ヨーガ・ヴァーシシュタ 第1話(全体像と真髄の説明)
更新日 : 2026.3.27
カテゴリー : ヨーガ・ヴァーシシュタ
(詠唱 00:29~1:20)
Śri Gaṇeśyāya namaḥ
Śri Sarasvatiyai namaḥ
Śri Śrīpāda Vallabha Nṛsiṃha Sarasvatī
Śri guru Dattātreyāya namaḥ
Śri Gaṇapati Saccidānanda Sadgurubhyoḥ namaḥ
asato mā sadgamaya |
tamaso mā jyotirgamaya |
mṛtyormā’mṛtaṃ gamaya ||
oṃ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ ||
サッドグルデーヴァの聖なる御足に、そしてジャヤラクシュミー・マーターの蓮の御足に敬意を捧げます。今日から『ヨーガ・ヴァーシシュタyoga-vāsiṣṭham』を始めます。
『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は傑出した素晴らしいテキストです。 これは最高度に霊的なグルと弟子との対話であり、弟子は他ならぬ至高の主ご自身でした。ヴァシシュタがグルであり、シュリー・ラーマが弟子でした。このような完璧な組み合わせは、創造の世界に二度と現れることはありません。 この師と弟子の対話が『ヨーガ・ヴァーシシュタ』です。 ヨーガ・ヴァーシシュタは、ヨーガ・ラーマーヤナ、 マハー・ラーマーヤナ、マハー・ヨーガ・ラーマーヤナム、そしてジュニャーナ・ヴァシシュタムとも呼ばれています。 ヨーガ・ヴァーシシュタは、すべての注釈者が用いる一般的な名称です。 したがって、私たちもこれを ヨーガ・ヴァーシシュタ、あるいはヨーガ・ラーマーヤナと呼ぶことにします。
この聖典は、私たちにヨーガ、 幸運、そして霊的な知識という恩恵をもたらします。 誰もが至高の知識を求めて努力することが不可欠です。 ですが、私たちは幻想に陥り、 知識を無益なものと見なし、 他の世俗的な事柄にばかり目を向けてしまいます。 これ以上の幻想はありません。 知識は、私たちが真にそれを求めるときにのみ得られるものです。 もしあなたの心が真にそのような知識を渇望し、 あなたの中に正しい献身が存在するならば、 あなたの献身の度合いに応じて、 子牛が母についていくように、あなたについてくるでしょう。 もしあなたの中に正しい献身、 深い切望があり、あなたが真に霊的教師からそれを得ようと求めるならば、 そのような善き願望があなたの中に芽生えるならば、 それは必ずあなたを追いかけてやって来るでしょう。
『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』は献身の重要性を称えています。 『バクティ・マーラ(アーシュラマ発行の書籍)』では、それについて詳しく学んでいます。 この学びには、正しい献身(シュラッダー Śraddhā)が非常に重要です。 心を一点に集中させ、 この知識を完全に理解できるよう、 祝福を祈らなければなりません。 「私たちの限界や霊的レベルに関わらず、 慈悲の心から、 どうか私たちにそれを明らかにしてください、おお、グルデーヴァよ。 私たちはそれを求めてやって来たのです」と祈らなければなりません。
それでは本題に入りましょう。 『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は膨大な文献であり、 32,000の詩節から成ります。 一方、『ラーマーヤナ』は24,000の詩節から成ります。 この文献には6つの主要な章(プラカラナPrakaraṇa)があります。プラカラナとは、聖典(シャーストラśāstra)によく登場する用語です。 これは完全で確実な理解のために主題を説明する手順を指します。 私たちはプラカラナの順序を忠実に守らなければなりません。 無計画に、あるいは無作為に詩句を選び、その意味を説明することは、誤りであり、罪深い行為です。 スワミジの生涯を取り上げ、無作為に主題を説明できるでしょうか? 私たちは、その主題に至るまでの背景を理解し、それがどこへ向かっているのかも知らなければなりません。 文脈に基づいて主題を説明する必要があります。それがプラカラナです。
