は、この真実と再び結合する道を探し求めています。錯覚のヴェールは事実をぼやかして、わたしたちをずっと無知の道へ留めようとしています。つまり、このヴェールを打ち破り本来の存在状態に至ることがわたしたちの義務なのです。わたしたちは、肉体、マインド、魂を持っていると想像しています。この見かけ上の違いによって、身体は真実(聖なる母)が表現のために使う微細なマインドの外壁とみなされます。しかし、総体的にはアートマンは原初の動きであり、知るものにして知られるもの、そして知そのものでもあります。マインドとは総体的に名前であり、それ自体に生命はありません。それはアートマン(デーヴィ)によって知覚され表現されます。汚れなきマインドは、絶対的な意識となります。デーヴィは原因と結果、三重性(トリプティス)、または二重性を超越しており、純粋なる知覚(チンマイ)です。マインドのみが、エゴ(アハム)、神(アートマン)、世界(プラパンチャ)の三重の原理を構成しています。彼女(聖なる母/デーヴィ)は、常に自然発生的に自己から生まれる気づきの状態にあり、それは生と死を超越しています。にもかかわらず、アーカラ(形)、ニラーカラ(無形)、アーディ(始め)、アニティヤ(終わり)、カルヤ(結果)、カーラナ(原因)、などの事実の無限の広がりがあり、これらは私たち全員によって瞑想されながら、このナヴァラートリの間にも存在しているのです。形が視覚化される時、それは起源と終焉があることを意味します。しかし、誰がデーヴィの形を「見ている」のでしょうか?

 長く継続的で安定した実践によって、「直観知識」‥‥それはシンプルで純粋な存在(アムリタマイ)には本来備わっているものですが・・・それに到達します。これが本当の「見ること」です。肉体は、いつか滅びるものです。しかし純粋な存在には、「時間」と呼ばれる限定は存在しません。それは時間を超えています。マインドは、その純粋な性質において明確になるとき、肉体、空間、因果関係、主観と客観等々を得ます。アートマン(デーヴィ)は、アカンダ・チャイタニヤ(目に見えない霊)です。アートマンを普遍的に覆っているものが、無知、です。

 わたしたちの現在の性質は、わたしたちの過去の自らの行為によってつくられたものです。自らのサンスカーラの原因です。思考、行為、感覚は、肉体より長生きです。それらは次の生のマインドを形成します。わたしたちは適切なサンスカーラを獲得しなければならず、また適切な方法で救済される必要があります。人は自分のサンスカーラによって惹きつけられる道を行くことになります。気高いサンスカーラは自己探求とアートマヴィチャーラに引きつけられ、その後、ムクティ(解放)へと導かれます。マインドはサンスカーラを運ぶ者だと言うことができるでしょう。肉体が消失すると、サンスカーラは次の人生ための別の特性と性質を持つ肉体を創造するでしょう。再び様々な行為に揺さぶられ(原因と結果)、それぞれの生は(別の肉体を獲得しながら)果てしない繰り返しを続けます。わたしたちはこの生と死、原因と結果のサイクルを抜け出すべきなのです。アートマ的な性質のみが、この世界の錯覚的な性質に気がつくことができます。

 肉体は生ける寺院であり、個人の魂(アートマン)は真実の絶対性です。サンスカーラはそれを拘束します。マインドは強烈な努力と霊的修練に寄って“溶解”されるべきです。アートマンの状態に留まることが、ヨーガ、ジニャーニャ、瞑想、信愛、カルマの完成です。サンスカーラがどのようにしてマインドを巨大なものに拡大させるかはよく知られています。例えば、小さな流れが山の頂きにあり、他の小さな流れと合流しながら川の大きさになり、やがて大洋になります。小川は微細(スークシュマ)であり、大洋は巨大(ストゥーラ)です。プラーナ、あるいはアートマンは微細ですが、肉体、インドリヤス(感覚器官)、マインド(マナス)、その他のすべての粗大(ストゥーラ)なものになります。これはマインドがサンスカーラを集める時に起こります。アートマンは間違って、肉体がアートマンであり客観的な事実だと思い込んでいる肉体との同一化をしてしまうときに、あなたは停滞してしまうのです。無知は、ポットの水に反映した太陽を、本物の太陽だと思い込みます。賢明な人は、ポットと水と反映を取り除き、空にある太陽が本物で、唯一で、不変であり、ポットと水と反映のすべてを照らしているものだと知ります。

 賢明で識別ができる人は、肉体、知性、意識と呼ばれる光の反映を取り除き、真実であるアートマン(デーヴィ)を深く探求します。アートマン(デーヴィ)は、肉体、知性、意識のすべてを照らし、なおかつその外観であり、目撃者でもあるのです。賢明な人はその探求に寄って、悟り、ジーヴァンムクタとなります。エゴの不純な性質から解放され、生と死を持ちません。その人は悲しみから自由です。この状態に達するまでは、拘束状態、ずっと拘束状態があるのみです。いつこのジーヴァンムクティ(解放)が到達されるのでしょうか? いつのこのサイクルが止まるのでしょうか? いつ平和はやってくるのでしょうか?

 膨大な幾万もの動きは止まるべきです。それぞれの転生は相互に関連し、数珠繋ぎになっています。それぞれの数珠玉は一つの個人の人生です。数珠玉は交代していきます。それには始まりも終わりもありません。

※この記事は、1987年のナヴァラートリ(女神を祀る9日間の祭り)にシュリ・スワミジによって1日ひとつずつ行われた講話を収録した『THE MYSTERY OF SRI CHAKRA』を訳出したものです。

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