バジャ・ゴーヴィンダム第6~10話
更新日 : 2024.7.23
カテゴリー : バジャ・ゴーヴィンダム
【シュリー・スワミジによるシャンカラーチャーリアの教えの真髄の解説】
第6話
yāvad-vittopārjana saktaḥ
tāvan-nijaparivāro raktaḥ |
paścājjīvati jarjara dehe
vārtāṃ kopi na prcchati gehe || 5 ||
賛歌の意味:その人が稼ぎ手である限り、家族は愛して尊敬する。その人が年老いて弱くなると、家族の誰もその人の安否を尋ねようともしない。
感覚のコントロール (インドリヤ・ニグラハ) が非常に強かった偉大な王ユディシュティラは、「この世界全体が利己主義に満ちている(‘sarvam svārtham samīhate)」と述べました。
マハリシ・ヴァールミーキの生涯の物語は、今日のレッスンにふさわしい例です。ヴァールミーキの本来の名前はラトナカーラでした。呪いにより彼は前世の記憶をすべて失った、森の中をさまよう悪名高い盗賊でした。彼は盗賊として得た収入で家族を養っていました。
呪いが解かれる時が近づくと、7人の偉大な聖者(サプタ・リシ)が彼に近づいて尋ねました。「ラトナカーラよ、あなたは罪のない人々を殺し、拷問し、略奪し、その収入で家族を養っています。その過程で、あなたは多くの罪も積み重ねています。妻と子どもたちは、あなたが提供した稼ぎ、快適さ、食べ物だけを分け合うのか、それともあなたのすべての罪の一部を分かちもつのか?」
一瞬もためらうことなく、ラトナカーラは答えました。「もちろん、彼らは私の罪の一部を分かち合います。」
聖者たちは笑って言いました。「ああ、ラトナカーラよ!あなたは世間の常識を知らないようですね。この世では、誰も他人の罪や悲しみを分かち合うことはできません。
ラトナカーラはこれに納得しませんでした。彼と聖者の間で口論が起こりました。聖者を喜ばせるために、ラトナカーラは最後には家に行って、妻と子どもたちを呼び、愛情を込めて尋ねました。「私の罪を分かち合ってくれないか」。彼らは一斉に答えました。「あなただけが自分の罪を償わなければなりません。私たちは何の関係もありません」。
この一件が彼に多大な影響を与えて、彼の人生を永遠に変えました。彼は内向的になりました。マハリシ・ナーラダは彼に「ラーマ」のマントラを伝授しました。しかし「マーラ」という逆の形で伝授されました。ラトナカーラはこの「マーラ」のマントラを何千回も唱えました。瞑想に座っている間、彼はずっと蟻塚に覆われていました。蟻塚から現れ、「ヴァールミーキ」という名前を得て、その後アーディ・カヴィヤ『ラーマーヤナ』を創作しました。
私たちのプラーナ文献には、このような物語が数多くあります。この富と繁栄は永続的なものではありません。「私」や「私のもの」という思いは同じようにはかないものです。人は毎分このことを思い出す必要があります。常に神の名を唱えるべきです。
多くの著名な聖人や詩人が、この同じ教訓をさまざまな方法で説いてきました。「スマティ・シャタカム」の中で、詩人はこう述べています。
eppudu sampada kaligina appudu bamdhuvulu vatturadi yetlannan
teppaluga ceruvu nimdina kappalu padhivelu ceru gadara sumati !
エップドゥ・サンパダ・カリギナ・アップドゥ・バムドゥヴル・ヴァットゥラディ・イェートランナン
テーッパルガ・チェールヴ・ニムディナ・カッパル・パディヴェール・チェール・ガダラ・スマティ!
この詩句の意味:水があふれた池が何千匹ものカエルを引き寄せるように、富があふれる家には親戚や友人が大勢集まる!