『ヨーガ・ヴァーシシュタ』には6つのプラカラナがあります。 第一は「ヴァイラーギャ・プラカラナ(Vairāgya Prakaraṇa)」、すなわち無執着の醸成の章です。 無執着は重要な前提条件です。 自らを賢く博識だと考える未熟者は、しばしばこう言います。 「あなたは願望や欲望を育まなければならない。」 「志を抱くことによってのみ、成功することができる。」 この言葉は真実ですが、 物質的な取引にのみ当てはまります。 肉体を持つ以上、 それに伴う困難を経験することは避けられません。 それらは必ず経験しなければならず、 あるいは、 グルからそれらを排除し前進する方法を学ぶ必要があります。 ですがグルが困難の完全な排除を保証することはありません。 なぜなら、それは運命の一部だからです。 最も偉大な聖者でさえ、 肉体を持ったまま生き続けるのはなぜでしょうか? それは「プラーラブダPrārabdha(必ず経験しなければならないカルマ)」です。 至高の聖者が深い瞑想に入ったとき、 なぜその肉体は死なないのでしょうか? この疑問はヨーガ・ヴァーシシュタの中で提起されています。 これに対して、 プラーラブダが原因であるとされています。 それは必ず経験しなければならないのです。 プラーラブダの背後にある論理は、 あなたが生み出したものは、あなた自身が経験しなければならないということです。 他人はあなたの行為の結果を経験することはできません。 他人に私たちの過去の行為の結果を経験させることは罪です。 意識的にも無意識的にも、 私たちはグルに、過去の行為の結果を代わりに引き受け、使い果たしてくれるよう祈っています。 しかし、それは間違いです。 「どうか、私の過去のカルマを速やかに、そして 適切に使い果たすためのエネルギーをお与えください」――これが私たちの祈りであるべきです。 私たちの過去の行為は、病気、 苦痛、別離、あるいは幸福を引き起こす可能性があります。 私たちが享受している幸福も過去の善行の結果です。 「どうか、それらを速やかに経験し、使い果たしてください。 ハリシュチャンドラが、 12年間続くはずだった経験を 12分間の夢の中で経験することでカルマを使い果たしたように、 私も速やかにカルマを使い果たせますように。 どうか私を祝福してください」――これがサッドグルへの私たちの祈りであるべきです。 このように祈るには、無執着(ヴァイラーギャ)が必要です。 ヴァイラーギャは「ヴィラーギャスヤ バーヴァハ ヴァイラーギャvirāgasya bhāvaḥ vairāya」と定義されます。 ここで主題は無執着(ヴィラーガvirāga)であり、憎しみ(ドゥヴェーシャdveṣa)ではありません。 プラーナ文献は憎しみの結果については詳しく述べています。『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』 – なぜこれらは生まれたのでしょうか? それは「決して誰かを憎んではいけません。それは極めて間違ったことです。」のためです。
「ラーマヴァット・ヴァルティタヴヤム、ナ・ラーヴァーナーディ・ヴァット Rāmavat vartitavyam na Rāvānādi vat」―これは私たちに「ラーマのように振る舞い、ラーヴァナ、 クンバカルナ、カーラ、ドゥーシャナ、シュールパナカのように振る舞ってはいけません」と教えています。 「ナ・ラーヴァーナ アーディ・ヴァットna Rāvāna ādi vat」という言葉は、聖典の中で巧みに用いられています。 ラーヴァナや彼のような者たちのように振る舞ってはいけません。 もし『ナ・ラーヴァナ・ヴァットna Rāvāna vat』と言っていたら、 人々は『私たちはラーヴァナを真似るつもりはないが、 クンバカルナには従う』と言うかもしれません。すると私たちはクンバカルナのように、食べて寝てばかりいることになります。 聖典で用いられるすべての言葉には、極めて重要な意味があります。 すべての言葉には深い意味があり、深い理解を必要とします。 これらはグル(師)の教えです。 グルが発した言葉は、一つとして消し去ることはできません。 すべての言葉には、深い意味があります。
「ナ・ラーヴァナーディ・ヴァットna Rāvānādi vat」―ラーヴァナのような情欲(ラジャス)と怠惰(タマス)の特質に満ちた者たちを真似てはいけません。 マハーバーラタも同じ教訓を伝えています。 決して誰をも憎んではいけません。 ドゥルヨーダナとその追随者たちは憎しみによって滅びました。 愛、愛情、慈悲、憐れみの感情によって、パーンダヴァたちは高められました。 彼らの慈悲深い性質は、主の称賛と恩寵をもたらしました。 このような教訓は、マハーバーラタをはじめとする多くの聖典から学ぶことができます。 クリシュナの本質に物語を織り交ぜ、それを説く聖典はバーガヴァタムです。 プラーナ文献はシャーストラをほんの少しだけ掘り下げています。完全にではありません。 それは、主題が誰にでも理解されるようにするためです。 これらの聖典は、執着と憎しみの両方に触れていますが、 憎しみの方をより強調しています。 憎しみは許されません。 憎しみ、嫉妬、狡猾さなどは捨てるべきだと説かれています。 これらはすべてプラーナ文献に記されています。 ですが、プラーナ文献やその他の文献が十分に掘り下げていないテーマが一つあります。 それはラーガRāga(執着)です。
