言葉と教え

ダッタ・スタヴァの唱え方(スマルトルガーミ サノーヴァトゥについて)

カテゴリー : /

では主たるストートラ(詩句)に進みましょう。その前にこのマントラの主たるマクタム(王冠)である「スマルトルガーミー・サノーヴァトゥ」を理解しましょう。

「スマルトルガーミー・サノーヴァトゥ」の言葉には真髄が含まれています。
このマントラは全体的にダッタについて言っていますが、そのダッタという名前には直接言及していません。代わりに、「スマルトルガーミー・サノーヴァトゥ」という言葉がどの節でも使われます。
この特別な二つの言葉にはどんな意味が含まれているのでしょうか?

スマルトルガーミーは「彼のことを思うとすぐに現れる」という意味です。
主ダッタは帰依者が彼のことを単に思うだけで非常に喜びます。すぐにダルシャンで祝福します。
なぜ詩句の中に主の名前が出てこないのでしょうか?彼を「スマルトルガーミー」と呼ぶ隠れた理由とは何でしょう?どうしてダッタートレーヤが彼の名前として呼ばれないのでしょう?理由があります。理解していきましょう。

彼の名前がこの詩句に出てこないのは、実は、彼が名前を持っていないからです。名前と形は、全てに遍満する実在に限界を作ります。パラマートマには本質的に名前も形もありません。(ナーマやルーパがない)主はあなたや私に存在し、全ての形態や全てのバーヴァナ(存在物)の中にいます。アヴァドゥンバラとディガンバラは同義語です。主が衣(アンバラ)として方向性(ディク)を持っていると強調しています。言葉を換えれば、主は遍満であるという意味です。どこにでもいて、誰の中にも、全ての中にいますが、同時に手の届かないところにいます。主を捕まえることは不可能です。これがパラマートマの本質です。名前と形は主の本質的な性質である遍満ということに制限を生みます。

人はどうやって自分の名前を持ちますか?通常は両親が新生児に名前をつけて、それがその子の名前になります。両親が名前をつけないとすればどうなるでしょう?その子が大きくなったときに自分で名前を持たない限りは、名無しのままになります。子どもに名前をつけるときにも、従うべき特定の手順があります。これは命名式・サンスカーラと呼ばれます。乳児は寺院やサッドグルのところに連れていって、その子の星と他の詳細を伝えなければならず、グル/神に名前を求めなければなりません。地域ごとに慣習は異なります。サッドグルのところに行って名前をお願いすることも認められた手順です。

主ダッタの場合、ダッタの父マハルシ・アトリは規定されたサンスカーラ(浄化の儀式)には従いませんでした。父は命名式を行いませんでした。それは息子が至高の存在であり、サンスカーラ(気質)を欠いた、属性を超えたところの存在が息子として生まれてきたことを知っていたためです。両親は息子が時間の形にほかならないことに気づいていました。実際はダッタは時間を超えていました。
クリシュナの場合、母親のヤショーダはこの事実を気づいていませんでした。彼女は自分の息子だと思っていました。この認識の欠如のため、彼女はクリシュナから離れなければなりませんでした。後になって彼女は自分の息子ではなく至高のパラマートマであることを認識したのです。それはクリシュナのマーヤーでした。

ダッタの父はアトリで母親はアナスーヤでした。ア・トリとは、トリグナ(純質・激質・暗質)を超えた人、あるいは、トリグナを手に掴んだ人を意味します。アナスーヤは嫉妬(アスヤ)の痕跡が全く無い人を意味しています。その名前には二人の至高の状態が込められています。二人はダッタを自分の息子とは見ていませんでした。ダッタがサンスカーラ(洗練、改善)を必要としていないと信じていたため、名前をつけなかったのです。

彼に名前がないのなら、なぜ両親は彼をダッタと呼んだのでしょうか?
良い息子を望んで、アトリとアナスーヤはニルヴィンディヤ山脈のルクシャードリ山で激しいタパス(苦行)を行いました。ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの臨在のもと、全ての神々はどの神が彼らの苦行に果報を授けるのかと思いました。三億三千万の神々の集会の中、三人の主要な神が夫妻に近づいて、二人の苦行の果報を届けることになりました。ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュヴァラ(シヴァ)の仲介で与えられた恩寵は、実際のところ三億三千万の神々に与えられるものでした。この計画によると、ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュヴァラは夫妻の前に現れて「私たち自身(ダッタ)をあなた方に贈りました」と言ったのです。