カエルが池に引き寄せられるのは、そこに豊富な水があるからです。池が干上がってしまったら、言うまでもなく新しくカエルはやってきませんが、注目すべきは、既存のカエルが新しい家を探すことです。同様に、人が裕福で、非常に名声と名誉を持っている限り、蟻が砂糖菓子の周りに集まるように、人々はその人に群がります。彼らは、その人を神と同じくらい偉大だと感じさせます。
しかし富を失ったり、没落期に入ったり、収入がなくなったりすると、これらの親戚や友人は完全にその人を見捨てます。その人や縁さえ覚えていないでしょう。蟻は砂糖菓子を楽しんだ場所と時間を思い出すでしょうか?カエルはかつて彼らの避難所となった干上がった池を思い出すでしょうか?
同じように高齢者のニーズや気持ちについて考える人は誰もいません。高齢者が家計に貢献できなくなったとき、若い世代は急いで高齢者を老人ホームに送り込もうとします。これが現実です。
第7話
yāvat-pavano nivasati dehe
tāvat-prcchati kuśalaṃ gehe |
gatavati vāyau dehāpāye
bhāryā bibhyati tasmin kāye | 6 |
賛歌の意味:生命力(プラーナ、生命の空気)が体内に存在する限り、周囲の誰もがその人の健康を尋ねます。しかし、この生命力が体から抜けて人が亡くなると、妻でさえも死体を見て震え上がり、恐れるのです!
前の節では、この世で公言されている愛はすべて偽りであり、愛は利己的な利益から生じると教えました。この節では現実をもう少し掘り下げます。
生命の息(プラーナ・ヴァーユ)の形で存在し、人の体の中に存在するシヴァが体から離れると、後に残るのは死体だけです。
この世の人々の80%は、自分の肉体的な美しさと、スリムで引き締まった体格を誇りに思っています。そのような人は、配偶者や子どもが魅力的な外見に魅かれて、決して自分を見捨てないだろうという幻想を抱いて一生を過ごします。この幻想に包まれた人は、自分の必要性を満たそうと努力し、将来について心配します。「その後、私の家族はどうなるのだろう?」このような疑問は常に心を悩ませます。
家族の必要性に気を配ることは間違っていません。しかし、誰もがが霊的な(アディヤートマ)現実についても熟考することが重要です。誰もが次のような疑問を自分自身に必ず問いかけるべきです。「この肉体が死んだら、『私』はどうなるのだろう?私が死んだ後、この世界はどうなるのだろう?」
「この世界に存在するこれらの物は、私の死後の旅には一緒についてこない」という至高の真実が心に深く理解されれば、その人の考え方は自動的に変わります。真実を理解した人は、真実ではないものについて決して悲しむことはありません。
死後の旅では、草の葉一本さえも私たちと一緒に行くことはできません!私たちがこの人生で獲得しようと努力したお金と富は、そのままここに残ります。牛や他の家畜は小屋に残されたままです。妻と子どもたちは家の正門まで遺体に付き添います。結局、ダルマの法(ダルマ・シャーストラ)は女性が火葬場に行くことを禁じていますよね?友人や親戚は火葬場まで付き添います。その後はどうなるのでしょう?私たちが生涯完全に自分のものだと思っていた遺体が今や火で焼かれるのです。
何が死んだ後の旅についてくるのでしょうか?この時点からその存在に付き添うのはダルマだけです。人生で行った善行も悪行も、抱いた善い考えも悪い考えも、この旅に付き添います。これは「プンニャ・パーパ」(徳と罪)としても知られています。
このため、この賛歌は「バジャ・ゴーヴィンダン」というフレーズで始まります。これは「人間よ、この偉大な真実を悟れ」という意味です。このことを理解した上で、これからはダルマの行動(正しい行い)に従事して、主の聖なる名を唱えるのです。
これとは逆に、配偶者があなたの死後の旅に同行してくれないことを嘆きながら、一生を無駄にしないでください。これが「創造の性質」であることを受け入れて、徳ある行いをすることに集中してください。
第8話
bāla stāvat kriḍāsaktaḥ
taruṇa stāvat tarunīsaktaḥ |
vṛddha stāvat-cintāsaktah