過度な執着も捨てるべきものです! なぜでしょうか? 執着こそが、あらゆる苦しみの原因だからです! 理由は単純です。 複雑な説明は不要です。 あらゆる苦しみの原因である執着を捨てなさい。 その後、執着を持ち続けるか捨てるかは、あなたの自由です。 例えば、医者が「ヨーグルト、ピクルス、ギー、油は控えてください」と指示したとしましょう。 「隣人が食べているのに、なぜ私は食べてはいけないのですか?」と患者は反論できるでしょうか? もしかしたら、隣人はそれらによって何らかの恩恵を受けているのかもしれません。ですが将来、これらの食べ物が彼に害を及ぼす可能性もあるかもしれません。私たちは何も言えません。 「それはあなたの健康に悪影響を及ぼしているので、控えてください」――そう医師が処方するなら、ただ従うしかありません。 なぜ私たちは彼の言うことを聞くべきなのでしょうか? なぜなら、医者は自身の経験と知識に基づいて教えているからです。 では、私たちは彼の知識をどう信じればいいのでしょうか? 彼は自身の経験に基づいて話しているか、あるいは 同じような経験をした人々を見てきたかのどちらかです。 だからこそ、彼は患者に砂糖やその他の食品を控えるように勧めます。 ただ彼に従う、それだけです。 「もし私が砂糖の摂取をやめたら、 砂糖工場はどうなるでしょう? 工場が閉鎖されたら、従業員はどうなるでしょう? 従業員が失業すれば、経済は打撃を受けるでしょう。」 このように言うとすれば、あなたは、 1日15グラムの砂糖の摂取をやめることで業界の全体がだめになると正当化しようとしています。 これは論理的な考えでしょうか、それとも歪んだ考えでしょうか? このような考えは、私たちの無知を露呈しています。
私たちはこの無知から抜け出さなければなりません。 私たちの中にあるそのような無知を打ち砕くものこそが『ヨーガ・ヴァーシシュタ』です! ヨーガ・ヴァーシシュタは誰の無知を打ち砕いたのでしょうか? シュリーラーマ神の無知です! 「どうして神が無知に陥ったのでしょうか? 」と私たちは驚くかもしれません。 しかし、物語はこう語っています。 ある事情により、 主は自らを囲いの中に閉じ込めました。 主は自らにヴェールをかけました。 シュリー・ラーマがヴェールに包まれた時、 グル(師)の必要性が生じました。 グルはそこに現れ、教えを説きました。 「わが子よ、あなたの考え方は間違っている。 表面的には立派に見えるが、実際は間違っている。」 グルはこうしてシュリー・ラーマに教えを説きました。 このイニシエーションの 最初の教えは無執着の獲得についてでした。 私たちは「ラーガ」とは執着を意味すると話し合いました。 それは愛ではありません。
現代社会では、私たちは様々な極端な状況に晒されています。 あるテーマを聞いていると、 心が他のテーマへとさまよい始めます。 その結果、集中しているテーマが 深く心に刻み込まれません。 せっかく聞きに来たテーマも、 私たちの心にしっかりと根付かないのです。 ですから、グラスを空にすることが重要です。 お茶は空のグラスにしか注げません。 空っぽのグラスでなければお茶は出ません。 満杯のグラスにどうやってお茶を注げるでしょうか? ですから、まずはヴィパリータ・バーヴァViparīta Bhāva(反対の感覚)を捨て、 話されていることに完全に集中しましょう。 完全に聞き終えてから、探求を始めましょう。 聞いている最中に、内省を始めてはいけません。 疑問を口にする前に、テーマを徹底的に聞きましょう。 「あなたの説明は私の個人的な経験と異なっていました」― 授業後に私と話し合ってください。
「執着(ラーガ)を捨てなさい」―私たちは教えられます。 「ここで言われている執着とは何のことですか?」―そもそもそのような疑問は生じてはならないのです! もしそのような疑問がもっともらしいのであれば、 教師自身が「この特定の対象への執着を捨てなさい」と明確に説明していたでしょう。 彼が「執着を捨てなさい」と言うとき、それは 「あらゆるものへの執着を捨てなさい」という意味です。 これは、あなたがこの学びを放棄すべきだという意味ではありません。 あなたは完全に執着を捨てるように求められているのですから! 絶対真理と 関連する有益な事柄を除いて、 私たちは他のすべてのものへの執着を捨てなければなりません。
健康に害を及ぼすものはヴィジャーティーヤ(vijātīya)、 有益なものはサジャーティーヤ(sajātīya)です。 健康という文脈では、これらの用語はこのように理解されます。 「有害なものを捨てなさい。 有益なものをつかみなさい」― これが適用すべき単純な論理です。 有害な物、思考、行為の詳細なリストを作成することは現実的ではないため、 私たちはあらゆるものへの執着を捨てること(ヴィラーガvirāga)を求められています。少なくともこの教えを聞いている間、あるいはサットサンガSatsaṅga(霊的集会)に参加している間は、 世俗的なものへの執着を手放す練習をしましょう。 ここから始めましょう。 徐々に私たちは成長していくことができます。 マハートマ(偉大な魂)だけが、最後の段階に直接到達することができます。 心が外的な対象に囚われることなく、この教えに集中するように心がけましょう。 これがヴァイラーギャ(無執着)です。
