シュリーマド・バーガヴァタム 第278話
更新日 : 2025.5.11
カテゴリー : シュリーマド・バーガヴァタム
ラフーガナ王はジャダバラタの足元にひれ伏して、許しを請いました。
“Kas tvaṁ nigūḍhaś carasi dvijānāṁ bibharṣi sūtraṁ katamo ’vadhūtaḥ
Kasyāsi kutratya ihāpi kasmāt kṣemāya naś ced asi nota śuklaḥ
この世に知られずにひっそりとさまよっているあなたはどなたですか?ブラフミンのように聖紐を身にまとっています。あなたはどなたですか?あなたはアヴァドゥータですか? どこの地域の方ですか?なぜここにおられるのですか?私の繁栄を求めて来られたのですか?あなたは善の化身、マハルシ・カピラですか?
マハトマよ、私はヤマの絞首縄、シヴァの三叉槍、インドラの雷、あるいは火の神、太陽の神、月の神、クベーラ、あるいはいかなる神々が放つ武器も恐れません。それよりも、真我を悟った方々やブラフミンを意図せずに傷つけてしまうことを恐れています。
マハトマよ、あなたは世俗的な執着をもっておられません。隠遁生活を送り、その無限の知識が世間に明かされることのないようにされています。どうか、あなたはどなたなのか教えてください。あなたの言葉は計り知れないほど深い叡智に満ちており、その内なる意味は私たちには想像もできません。
主シュリハリは、真我認識を確立した至高のヨーギー、マハルシ・カピラとして転生しました。彼は、真我を確立したすべてのマハトマにとってパラマグルです。私は彼のアーシュラムへと向かっています。この世でどのような庇護を求めるべきかを彼から学びたいのです。あなたはマハルシ・カピラですか?世界を見たいと願いながら、身を隠して旅をされているのですか?
おお、マハトマよ、私は世俗的な物に執着する無知な愚か者です。私のような愚か者が、どうして至高の聖者の栄光を理解できるのでしょうか?肉体は労働によって疲弊することは周知の事実です。ですから、そのような重荷を背負っておられたあなた様は、きっと疲れ果てていたに違いありません。
私は、この世界で私たちにわからせるものこそが真実であると信じています。もし壺やその他の物に実在性がないと言うなら、壺で水を汲むことは不可能であるはずです。しかし、鍋の中に水が溜まることは私たちの経験から分かっています。さらに、火をつけ続けると鍋は熱くなり、その熱が鍋の中の水に伝わり、鍋の中の米粒が確実に炊けます。
同様に、真我は肉体、感覚器官、生命力、そして心と結びついています。この結びつきの結果として、体、心、感覚器官が経験する喜びや悲しみは、自然に真我へと伝わるのではないでしょうか。
Śāstābhigoptā nṛpatiḥ prajānāṁ yaḥ kiṅkaro vai na pinaṣṭi piṣṭam
Sva-dharmam ārādhanam acyutasya yad īhamāno vijahāty aghaugham
王は国民の僕です。この義務を果たすために、王は悪人を罰し、善人を報いることを義務づけられています。これはふさわしく正しい手順です。王にとって、正しく統治することはシュリハリ神を礼拝することと同義です。これによって王はすべての罪から解放されます。
おお、マハトマよ!私は強大な皇帝であるという自尊心に酔いしれてしまい、聖者の中でも至高なるあなたを侮辱してしまいました。あなたは無力で虐げられた人々の友です。ですから、どうか私を愛情を持って見てください。あなたが私に愛情のこもった視線を向けてくださる時、私は高貴な聖者を侮辱した罪を克服することができます。
あなたはすべての生命体の幸福を心配する友です。肉体との同一性を完全に放棄することで、あなたは精神的に穏やかです。賞賛も侮辱もあなたには影響しません。あなたのような高貴な聖者を侮辱する私のような者は、まもなく滅びるでしょう。これはルドラ神を含むすべての人に当てはまります」。
これで第五巻の第10章は終わります。
第五巻、第11章です。
この章では、ジャダバラタとラフーガナの対話、そしてジャダバラタの恩寵によって悟りを開いた王について述べられています。
至高のブラフミンであるジャダバラタは、ラフーガナ王にこう言いました。「王よ、あなたは博学な学者のように話されますが、実際には識別力のある智慧を持ってはいません。単に知的に話すだけでは、あなたはジュニャーニ(英知のある者)に分類されません。なぜなら、絶対的な真理を説く知識豊富なマハトマたちは、この目に見える世界を決して実在としては分類しないからです。
ヴェーダの儀式でさえ、目に見える世俗的な行為と同じくらい非実在です。ヴェーダは、世帯主の人生の段階に関連するヤグナ(祭祀)とヤーガ(儀式)を詳細に記述しています。ヴェーダの相当な割合は、果報的な行為を称賛する詩節で構成されています。暴力(ヒンサー)、好き嫌い、その他の不純性がない絶対的な真理は、これらのヴェーダを通しては明らかになりません。これは本当です。
人は目覚めると、夢の中で享受していた快楽と幸福が現実ではなかったことに気づきます。同じ類推を広げると、ヤグナやその他の果報的な儀式を行うことで世帯主が享受する幸福もまた実在ではないことが分かります。しかし、人はこれらの果報的な行為が無常であり、放棄すべきものであることを理解していません。
ヴェーダは疑いなく至高です。しかし、果報的な活動に没頭している人は、これらのヴェーダの教えをして真の自己を理解することができません。行為を完全に放棄して、ヴェーダーンタ・サーダナを行わない限り、決して真我実現を得ることはできません。
第279話へ続く