parame brahmaṇi kopi na saktaḥ || 7 ||
賛歌の意味:幼児はゲームや遊びに強く執着する。青年は女性に強く惹かれる。老人は永遠に心配事に夢中である。誰もパラマートマに対して気が向くことも愛着もない。
この賛歌で言及されている少年、青年、老人は、成長の異なる段階にある同じ存在を指します。人間は主に、幼児期(バーラ)、幼少期(コウマーラ)、成人期(ヨーウヴァンナ)、老年期(ヴァールダキャ)の4つの成長段階を通過します。
この節は人間の命が完全に無駄にされる様子を強調しています。
心がまだ完全に発達していない人間の幼児期には、ゲームや遊びに惹かれます。その後、子ども時代はすべて勉強に費やされます。身体と心がしっかりした強い青年の日々には、人間は自己重要感、傲慢さ、欲望、その他の欲望に支配されます。この段階で人間は年長者を軽視して、無視することさえあります。人間は望まない活動に時間を浪費します。老齢期に入ると肉体は弱くなり、協力してくれなくなります。弱くて無力な人間は、自分の必要を満たすために他人に頼ることになります。しかし、欲望に支配された心は人を苦しめ続けます。怒りと悲しみが人間を支配して、圧倒します。これらの重圧に押しつぶされて、人間は苦しみます。訓練不足のために、心は神について考えることを拒否します。
この世の人間は皆、物質的な繁栄(アルタ)と欲望の実現(カーマ)だけを目指して努力していますが、ダルマ(正義)の問題や神について熟考することには、ほんの少しも興味を持っていません。
ヴェーダ・ヴィヤーサ・スワミは両手を挙げて涙を流して、人々に語りかけました。「親愛なる同胞の皆さん、ダルマ(正義)に従うことで、アルタ(物質的な繁栄)とカーマ(欲望の実現)の両方を達成できます。どうか私の言葉に耳を傾けてください。なぜ誰もダルマに従うというふうにならないのでしょうか?」
幼少期、青年期、老年期は、人間が通過する3つの主要な段階です。これに加えて、中間段階は多くあります。しかし最も重要な精神的な変化と関係性は、この3つの段階で構築されるため、人生で最も重要な段階とみなされます。
幼少期や子ども時代には、人は年長者に従って彼らの命令を守りながら、霊性の旅の基盤を強めるべきです。プラフラーダはその素晴らしい例です。プラフラーダは、グルである聖者ナーラダから受けた教えに従い、主ナーラーヤナを心の中で黙想することに全時間を費やして、最終的に成功に恵まれました。
若い頃、人は子ども時代に学んだことを思い出して、自制心を実践し、自分の道を歩み続ける必要があります。これは、精神的に激動する段階です。これは人が成功するか失敗するかの段階です。有名な詩人カーリダーサは、「ディーラ」(真に勇敢な人)とは、魅力的なものに囲まれても動揺しない人であると述べました。
人が持つべきディーラトヴァム(勇気)はどの程度でしょうか?プルラヴァの物語はその一例です。プルラヴァは賢明な人物で、若さと老いの区別がつかなかったため、自分の若さを父ヤヤティに譲り渡して、その代わりに父の老いを受け入れたほどでした。
老いは、若さの次に重要な段階です。この段階では、理想的な生活を送り、他の若い世代の模範となるべきです。したがってこの段階では、すべてのステップを慎重に考えて実行する必要があります。これが将来の世代に利益をもたらすことを認識して、高齢者は平穏に時間を過ごす必要があります。経験は私たちの生活様式から生まれます。若者が私たちの資質と特徴を吸収することを理解する必要があります。高齢者は、過度の心配と緊張のために大騒ぎしたり、病気を招いたりするのをやめるべきです。些細な理由で怒るのをやめるべきです。神の名を唱えることがすべての病気の治療法であると認識する人は、神と喜んで時間を過ごすでしょう。そのような人は、実際に老齢期を過ごしているという事実さえ忘れるでしょう。
ヴィシュヌダッタはその良い例です。この聖なる夫婦は子孫に恵まれませんでした。しかし、それでも彼らは思いとどまることはありませんでした。いかなる欲望も抱かず、彼らは平穏で満ち足りていました。かつて、主ダッタートレーヤがヴィシュヌダッタの前に現れ、何か恩恵を選ぶようにと尋ねたとき、ヴィシュヌダッタは、全く欲望がないと答えました。ダッタはこの聖なる夫婦の清らかな信愛に驚いて、大喜びしました。ダッタは、人間なら誰もが求める究極の贈り物、解放を彼らに授けました。