「ヴィラーガスヤ・バーヴァハ・ヴァイラーギャVirāgasya bhāvaḥ vairagya」 ― 無執着という性質こそがヴァイラーギャです。 この章は「ヴァイラーギャ・プラカラナ」(無執着の章)として知られています。 これはこのテキストの第一章です。 第二章「ムムクシュ・ヴヤヴァハーラ・プラカラナMumukṣu vyavahāra prakaraṇa」(求める者の態度の章)です。 ムムクシュとは、至福を体験したいという欲求を指します。 誰もが至福を体験したいと願っています。 解脱とは、至福を体験することに他なりません! 至福を体験したいというこの深い欲求は、ムムクシュトヴァムMumukṣtvamとして知られています。 解脱を求める人々はどのように振る舞うのでしょうか? 彼らの振る舞い方、そして私たちがこの至福を享受するために何をすべきかを説明するのが、この章「ムムクシュ・ヴヤヴァハーラ・プラカラナ」です。
「ウトパッティ・プラカラナUtpatti prakaraṇa」(創造の章)は、非常に重要な章です。 私たちはこの目に見える宇宙を見ています。 この宇宙はどのようにして生まれたのでしょうか? 宇宙卵(ブラフマーンダBrahmāṇḍa)、個物(ピンダーンダpiṇḍāṇḍa)、宇宙の子宮――私たちはこれらの名前を聞き、そしてこの宇宙を見ています。 宇宙の出現について説明するのが、「ウトパッティ・プラカラナ」(創造の章)です。 続いて、「スティティ・プラカラナSthiti prakaraṇa」(存続の章)があります。 この宇宙はどのように維持されているのでしょうか? その維持の背後にある原因は何でしょうか? この宇宙が実在するか否かについての議論は、後ほど行われます。 ここでは、維持について議論します。
次に、「ウパシャマ・プラカラナUpaśama prakaraṇa」(消滅の章)が続きます。 これは、消滅の過程です。 創造されたものはすべて、破壊されなければなりません。 これは神の創造における必然的な原理です。 この消滅はどのように起こるのでしょうか? ここでは、「融合」という言葉は使われず、 「静まる」と表現されています。 段階的に消滅し、静まっていきます。 伝統に従い、私たちはランプが消えたとは言いません。 代わりに婉曲表現を用います。 太陽は夕方に徐々に沈み、 朝には静かに昇ります。 太陽の昇り沈みはヴェーダーンタと密接に関係しています。 『ヨーガ・ヴァーシシュタ』にも、それらへの言及があります。 沈む太陽のように、この宇宙も徐々に消滅していきます。 これを説明している章が「ウパシャマ・プラカラナ」です。
次に、「ニルヴァーナ・プラカラナNnirvāṇa prakaraṇa」(涅槃の過程)が続きます。 ニルヴァーナとは、絶対的な解脱を意味します。 『ヨーガ・ヴァーシシュタ』の 6 つのプラカラナの教えはマハルシ・ヴァシシュタがシュリー・ラーマに与えた、ヴァイラーギャ・プラカラナ(無執着の章)、ムムクシュ ヴヤヴァハーラ・プラカラナ(求める者の態度の章)、 ウトパッティ・プラカラナ(創造の章)、スティティ・プラカラナ(存続の章)、ウパシャマ・プラカラナ(消滅の章)、ニルヴァーナ・プラカラナ(涅槃の章)の6つの区分として説明されます。
私たちは「ヴァイラーギャ プラカラナ」(無執着の章)に足を踏み入れています。 この章の大部分は次の形式で説明されています。 ストーリーがあるので楽しいです。 教えられている主題を味わい、楽しむ練習をしてください。 そのテーマを楽しみ始めると、 もう他の味を求めることはなくなります。 「グルから与えられたプラサーダムを味わった私たちは、 もう他の味を理解できません」 – と私たちは言います。 私たちはその味を目指さなければなりません。 アンナマーチャーリア・スワミは多くの味覚を経験しました。 しかし、女神のラドゥーを口にした時、彼は畏敬の念に打たれました。同様に、信奉者は様々な味覚を経験します。 ヴィドゥラは聖なるバジルを味わい、 その味は他のどんな味よりも遥かに優れていると叫びました。 ですから、物語を味わうように、 主題を味わうことを学ぶべきです。 なぜそれが必要なのでしょうか? なぜなら、ブラフマン、すなわち真我は対象ではないからです! これは奇妙ではありませんか? 私たちは真我を対象として議論しますが、 実際はそうではありません。 それが主体なのか対象なのか、誰も説明できません。 それが物質なのか形容詞なのか、誰も判断できません。 ですが、それを理解するためには、 それが対象であるという前提から始める必要があります。 他に道はありません。 私たちはそれをブラフマンとして説明しなければなりません。
