言葉と教え

バガヴァット・ギーター 第2章12~13節

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ショーチャとは、泣くに値する人を意味します。アショーチャとは、泣くに値しない人を意味します。

主はビーシュマとドローナのために泣く理由はないと言っています。なぜでしょうか。主は理由を明らかにしてこう言っています。「あなたが泣いているビーシュマとドローナは、ダルマに優れた行いをしている。だからこそ、彼らは戦争に参加しているのだ。至高の観点から見れば、誰もが永遠である。誰が死に、誰が生まれてくるのか。この本質を理解していれば、悲しむべきことは何もない。

「私が彼らの死の原因だ。彼らが死んだ後、王家の贅沢品はどうなるのか」と、あなたは泣いている。同時に、あなたはパンディットのように話している。狂人のようであって、同時に愚かさと英知を醸し出している。愚かさと英知は共存できるのだろうか。真我を悟った者は、死者のためにも、生きている者のためにも嘆かない。

パンダーとは「真我について知る知性」を意味します。この知性を持つ者がパンディタです。そのようなパンディットはあなたのようには泣かない。至高の視点から永遠の存在である人たちのために泣いているあなたは愚かだ。

このようにシュリークリシュナはアルジュナを叱責しました。アルジュナが「なぜ彼らは泣くに値しないと言うのですか?」と尋ねるのは当然です。アルジュナがこの質問をする前にクリシュナは、彼らは「永遠」の存在であるため、嘆くべきではないと答えました。

「生と死を繰り返す者が、どうして永遠であり得るのか?」という質問が起こりそうです。そのため主は答えようとします。

na tvēvāha jātu nāsaṁ na tvaṁ nēmē janādhipāḥ
na caiva na bhaviṣyāmaḥ sarvē vayamataḥ param ǁ 12 ǁ

アルジュナ!私やあなた、あるいはこの戦士全員が過去に存在しなかったというのは真実ではない。この粗大な体を放棄した後に私たちが存在しないという観点はない。

主は至高の観点から説明していました。肉体の観点からは、誰もが来ては去り、生と死が存在します。しかしこれは至高の真実ではありません。至高の見地から見ると、パラブラフマが唯一の存在であるため、「多くの」という観点は生じません。そこでクリシュナはこのように述べました。彼はまず自分自身を例に挙げて、「アルジュナ、私は常に存在する」と言いました。

アルジュナは徳の高い存在であり、熱心な信奉者であったため、この言葉を喜んで受け入れました。そのためクリシュナは、この言葉で自分が伝えたい教えにアルジュナの注意を引きつけました。

アルジュナは、クリシュナの遍在性を経験した数えきれない事例に遭いました。たとえば、ドゥルヨーダナの宮廷でドラウパディーを守っているときや、マハルシ・ドゥルヴァーサの呪いから彼らを守っているときなどです。これを思い出して彼は、「私が存在しないという観点はない」というクリシュナの言葉を即座に受け入れました。

壺が割れた後でも空間が存在するように、体が生れて朽ちた後も私は存在し続ける~これがクリシュナの見解でした。この例えでアルジュナはクリシュナの言葉を理解しました。しかし疑問が残りました。「主よ、あなたの場合ではそれが真実であると受け入れることができます。しかし、それがすべての人に真実であるなどと、どうやって受け入れれたらよいのでしょうか?」

そこでクリシュナは尋ねました。「他人のことは忘れなさい。自分のことを考えるのだ。あなたは永遠に存在するのか、それとも存在しないのか?」

この世界では、誰も『私は存在しない』とは言いません。そのため、クリシュナは『ナ・トヴァムna tvam』という言葉を使いました。私が存在しないということはあり得ないので、あなたが存在しないということはあり得ない。あなたは永遠だ。『あなたと私が永遠であることを認めるのか?私たちと同じように、この王たちも存在しないということはあり得ない。彼らも永遠に存在する。この体を脱ぎ捨てた後も、私たちはみな存在する』とクリシュナは言いました。

これで、『私たちはどんなふうに存在するのか?』という疑問が生じます。これについて彼はこう言います。『3つの時間すべてにおいて、私たちは真我(魂)として存在する。私たちは永遠だ。真我が非二元であるのに、なぜ多くの存在について語らなければならないのか?真我は永遠である。私は『私、私たち、彼ら』という言葉を肉体の観点からのみ使用しており、至高の観点からは使用していない。真我の観点からは、存在は1つしかない。これを理解するのだ』とクリシュナは言いました。

これは別の疑問につながります。真我はどうやって永遠であり得るのでしょうか。その例えは何でしょうか。クリシュナは答えを提供します。

dehinō ’smin yathā dēhē kaumāraṁ yauvanaṁ jarā
tathā dehāntara-prāptiḥ dhīrastatra na muhyati ǁ 13 ǁ

幼少期、青年期、老年期を同じ肉体で経験するように、別の肉体も得ていく。賢明な人はこれに惑わされない。

この節では、「デーヒdehi」という言葉が使われています。粗大な体をまとった人は「デーヒ」です。言い換えれば、個々の真我(ジーヴァートマ)はデーヒです。

ジーヴァートマは、同じ肉体で幼少期、青年期、老年期を経験します。段階が変わっても、つまり幼少期から青年期に変わっても、その中の魂は破壊されません。

幼少期が消えても同じ魂が存続しました。青年期が消えても同じ魂が続きました。老年期が来ました。同じ魂が存続しました。3つの段階が現れたとき、魂は新しく生まれませんでした。

634話へ続く

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