第9話
kā te kāntā kaste putraḥ
saṃsāroyamatīva vicitraḥ |
kasya tvaṃ vā kuta āyātaḥ
tatvaṃ cintaya tadiha bhrātaḥ || 8 ||
賛歌の意味:兄弟よ、あなたの妻は誰ですか?あなたの息子は誰ですか?生と死に満ちたこの輪廻転生は、まったく奇妙なもの。あなたは本当は誰に属しているのか?あなたはどこから来たのか?この粗大な体で生きている間、この至高の真実について熟考しなさい。
この節の意味を完全に理解するには、シュリーマド・バーガヴァタムのチトラケートゥ王の物語を理解する必要があります。チトラケートゥ王には多くの妻がいましたが、長い間子どもができませんでした。そのため、彼は非常に悲しんでいました。ある日、マハリシ・アンギラが思いがけずにこの王国にやって来ました。王の苦しみを理解したこの偉大な賢者は、ヤーガを行い、プラサーダムを最初の王妃クルタデュティに手渡しました。しばらくして、クルタデュティ王妃は男の子を授かりました。
長い年月を経て息子に恵まれた王は、大喜びしすぎました。王は生まれたばかりの息子とクルタデュティとばかりに過ごし、他の王妃たちや行政の義務を怠りました。他の王妃たちはこの放置に耐えられずに嫉妬に駆られて、その子に毒を盛り、そのために子どもは死にました。
息子の死を知ったチトラケートゥ王は、遺体のそばに座り、哀れにも悲しんでいました。ちょうどそのとき、マハリシ・アンギラがそこにやって来て、王を次のように慰めました。「王よ、あなたは息子の死を悲しんでいます。前世、今世、そして来世で、この息子とどのような関係があるのでしょうか。よく考えてみてください。前世であなたの父親だった存在が、今世でも必ずあなたの父親であるという決まりはありません。この少年が次の生であなたの父親になる可能性もあります。あなた方二人の間に関係がなくなる可能性もあります。これらは一時的な関係です。
果実から発芽した種子がさまざまな方向に散らばって別々の木として現れるのと同じように、パラマートマから生まれ、時間(カーラ)に捕らわれた魂は、定期的に出会ったり離れたりします。
したがって、王よ、あなたの側で息子を嘆くのは間違っています。これはすべて、イーシュワラ・マーヤー(至高の幻想)のために起こっていることを理解してください。あなたのホロスコープによると、あなたは子どもがいない運命でしたが、あなたにいくらかの幸福を与えるために、私はヤーガを行い、息子に恵まれるようにしました。あなたに生まれた息子は幻想だったことを覚えておいてください。このことを思い返して、無執着(ヴァイラーギャ)を強めてください。執着することなく、賢明に統治し続けてください。無私の行為(ニシュカーマ・カルマ)を開始してください。あなたの仕事の成果をすべて全能者に捧げてください。
この教えによって、チトラケートゥ王に叡智がもたらされ、彼はすべての悲しみから解放されました。
このことから、2人の存在の関係は単なる幻想であることがわかります。肉体を持つすべての存在には、一定の寿命があります。これに基づいて子どもが年長者よりも先に亡くなることもあります。そのようなときに年長者が経験する苦しみは説明できません。そのような状況で、人がしっかりと立ち、関係についてのこれらの事実を思い出すなら、それは有益です。負債と、それに従って魂がどのように生まれるかを説明する物語があります。これが理解されれば、子どもがいないことを悲しむ人はいません。
第10話
satsangatve nissamgatvaṃ
nissamgatve nirmohatvam |
nirmohatve niścalatattvaṃ
niścalatattve jīvanmuktiḥ || 9 ||
賛歌の意味:偉大なマハトマとの交友/友情 (サットサンガ) は、心が物質的な対象/問題 (ニッサンガトヴァ) と関わることを防ぎます。これにより、心が幻想から解放されます (ニルモーハ)。ニルモーハのおかげで、人は永遠の叡智を獲得します。そのような永遠の叡智を獲得した人は、ジーヴァンムクティ(生きながら解放された存在)を達成します。