この「ヴァイラーギャ・プラカラナ」において、 私たちに道が示され、 マハルシ・ヴァシシュタが私たちをその道へと導いてくれます。 シュリー・ラーマを口実として、私たちはこの知識を与えられています。 クリシュナがアルジュナを口実として私たちに教えを授けたように。 マハルシ・ヴァシシュタはここで私たちに教えを説いています。 私たちのサッドグルデーヴァは『ヨーガ・ヴァーシシュタム』を深く愛しています。 すべてのグランタGrantha(論文)にはプラシャムサーPraśaṃsā(それを称賛する章)が含まれています。 どの論文も、冒頭で、その目的、有用性、そして 適格性が述べられなければなりません。 これらがなければ、グランタとは呼べません。 論文の目的は何でしょうか? それは無作為な話題の寄せ集めであってはなりません。 一つの主題を取り上げ、詳細に説明し、 そして体系的に結論づけなければなりません。 そうして初めて、論文は完全なものとなります。 無作為に扱われた無作為な話題を扱った本を読んではなりません。 そのような本が今日では出回っています。 注意してください。 代わりに、原典(ムーラMūla)を読む習慣を身につけましょう。 『ダッタ・ダルシャナム』はムーラ・グランタ(根本原典)です。 これは称賛に値する書物です。 このような称賛に値する書物を読んだ後は、 主題を無作為に解説するような、 ありふれた書物を読んで混乱してはいけません。 もしどうしても無作為に解説書を読みたいのであれば、 疑問点を書き留めて、専門家から説明を受けてください。 そうしないと、そのような読書は混乱を招くだけです。 原典(ムーラ)に忠実に従い、 ムーラが理解しにくい箇所のみをわずかに逸脱しながら、 ヨーガ・ヴァーシシュタを理解してみましょう。 ヨーガ・ヴァーシシュタはウパニシャッドと同等の権威を持つため、 定められたマントラを唱えることから始めなければなりません。
(25:33~26:18 詠唱)
gururbrahmāgururviṣṇuḥgururdevomaheśvaraḥ
guruḥsākṣātparabrahmatasmaiśrīguravenamaḥ akhaṇḍamaṇḍalākāramvyāptamyenacarācaramI
tat padamdarśitamyenatasmaiśrīguravenamaḥll
pūrṇamadaḥpūrṇamidampūrṇātpūrṇamudacyate
pūrṇasyapūrṇamādāyapūrṇamevāvaśiṣyate
oṃśāntiḥśāntiḥśāntiḥ
なぜ、ある論文の偉大さを知る必要があるのでしょうか? それは、その論文に対する愛着と意欲を高めるためです。 「この論文を通して自分の願いを叶えられる」―― そう考えることで、その論文を読む意欲が高まります。 「期待するものが見つかるかどうか分からないまま読み始めた」―― もし途中でこのような疑念が湧いてきたら、 先に進むでしょうか、それとも戻るでしょうか? もし探しているものが見つからないのであれば、 何の意味があるでしょうか? ですから、始める前に、 この岸にとどまるか、対岸に渡るかを決めなければなりません。 対岸に渡った後に何をするかを知っておく必要があります。 もしこの岸にとどまることを決めたなら、 自分の目的を明確にしておく必要があります。 この論文についての記述は、グランタ・プラシャムサ(論文の称賛)として知られています。 『ヨーガ・ヴァーシシュタ』では、この書の素晴らしさがマハルシ・ヴァシシュタ自身によって語られています。 彼は自慢しているのではないか、と私たちは思うかもしれません。 人々は、愛や献身、あるいは何らかの形で恩恵を受けたという理由で称賛することがあります。
このように称賛する者たちは皆、私たちより優れているわけではありません。 彼らは劣っている場合があります。 あるいは、彼らが私たちより優れているにもかかわらず、 何らかの良い結果を期待して私たちを称賛しているのかもしれません。 その期待は必ずしも利己的なものではありません。 例えば、子どもは 優秀になる、あるいはより良い成果を上げることを期待して褒められます。 ですから、私たちより劣る者も私たちを称賛し、 私たちより優れた者も私たちを称賛するのです。 ヴァシシュタの場合、皆、彼より地位が低いと言えます。 彼は古代の賢者でした。 もし彼より地位の低い者がこの書物を称賛したとしても、 私たちはそれを信じなかったでしょう。 私たちはそれを重要視しなかったでしょう。この書物を称賛できる彼より地位の高い者はいませんでした。 したがって、彼は自らの著作を称賛せざるを得なかったのです。 ヴェーダは自らを称賛します。 「あなたの疑問を解決してくれる者がいないとき、あなたの疑問を解決する助けとなるのはヴェーダである」とヴェーダは宣言しています。 ヴェーダはどのようにして自らを称賛できるのでしょうか? ヴェーダ以上にヴェーダを称賛できる権威は存在しないため、ヴェーダは自らを称賛せざるを得ません。 同様に、グルはこう宣言します。「私にすがりなさい。あなたの困難は解決されるでしょう。 あなたは知識を得るでしょう。」 グルは自らについて宣言しなければなりません。 もしグルがこのように宣言しないならば、 私たちは決して正しい知識を得ることはできないでしょう。 したがって、マハルシ・ヴァシシュタ自身が自らの著作の素晴らしさを説明しました。 彼の意図は、私たちのヴェーダへの傾倒をさらに強めることでした。 彼はどのように始めたのでしょうか?
