バジャ・ゴーヴィンダム第3~5話
更新日 : 2024.7.13
カテゴリー : バジャ・ゴーヴィンダム
【シュリー・スワミジによるシャンカラーチャーリアの教えの真髄の解説】
第3話
mudha jahīhi dhanāgamatrśnāṃ
kuru sadbuddhim manasi vitrśnām |
yallabhase nija karmopāttaṃ
vittaṃ tena vinodaya cittam
賛歌の意味:おお、愚か者よ!あなたは至高の真理を知らない。お金や富を得たいという欲望を捨てなさい。いかなる変化も全く伴わない(ヴィカーラ)高徳な知性を培いなさい。収入やお金は前世の行いに基づいて得られる。得たものに満足しなさい。
最初の節は無知(アヴィディヤ)について教えています。この無知から逃れるために、バガヴァッド・キールタナ(主の名前を歌ったり唱えたりすること)が提示されました。
2番目の節は、過度の欲望や欲求(カーマ)を抱くことに対して警告しています。心をコントロールすることの必要性が強調されています。
「カーマ」という言葉は、単に貪欲な欲望に限定されません。「カーマ」にはあらゆる形態と種類の欲望が含まれます。つまり、あらゆる形態の富、地位/称号、物質的所有物を手に入れたいという欲望はすべてカーマの一部です。これは「トリシュナ」または「渇望」としても知られています。喉の渇きを癒すことができるのは水だけです。しかし、喉が渇きすぎて水が手に入らない場合は、命に危険を及ぼします。同様に、欲望がすべての限界を超えると、多大なる没落を引き起こす可能性があります。このためスワミは心に欲望(カーマ)をに近づけてはならないと説いています。
バガヴァッド・ギーターはカーマの危険性を次のように説明しています。
sangat sanjayate kamah kamat krodho ‘bhijayate..
意味:関係すること/執着は欲望につながり、欲望は今度は怒りへの道を開きます。怒りは、その人に自分自身を忘れさせます。この妄想は知性(ブッディ)の衰えを引き起こします。知性が弱まり、非常に悪い状態にある人は完全に破滅します。
これらすべては欲望に由来するものなので、心が欲望に染まっていないことを確認することが非常に重要です。
人は、心の欲望を満たすことが、その必要性/欲望を心から追い払う最善の方法であると誤って信じてしまっています。しかし、バガヴァッド・ギーターは、この欲望(カーマ)を火に例えています。「ギー」(澄ましバター)を捧げても、聖なる火(ホーマ)の炎の強さが増すだけです。同じように、欲望を満たすと欲望に対する渇望が倍増するだけです。本当に炎を消したい人は、炎に水を注ぐべきです。炎が鎮まることを期待して、ギーを炎(欲望)に与えても何の役にも立ちません。
この「モーハ・ムドゥガラ」は、聖者(サンニャーシ)や至高の道を歩む非常に知識のある人々だけに向けた説教ではありません。この聖典は、社会的地位や性別に関係なく、すべてのカーストやコミュニティの人々にとって等しく重要です。このため、シャンカラーチャーリヤ・スワミは、稼ぐこと自体が悪いとは言いません。
代わりに彼は、すべての生き物には前世から持ち越してきた徳と罪(プンニャとパーパ)があると述べています。この世界でお金を稼ぐことは、このように持ち越されてきた徳と罪に完全に依存しています。したがって、すべての人がこの世で努力して稼いだもの/得たものに満足すべきであると説いています。
第4話
nārī stanabhara nābhīdeśaṃ
drṣhṭvāmāgā mohāveśam |
etanmāṃsa vasādi vikāraṃ
manasi vicintayā vāraṃ vāram
賛歌の意味:女性の体に夢中になっても、妄想(モーハ)に陥ってはいけない。この魅惑的な美しさは、筋肉、肉、血によって引き起こされる ヴィカーラ(変化)にすぎないことを理解するのだ。この真実を心の中で熟考しなさい。この真実を絶えず熟考することで、ある日、本当のことがあなたに明らかになるだろう。
この節は、女性の体と美しさへの心酔を捨てるように人を駆り立てます。したがって女性は、このルールが男性にのみ適用されるという誤解を抱いてはなりません。真実は、外見上の肉体的な美しさに焦点を当てないということは、男女ともに等しく当てはまるということです。
人々が外見上の肉体的な美しさに注意を向けて、相手の知性(ブッディ)、叡智、または知識に注意を向けないのは普通のことです。肉体的な美しさへの情熱を捨てることに重点が置かれています。血と骨から成るこの肉体は、腐りやすく死ぬものです。ではいつこの無常の物に対して渇望を抱く必要があるのでしょうか。
カーマ(欲望)はアリシャドヴァルガ(6つの内なる敵)の第一であり、最も偉大な人でさえをも欺く力を持っています。欲望に完全に取りつかれた人は、適切な判断力と識別力(ヴィヴェーカ)が枯渇します。善(徳)と悪(罪)を区別できません。ナフシャの物語は、この良い例です。
天界の王の地位を得ることは並大抵の偉業ではありません。厳しい苦行を積んだ偉大なマハトマだけが、その地位を確保できます。この尊い地位を得た後も、ナフシャはサチ・デーヴィ(インドラの配偶者)に夢中になり、その結果、その状態から落ちてしまいました。マハリシ・ヴィシュヴァーミトラでさえ情熱の罠に陥り、その結果苦行の力(タパス・シャクティ)をすべて放棄しなければなりませんでした。
