バガヴァット・ギーター 第2章21~24節
更新日 : 2025.2.6
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na jāyate mriyate vā kadāchin nāyaṁ bhūtvā bhavitā vā na bhūyaḥ
ajo nityaḥ śhāśhvato ’yaṁ purāṇo na hanyate hanyamāne śharīre ||20||
このマントラはカトーパニシャッドからのものです。
アートマは決して生まれません。すなわち、アートマには誕生と呼ばれる変化がないということです。ヴェーダは死ぬことはないと言うことでアートマの、死と呼ばれる最後の変化を否定しています。カダーチトゥKadācit というこの言葉は、あらゆる変化の様相を断固として否定しています。
変化には6つの種類があります。ジャーヤテーJāyate:生まれること、アスティAsti:存在すること、ヴァルダテーVardhatē:成長、ヴィパリナマテーVipariṇamatē:変化すること、ヴァルダテー:成長すること、アパクシーヤテーApakṣīyate:衰えること、ヴィナシャンティVinaśyati:滅びることです。
これらのどれもアートマンには当てはまりません。アートマは決して生まれも死にもしません。アートマンは一度存在 (誕生と呼ばれる変化) してから存在しなくなることはありません。したがって、死ぬことはありません。
しばらく存在してから消えてなくなるものは、死と言われます。しかしアートマの場合はそうではありません。身体とは違って、前は存在していなかった、また後から存在したと言うことはできません。つまり、「それが生まれる」という問題は生じません。それは生まれません(アジャハ)。誕生しないので、死にません。ですからそれは永遠(ニッティヤ)です。
最初の変化と最後の変化が存在しないと言うことは、中間の変化も存在しないことを意味します。それでも、それらが存在しないことを明確に述べることが賢明であることがわかります。アートマにとって「若さ」やその他の変化は存在しないことを強調するために、ヴェーダはシャーシュワタ(というサンスクリット語)を使います。常に存在するものはシャーシュワタです。またシャーシュワタは、衰えと呼ばれる変化が存在しないことも明確にしています。アートマには手足がないので、その形が衰えることはありません。特質がない(ニルグナ)ので、その特質が枯渇することもありません。
プラーナハPurānah:この言葉は、衰退の反対である成長が存在しないことを明らかにしています。手足が膨らむとき、私たちはそれを成長または新しくなると言います。しかしアートマには手足がありません。そのため成長することはありません。また過去においても新しかったのでプラーナなのです。
たとえ体が殺されても、アートマは不変のままです。ここで、ナーヤム・ハンティnāyam hantiは「変化しないもの」と解釈されるべきです。それは、アートマが元の状態から決して変わらないことを意味します。このマントラは、創造物のすべての存在が経験する6つの変化は、アートマには当てはまらないと述べています。
アートマがいかなる変化も受けないことを理解している人だけがヴィベーキ(賢者)です。自分を殺害者、殺された者と考える人は無知です。
カトーパニシャッドから声明を掲げることで、クリシュナは、何か新しいことを教えているのではなく、ウパニシャッドからのメッセージを繰り返していることを明確にしています。
vēdāvināśinaṁ nityaṁ ya ēnamaja mavyayam │
kathaṁ sa puruṣaḥ pārtha kaṁ ghātayati hanti kam ǁ 21 ǁ
パールタよ!アートマは永遠であり、生と死がないことを知りながら、どうやったら人を殺せるというのか?どうやったら人を殺すように駆り立てられのか?
この教えは質問の形式をとっています。アートマは不滅であり、すなわち6つの変容の最後であるもの(死)はアートマにはないのです。アジャは誕生がないことを意味します。ニッティヤは、中間の変化もアートマには当てはまらないことを意味します。アヴィヤヤは、朽果てると呼ばれる変化はアートマには存在しないことを意味します。
アートマの本質を理解して、戦いを定められた義務と認識する賢者が、どうして他者を殺したり、人をそそのかして殺させるというのか?「殺すことも、人に殺すように煽ることもない」というのは単なる例えです。賢者は殺すことや人に殺すように煽ることを控えるいう意味だけではありません。ヴィヴェーキ(賢者)はいかなる行動も行わないという意味です!
このことを通して主は、間接的にアルジュナに尋ねます。「あなたは戦わないと言う。しかし、あなたは何をするというのか? 何もせずに生きることができるのか?ジュニャーナを体得することなく、ヴェーダによって定められた義務を放棄することは正しいことなのか?それを放棄することで、あなたが求める解放が得られるのか?」
なぜアートマは不滅と言えるのでしょう?また、死者を悼むことの何が間違っているのでしょう?この質問への答えです。
vāsāṁsi jīrṇāni yathā vihāya navāni gṛhṇāti narō ’parāṇi ǀ
tathā śarīrāṇi vihāya jīrṇānianyāni saṁyāti navāni dēhī ǁ 22ǀ
人がぼろぼろの服を脱ぎ捨てて新しい服を着るのと同じように、アートマは古い体を捨てて新しい体を取る。
体は朽ち果てますが、アートマはそうではありません。人が古い服を脱いで新しい服を着るのは普通のことです。服が変わったからといって、人が変わるわけではありません。同じように体が変わってもアートマは同じままです。体はたくさんありますが、アートマは同じです。
なぜアートマは変化しないのでしょうか?
nainaṁ cindanti śastrāṇi nainaṁ dahati pāvakaḥ│
na cainaṁ klēdayantyāpaḥ na śōṣayati mārutaḥ ǁ23ǁ
アートマを武器で切り裂いたり、火で焼いたり、水で濡らしたり、風で乾かすことはできない。
アートマには部分がないので、武器で切り裂くことはできません。武器は、部分がないものを分けることはできません。水は部分があるものだけを濡らすことができます。風は油で濡れた物を乾かしたり、破壊することができます。しかし風は、アートマを乾かすことさえできません。
chchhedyo ’yam adāhyo ’yam akledyo ’śhoṣhya eva cha│
nityaḥ sarva-gataḥ sthāṇur achalo ’yaṁ sanātanaḥ ǁ24ǁ
アートマは切り裂かれたり、燃やされたり、濡らされたり、乾かされたりすることはありません。それは永遠であり、遍在し、そして永遠です。動かされることはありません。
637話につづく