(29:32~29:45 詠唱)
彼はまず、その目的を説明することから始めます。 彼は、この論文の目的は解脱の達成であると言います。 私たちは、解脱とは至高の至福を経験することを意味すると議論しました。 解脱とは、この肉体を離れた後に達成されるものではありません。 それは至福の状態で生きることです。 解脱を得るためには、明確な計画が必要です。 このテキストの名前は何でしょうか? ヨーガ・ヴァーシシュタム、マハーラーマーヤナ、それともジュニャーナ・ヴァシシュタムでしょうか? これらの疑問が生じた時、 どの名前も適切ではないと言われました。 なぜなら、このテキストは解脱を得るための明確な方法を詳細に述べているだけだからです。 サンヒターSaṃhitāとは、 この論文が明確な順序に従っていることを意味します。 それは、すべての花が縫い合わされた花輪のようなものです。 サーラ・サンヒターはすべてのヴェーダとウパニシャッドのエッセンスを含んでるものです。全部で32,000の詩句から成ります。 この経典を読むことで得られる功徳とは何でしょうか? 解脱(涅槃、モークシャ、至福)をもたらします。 このような教えが、ヴァシシュタによってシュリー・ラーマに伝えられました。
(31:28~31:39 詠唱)
突然眠りから覚め、目を開けると、 昇る太陽に気づきました。 あるいは、燃える光を見つけました。 私たちは自分の願望によって光を見つけたのでしょうか? いいえ。それは偶然でした。 光を見るために特別な願いをする必要はありませんでした。 目があるだけで、それを見るのに十分です。 目を開けた瞬間、そこに光があるのが見えます。 同様に、(解脱のために)他の努力は必要ありません。 このテキストを深く理解するだけで十分です。 ただ聞くだけで十分です。 このテキストに身を委ねるだけで十分です。 師の言葉に耳を傾け、そこに身を委ねるように、 このテキストに身を委ねるだけで十分です。 それは自動的に私たちに光を示してくれるでしょう。 たとえその人が、目を開けたときに灯りを見ないようにと意図的に決めたとしても、 灯りは自動的にその人の目に映るのです。 なぜでしょうか?それは、内なる存在が見たいと願っているからです。同様に、この論文によって自動的に解脱が得られます。
(33:10~33:18 詠唱)
この特定の分野に必要な知識があれば、私たち自身でこのテキストを読むことができます。 この論文以外には、このような自由は見られません。 他のすべてのテキストは、必ずグル(師)の指導の下で学ばなければなりません。 たとえすべてを知っていても、他のテキストを聞かなければなりません。 グルの印がなければ、それらのテキストに関する私たちの知識は無意味になります。 しかし、このテキストは私たちに独学の自由を与えてくれます。 独学を行うと、 私たちは疑念に悩まされる可能性があります。 そのため、このテキストは、他の人が語るのを聞くことができるという利点を与えてくれます。 なぜシャーンティ・マントラは3回唱えられるのでしょうか? 数字の3には大きな象徴性が込められています。 それは3つの世界を象徴しています。ブー、ブヴァル、スヴァ、 これら三つの世界が平和でありますように―という意味です。 私を苦しめる三種類の苦悩 (アーディブーティカ、アーディヤートミカ、アーディ・ダイヴィカ) が静まり、平和になりますように。 私が既に犯した罪、あるいは 将来犯すかもしれない罪が消え去りますように。 私の中の霊的な無知が消え去り、 霊的な知識に恵まれますように。 このように、「シャーンティ」を三度唱えることには多くの意味があります。 ここでは「ブラーンティ・シャーンティbhrānti shanti,」と唱えられています。これは、 無知が消え去り、幻想が消え去りますように、という意味です。 それは、解脱と呼ばれる一つの幸福、一つの至福をもたらします。 これがこの経典の力です。
(35:28~35:34 詠唱)
私たちが、この経典を自らの意思で、そして喜びをもって 他者に説明したり、注意深く聞いたりすれば、それは叶えられます。ガンジス川で沐浴すると、 自ら進んで沐浴したか否かにかかわらず、 三種類の幸福に満たされます。 サッドグル(真の師)の御姿を拝み、その御眼が私たちに注がれる時、 私たちが意識的に求めようと求めまいと、 困難に対する解決策を見出すでしょう。 これが聖典です。 ガンジス川で沐浴することで、心、体、そして知性が浄化されます。 その後、その清らかさをどれだけ長く保てるかは、 完全に私たち次第です。 紛れもなく、私たちは浄化されます。 無神論者でさえも清らかさを得ます。 ガンジス川の力はそれほどまでに偉大です。 ガンジス川は天界に源を発する唯一の川です。 他のすべての川は、 別の時代に主の恩寵によって源を発しました。 ガンジス川のように、この聖典は私たちの苦悩と無知を払い、 解脱をもたらします。
(36:43~36:57 詠唱)
ある人が縄を蛇と間違え、恐怖に駆られて逃げ出しました。 その後、彼はランプを持って戻り、縄をよく観察しました。 そして、自分の愚かさに気づきました。 このように、徹底的に吟味することで、彼は恐怖を克服することができました。 同様に、この聖典を聞き、その内容を復唱することで、 私たちの恐怖は消え去ります。 この聖典をただ見て、敬意を払うだけで、 私たちは正しい果実を得るのです! これが、聖典を家に置いておくべき理由です。 『スワミジの人生記』、『ダッタ・ダルシャナム』、『バーガヴァタム』、 『ラーマーヤナ』、『バガヴァッド・ギーター』は、 毎日目にするように、家に常備しておくべきです。 そうすれば、迷った時にすぐに参照できます。