肉体への愛は、この輪廻転生(あらゆる束縛を伴う人生)の根源です。言い換えれば、粗大な肉体へのこの情熱は、生き物の堕落(パタナム)の原因です。人間はこれを克服できたときにのみ、必要な平安を得ることができます。
人が肉体という幻想の餌食にならないように、この節では肉体の性質について詳しく説明しています。この肉体は、皮膚、肉と筋肉、膿、血液、骨、分泌液の形の不純物などで構成されています。この肉体は毎秒変化します。
スワミジも、バジャン「ナーガラム・ナーガラム・ナーラーヤナ・ナーガラム」で、この人間の体の性質を説明しています。この人間の体は、2本の柱(脚)で支えられた都市のようなものです。9つの穴(ナヴァ・ランドラ)があり、そこから常に不純物が排出されます。汗でさえも不純物に他なりません。このような不純な固まりは「シャリーラ」(肉体)と呼ばれています。私たちはそれを高く評価して、賞賛することに大きな誇りを持ち、それを美しくするために多大な努力をします。その間に老齢が始まり、肉体はさらに多くの変化を経験します。それは病気になります。私たちはこの肉体がいつ衰えるか知りません。その後何が起こるでしょうか?火に入れられると灰になります。埋められると劣化します。投げ捨てられたり、単に捨てられたりすると、細菌が繁殖して腐ります。
したがって、男性も女性も、自分の体や相手への肉体的な魅力を控えるべきです。この肉体の無常性を何度も思い出して、その罠に陥らないようにする必要があります。この幻想を克服するために、「ゴーヴィンダ」の名前を繰り返し唱え続けるべきです。
第5話
nalinī dalagata jalamati taralaṃ
tadvajjīvita matiśaya capalam |
viddhi vyādhyabhimāna grastaṃ
lokaṃ śokahataṃ ca samastam || 4 ||
賛歌の意味:この人生は、蓮の葉に注がれた一滴の水のように不安定で移り気である。この世界のすべての人は、病気(ヴィヤーディ)、悲しみ、利己主義(プライド、アビマーナ)にとらわれ、苦しんでいる。
この節は、時間、その価値、この世界とその住人の性質について教えています。人生は、蓮の葉の上でバランスをとっている不安定な一滴の水に例えられています。この一滴の水のように、人生は移り気で不安定であり、したがってこの賛歌は、自分が永遠であるというエゴを捨てるように人に教えています。バガヴァッド・ギーターは「アンタヴァンタ・イメー・デーハ」と述べており、これは「すべての肉体は滅びる」という意味です。
人生は無常であるというこの真実を誰もが理解することが不可欠です。この理解をもって、人はダルマ(正義、法、義務)への献身を高め、それに従うべきです。
人の寿命が100年だとすると、その50%、つまり50年は眠りに消えていきます。12年半は無知な幼児期と子ども時代に失われます。もう12年半は老齢期とその衰弱で失われます。最終的に、人が利用できる時間はわずか25年です。この時間は病気、悲しみ、困難で失われます。それでは、人生の中に幸福の余地はどこにあるのでしょうか。
私たちは、死の神(ムルットュ・デーヴァタ)が私たちの髪を掴んで引き離していると信じて、毎分毎分、良心的に注意深くダルマに従うべきです。できるだけ早く、徳の高い行い(サット・カーリヤ)を加速して完遂するべきです。この点で先延ばしにすることは賢明ではありません。困難や必要に迫られたとき、至高の神は先延ばしにせず、代わりに私たちを助けに駆けつけてくれることを常に覚えておいてください。
かつて主クリシュナは、カルナの寛大で博愛的な態度についてアルジュナに教えたいと考えました。バラモンの衣装をまとったクリシュナは、カルナに近づいて施しを乞いました。ちょうどそのとき、カルナは左手に油の入った金の壺を持ち、右手で髪に油を塗っていました。カルナは何も考えずに、左手で油の入った金の壺をバラモンに与えました。バラモンは左手で施しをするのは間違っていると言って、この贈り物を受け取ることを拒否しました。さらに、その壺には油が入っており、左手でそれをあげることは絶対に許されませんでした。
カルナは目の前に立っているバラモンが、他でもないクリシュナであることに気づきました。彼はすぐにクリシュナの足元にひれ伏して嘆願しました。「おお、クリシュナ!私が左手でその物を与えたのは傲慢さからではありません。あなたがそれを求めたとき、私は左手に金の器を持っていました。正しい手順で施しをするためには、油を注ぎ、壺を徹底的に洗ってきれいにしなければなりません。その間に気が変わったらどうしますか?だから、何も考えずに左手で与えました。どうかお許しください」。クリシュナはカルナのこの態度に大喜びしました。
放牧に割り当てられた時間すべてを反芻して無駄にして、後になって他の牛が草を全部食べてしまったことを後悔する牛のように、与えられた寿命をすべて無駄にした後で、最後の瞬間に後悔しても何の役にも立ちません。時間は誰も待ってはくれません。永遠に進むことが時間のダルマです。あなたはこの宇宙のすべてのものを征服できるかもしれませんが、死を征服することは決してできないことを忘れないでいてください。したがって、この輪廻転生の海を渡ることを望むすべての人が、バガヴァーン・ナーマ・サンキールタナ(神の御名の詠唱)を実践することが不可欠です。
つづく