ダッタとは「贈り物、授与」を意味します。ダッタは「自身を与えた者」、あるいは「ジュニャーナ(叡智)を与える者」を意味します。
英語に翻訳されるとダッタは「present」という意味になります。
A)英語のpresentは贈り物(プレゼント)の意味です。
B)presentはpre+sentに分けられ、「前もって送られた」の意味です。ダッタは全ての個我(ジーヴィ)が創造される以前に送られた存在だからです。
C)presentは「現在」を表します。私たちは「今」を生きなければなりません。ここでダッタは時の姿をとっています。それが私たちに与えられた時間です。過去は経過した時であり、未来はまだ生まれていない時間を指します。偉大な魂たちは「完全に今に生きる者」という意味の「ヴァルダンテー」と呼ばれます。

その時トリニティ(三神)は三つの頭を持った男の子に変身して夫婦に近づきました。この夫婦を祝福したとき、三神は「ダッタ」という言葉を使ったため、これを見ていたその地域の人たちは皆、この少年を「ダッタ」と呼んだのです。そのためこの主は誕生する前に彼の名前を得たのです。行者たちは彼を「マハルシ・アトリのダッタ」、または「マハルシ・アトリの贈り物(ダッタ)」という意味の「ダッタートレーヤ」と呼びました。そのため、正確な名前ではなく、称号でした。少年は大きくなっても名前を持ちませんでした。彼は「アトリの贈り物」と呼ばれ続けました。要するに、この主には名前がないのです。彼が名前も形もない存在だと考えれば十分です。そのため名前のない化身となったのです。

「スマルトルガーミー」と唱えるとき、「おお主よ、あなたのことを思います」ということを意味します。大きな声で主のことを呼ぶ必要はありません。ただ考えるだけでいいのです。主は喜びます。しかし主のことを最高の愛、信、恐れ、畏敬の念で思う必要があります。そうして初めて主は目に見える形を取ります。どこで主は見えるのでしょうか?呼びかけるそのハートに主を見るでしょう。いつ見えるのでしょうか?主を呼ぶと即すぐに主は見えるようになります。そのためスマルトガーミーは主の適切な名前なのです。スワミ・ヴァスデーヴァーナンダはそのような強烈な信愛の思いで、このように主を呼んだのです。

サノーヴァトゥは主が私たちを守ってくれますように、という意味です。「私たち」という言葉の意味は何でしょう?私と私の家族は一つの解釈です。本当の意味は「私を守ってください、そしてこの宇宙の全ての存在を守ってください」という意味です。聖者のような人は自分の利益だけのために決して祈りません。彼は創造の全ての生きとし生けるものの幸福を祈ります。
サルヴェー・ジャナ・スキノー・バヴァントゥ、サマスタ・サンマンガラーニ・バヴァントゥ

利己的な利益を確実にするためになされる苦行は間違っています。人は自分自身、家族、親戚、村の全ての住民、国民、そして創造世界の全ての存在のために祈らなければなりません。
自分の家族が不幸せなときに、どうして幸せになれますか?同じように村の他の家族が不幸せのときにどうして人や家族は幸せになれますか?それは本当の幸せではありません。真の幸せは世界の全ての存在が幸せであるときにだけあるものです。実際に存在の全ての界の全ての存在が幸せになるように祈る必要があります。これは全ての界(ローカ)が相関関係にあるためです。トップダウンの方法で見てみると地球は様々な異なる界(ローカ)の存在があるからこそ存在しているのです。あなたの村が存在するのは地球が存在しているからこそなのです。村に調和があるからあなたは平和に自分の家で暮らせるのです。家族が幸せだからこそあなたが幸せに暮らせるのです。そのため見識の広い人は存在する全ての界、全ての存在の幸せを求めるのです。

近所の人、敵、地主、居住者の幸せを祈ることを学びなさい。良い知性で全ての人が祝福されるように求めなさい。真の紳士は、深刻な問題/病気にあっても、「敵もそのような困難に遭わないように」祈ります。この寛大な心を映し出しています。敵の破滅を呪ったり、求めることは間違っています。
このダッタ・スタヴァではスワミ・ヴァースデーヴァ・サラスワティがサノーヴァトゥという言葉を使って全ての存在の幸せを祈ることを確実にしています。
では、ダッタ・スタヴァの句に進みましょう。

<続く>

☞ダッタ・スタヴァ(全詩句)
☞ダッタ・スタヴァ 音声(英語表記あり)

PAGE TOP