ヴェーダーンタで用いられる動詞はすべて同じ意味を持ちます。それは、正しい知識を得ることです。 「彼は進んでいる」とは、ヴェーダーンタでは、知識に向かって旅をしていることを意味します。 「眠っている」という言葉は、無知を捨て去ることを意味します。 このように、あらゆる行為は知識と結びついています。 プレークシャナPrekṣaṇaとは、簡単に言えば、本を読むことです。 実際には、知識の観点から物事を考察することを意味します。
(38:55~39:01 詠唱)
これはヴェーダに匹敵する至高の経典です。 ヴェーダのような物語であり、ヴェーダそのものです。 ゆえに、私たちはこれを読み、理解しなければなりません。 この書物には注釈が与えられるべきだと言われています。 この命令に従い、私はその注釈を授けます。 この書物は崇敬されるべきものです。 そして、それは私たちに人生の四つの目的を授けてくれます。 プルシャールタPuruṣārthaとは、ダルマdharma(正義)、アルタartha(富)、カーマkāma(欲望)、そしてモークシャmokṣa(解脱)です。
(39:53~40:05 詠唱)
ヴェーダは多くの果報をもたらす行為について教えています。 私たちのプージャー(礼拝)、功徳を積む行為、アンナダーナ(施食)―― これらすべてはヴェーダによって巧妙に教えられています。 マハートマ(偉大な聖者)たちはこれらの巧妙な教えを詳細に説明しました。 これらの巧妙な教えに従う者は、 良い結果を享受しています。 同様に、『ヨーガ・ヴァーシシュタ』はあらゆる果実と共に私たちを祝福してくださいます。私たちは行為の道と知識の道の両方で成就を得ます。 あなたはカルマ・ヨーギー(行為のヨーガを行なう者)またはジュニャーニ(知識を知る者)となるでしょう。 あなたはカルマ・ヨーギー(行為のヨーガを行なう者)になるか、 ジュニャーニ(知識を知る者)になるかのどちらかです。 どちらも解脱をもたらすと、クリシュナ神は述べています。 私たちはこれら二つの道の真髄を理解します。
(40:56~41:02 詠唱)
このテキストには、無意味で軽率な議論は含まれていません。 論理的な議論に満ちています。 理論は論理的に証明されています。 私たちは論理的に考えることを教えられます。 提起されたすべての疑問には答えがあります。 あらゆる形態の論理がこのテキストに組み込まれています。 書かれているからといって、ただ受け入れることを求めているわけではありません。 私たちは疑問を投げかけることを奨励されています。 なぜなら、提起されたすべての疑問に答えがあるからです。 私たちは推論を明確に理解することができます。
(42:16~42:21 詠唱)
なぜそう言われるのでしょうか? なぜなら、ここで私たちが得るものは、私たちが求めるものだけに限定されないからです。 例えば、サッドグルは私たちが求めるものよりもはるかに多くを与えてくださいます。 これはあなたの経験ではありませんか? 私の経験もそう言っています! それは、彼が無限の慈悲を持っているからです。 同様に「慈悲の心から 私はこの哲学を説いているのです」とヴァシシュタは言います。 それはシュリー・ラーマのためではありません。彼は至高の主です。 「私が説いているのは、この知識を求める未来の世代への慈悲の心からです」とヴァシシュタは言います。
(43:13~43:17 詠唱)
「マーヤヤー」は、 彼が私たちを惑わしたり欺いたりするために教えているという意味で解釈してはなりません。 「私はあなたを欺いたり傷つけたりするために教えているのではありません。 慈悲の心から私は教えています。 私の知識は経験的に証明されており、 この知識を用いて私は至福と幸福を経験してきたことを知っているからです。 他の人々もまた至福を得ることを願って、至福を、私は教えます。 それを教えることで、私には何の利益もありません。 純粋な慈悲の心から教えるのです」 ヴァシシュタはこう述べています。 グル・マヒマーGuru Mahimā(師の栄光)とは何か? グル・カルナGuru Karṇa(師の慈悲)こそがグル・マヒマーです。 慈悲に勝る栄光はありません。 慈悲だけが私たちを高めます! それは私たちを守ります。 「そのような慈悲の心から私は教えます。 私は手品師ではありません。 私は幻影を捨てた者です。 私は幻影を克服しました」とヴァシシュタは言います。
(44:35~44:41 詠唱)
「あなた方も幻影について学ぶでしょう。 それについて深く考えなさい。 そうすれば、真実と虚偽、 永遠と無常、 幻影と現実を区別できるようになるでしょう」。 水に入る前に、 安全かどうかを知らなければなりません。 さもなければ溺れてしまうでしょう。 私たちが溺れないように、 慈悲の心から、彼は私たちにこの知識を教えたのです。この教えを理解することで、幻影について理解を深めることができます。
(45:21~45:35 詠唱)
これはヴァールミーキの詩才でしょうか、それともヴァシシュタの詩才でしょうか? 私たちには理解できませんが、ここには称賛に値する比較があります。 評判の良いショッピングモールで、 私たちは食料品を買い、料理を作りました。 しかし、塩を入れるのを忘れてしまいました。 結果はどうなったでしょうか? 料理は味気なく、美味しくありません。 ここで、この論文は他のすべての論文の「塩」であると言われています。 『チャンドーギヤ・ウパニシャッド』は、塩を例に挙げて理論を説明しています。 塩の粒子を水に完全に混ぜ込んだときに、それを識別できるでしょうか? 上の方からスプーン一杯の塩水を一口飲むと、 塩辛い味がします。 少し水を捨てて一口飲むと、 それも塩辛いです。 底の方の水を一口飲むと、 それも塩辛い。 「塩はどこにあるのですか?」と先生は尋ねました。 「水の中に均等に混ざっています」と生徒は答えました。 「同様に、真我は宇宙全体に均等に遍在している」と『チャンドーギヤ・ウパニシャッド』は宣言しました。 ウパニシャッドが本質を平易な言葉で教えてくれるなら、私たちはその教えにしっかりと耳を傾けるべきではないでしょうか?