ほとんどすべての聖典は、サットサンガの偉大さを称賛しています。さらに、人生でサットサンガを維持することの重要性を強調する物語がたくさんあります。
マハリシ・ナーラダはかつて、サットプルシャ (偉大な存在) と呼ぶことができる人は正確には誰なのか、サットサンガの重要性、そしてサットサンガが人に及ぼす影響について知りたいと考えました。すぐに彼はマハー・ヴィシュヌに近づいて、この質問をしました。それに対して、マハー・ヴィシュヌはこう答えました。「ナーラダよ! 地球のマヒシュマティプラムという町で、雌豚がちょうど出産しました。その豚に会いに行ってみなさい」。
マハリシ・ナーラダは完全に混乱していましたが、マハー・ヴィシュヌへの敬意から雌豚を訪ねました。雌豚はナーラダを一目見ただけで、すぐに息を引き取りました。これに困惑したナーラダは戻ってきて、ヴィシュヌにそのことを報告しました。ヴィシュヌは言いました。「心配しなくてもいい。ナーラダ。今、まさにその町で、鳥が木に止まっています。会いにいってみなさい」。
鳥はナーラダが近づいてくるのを見た途端、命を落としました。このことを気に留めないヴィシュヌは、ナーラダに同じ町の牛に会いに行くように頼みました。ナーラダは震えながら牛に近づきました。彼が恐れていた通り、牛はマハルシを見つめるとすぐに死んでしまいました。ナーラダは、ゴーハトヤ(牛を殺したことで生じた罪)の責任があると嘆きながら、ヴァイクンタに戻りました。ヴィシュヌ神はこれに動揺せず、代わりにナーラダにマヒシュマティプラムの生まれたばかりの王子に会いに行くように頼みました。このときナーラダは頑固にそのような旅に反対しました。しかしヴィシュヌはナーラダを説得し、彼をマヒシュマティプラムに送りました。
マハルシが近づいてくるのを見て、その小さな赤ん坊は満面の笑みを浮かべました。ナーラダはこれには驚きました。それよりも、赤ん坊が自分を見た後もまだ生きていることに感謝しました。彼は幸いにもヴァイクンタに戻り、主に言いました。「主よ、私は偉大な魂(サット・プルシャ)とそれが及ぼす影響についてあなたに質問しました。これに答えてあなたは私をさまざまな次元を旅させ、それぞれの旅でいくつかの存在に会わせます。このすべての旅を終えても、私の質問は未解決のままです」。
マハー・ヴィシュヌは笑いながら答えました。「ナーラダよ、あなたはまだ理解していないのですか?あなたのように永遠に主の名を唱え、心が永遠に純粋で、いかなる形の揺らぎもない人々こそが真のサット・プルシャです。あなたの仲間のサット・プルシャとの関わりにより、豚はより高次の進化を遂げ、鳥、牛、そしてその後に王子として生まれることができました。豚は人間として生まれることができました。サットサンガについてのあなたの質問に対して、これより良い証拠があるでしょうか?」
このようなサットサンガの恩恵は、ニサンガトヴァムを獲得することです。ニサンガトヴァムとは、「何にも関係を持たない」という意味です。ニサンガトヴァムは、一人で生きる力(エーカンタ・ヴァーサ)、沈黙を保ち(モウナ)、感覚を制御する(インドリヤ・ニグラハ)、そして心の平安を達成する能力を与えてくれます。この能力により、その人はニルモーハトヴァの状態になります。ニルモーハトヴァムとは、「モーハ/夢中にならない」という意味です(モーハの意味については第1話を参照)。
次に、この世界の永続的なものと永続しないものを区別する力/知性(ブッディ)を授けます。言い換えれば、すべての幻想が拭い去られ、その人は真実/実在を適切に理解します。このような状態は、「ヴァーサナ・クシャヤム」として知られています。言い換えれば、この「ニルモーハトヴァム」の状態に達した人は、真の本質である「ニシュチャラ・タットヴァム」を容易に理解することができます。至高の経験によって得られる至福(アーナンダ)に際限なく浮かぶ人は、ジーヴァン・ムクティ(生きながら解放されている)になります。
シャンカラ・バガヴァッドパーダーチャリヤは、このような深い本質を、非常にシンプルな節で、理解しやすい方法で説明しました。
続く