(47:12~47:21 詠唱)
他の聖典が他の食料品のようなものだとすれば、 『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は塩です。 この知識が他の聖典に加わって初めて、 それらは楽しいものになります。 同様に、人生はグルが人生に入ってきて初めて楽しいものになります。 グルなしの人生は輝きを失います。 したがって、このテキストはグルの地位にあります。
(47:48~47:59 詠唱)
ここでのアーリヤムĀriyam―ここではヴェーダを指します。 「私たちはヴェーダの教えのみに従う」と多くの人が言います。 以前は、「私たちはグルの教えのみに従う。 グルの教えだけが私たちにとって価値がある」と人々は言っていました。 同様に、 自ら起源を持つヴェーダが教えることのみに従い、 人間の創作物には従わないと主張する人もいます。 彼らに語りかけると、この著作はヴェーダに匹敵すると言われています。 それはグルです。 見るべきものを見ることができず、 正しい視点を欠いていると、あなたは過ちを犯す可能性があります。 だからこそ、私たちはあなたを導いているのです、とこの著作は述べています。 この知識を求めないことは、自殺に等しいのです。 人間の肉体を得た後、 この知識を求めることは不可欠です。 さもなければ、私たちは自殺の罪を犯すことになります。 そのような災難からあなたが救われますように! バヴァBhava(世界)、私たちはこの 輪廻転生のサイクルの中で永遠に回転しています。 このサイクルから抜け出すには、 『ヨーガ・ヴァーシシュタ』のこの著作を聴くか、読む必要があります。 ここで説明されている真理を理解し、体験してください。 最後に、ヴァシシュタはこう述べています。
(49:54~50:10 詠唱)
どれほど称賛しても、それは不十分です。 ですから、ここで終わりにしましょう。 たとえそれを限りなく称賛しても、不十分です! どれほどグルを讃えても、それは不十分です。 これこそが、私たちがグルから受けた恩恵です。 同様に、『ヨーガ・ヴァシシュタ』は無限の恩恵を授けることができます。 したがって、最後にこう締めくくります。 最終的な結果は、『ブラフマ・スートラ』を読むことの最終的な成果と同じです。 「彼は二度と戻ってこない。 彼は二度と戻ってこない。」 私たちは聖地への帰還のみを願うべきです。 「ここに戻りたい」―― 私たちはその場所を去る前にそう願うべきです。 ですが、私たちは映画館やホテルを出る時にそう願います。 グルの境内を去る時、 私たちはすぐに次のダルシャン(拝謁)の祝福を得られるよう願わなければなりません。
(51:30~51:36 詠唱)
本書に記された技法は、 それを実践する最高の修行者でさえも解放するでしょう。 マハーヌバーヴァMahānubhāvaという言葉には多くの深い意味があります。 それらはあらゆる困難から完全な解放をもたらします。 サムサーラ(輪廻転生)とは配偶者や子どもに限った意味ではありません。 それは困難を意味します。 困難を取り除くと、至福が降り注ぎます。
(52:25~52:30 詠唱)
これはマハルシ・ヴァールミーキとヴァシシュタが私たちに教えていることです。 この聖典の果実とは何でしょうか? それは究極の至福をもたらします。 それは究極のサッチダーナンダの状態(真理、意識、至福)をもたらします。 それでは、瞑想のシュローカを唱えましょう。
(53:17~54:41 詠唱)
yataḥsarvāṇibhūtānipratibhāntisthitānica |
yatraivopaśamaṃyāntitasmaisatyātmanenamaḥll
jñātājñānaṃtathājñeyaṃdraṣṭādarśanadṛśyabhūḥ|
kartāhetuḥkriyāyasmāttasmaijñaptyātmanenamaḥll
sphurantisīkarāyasmādānandasyāmbare’vanau|
sarveṣāṃjīvanaṃtasmaibrahmānandātmanenamaḥll
brahmānandātmanenamaḥll
jai guru sadgurunātha maharāj ki jai
oṃśāntiḥśāntiḥśāntiḥ

