言葉と教え

シュリーマド・バーガヴァタム 第365話

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マハルシ・シュカは答えました。

Sādhu pṛṣṭaṁ mahārāja hareś caritam adbhutam
Yad bhāgavata-māhātmyaṁ bhagavad-bhakti-vardhanam

「おお皇帝よ!あなたの問いは本当に称賛に値します。あなたは、常にすべての人を驚嘆させる主シュリハリの物語について尋ねました。主シュリハリの物語は、主への信愛を燃え上がらせます。主の信奉者たちの偉大さは、物語の中で詳しく述べられています。マハルシ・ナーラダをはじめとする人々は、この至高主の栄光を歌い続けています。

マハルシ・ヴェーダヴィヤーサに敬意を表し、今、これらの物語を語ります。」

ナーラダは永遠に「ナーラーヤナ、ナーラーヤナ、ナーラーヤナ・ハリ・ゴーヴィンダ」と唱え続けます。時と状況に関わらず、彼は主の御名を絶えず唱え続けます。

「至高主は幻想(マーヤー)を超えています。主は特質(ニルグナ)を持たず、生まれもせず、肉体と呼ばれる担い手も持ちません。主は、その幻想のエネルギー(マーヤー)から生じる三つの根本原質の特質(トリグナ)の避難所です。」

主もまた幻想に包まれているように見えますが、真実は、主は幻想を超えており、ただ幻想に避難所を与えているだけなのです。

「おお皇帝よ!トリグナ(善性、激情、無知)は根本原質(プラクルティ)にのみ属するものであり、真我(アートマ、プルシャ)とは決して結びついていません。三つの特質(純質、激情、無知)は同時に栄えたり衰えたりすることはできません。主の行為は常に時と状況の要請に即したものです。」

私たちは主の行為に論理を当てはめるべきではありません。主の行為は時と状況の要請に完全に合致しています。主は一人ひとりに異なる方法でヴィブーティ(栄光)を示されます。主の行為を解読することはできません。

「善(サットヴァ)の性質が支配している時、神は神々(デーヴァタ)とマハルシを慈しみます。情熱/行動(ラジャス)の性質が優勢な時、神は物質的な感覚的快楽に完全に傾倒している悪魔たちを祝福します。無知/惰性(タマス)の性質が支配している時、神はタマス(無知)に満ちたヤクシャ(夜叉)とラークシャサ(羅刹/幽霊や精霊たち)を祝福します。

五大元素と同様に、至高主は無数の姿を通して光を放ちます。しかし、無知な人間は、主が肉体、心、感覚器官と共に真我(アートマ)として存在していながらも、それらすべてとは異なることを理解できません。そのような無知な人間が、どうして主の幻想を理解できるでしょうか?」

スワミジの解説:主は、その時に頭角を現す特質に応じて、その栄光を異なる形で示します。無知(タマス)が頭角を現す時、神はそれを噴出させます。ラジャス(情熱の特質)が現れる時はそれらの特質を増大させます。

「木に本来備わっている火が摩擦によって点火されるように、至高の知識を持つジュニャーニは深遠な真我の分析を通して非自己(アナートマ)の感情を捨てて、知性(ブッディ)の中に純粋意識として存在する主を悟ります。こうして彼らは個々の存在を捨て、主に溶け込みます。」

スワミジの解説:火は木の中に本来備わっていますが、目には見えません。一本の丸太が別の丸太と擦れ合うことで初めて、本来備わっている火が点火されます。摩擦がなければ、本来備わっている火は木を燃やすことはできません。摩擦によって、本来木の中に備わっている火が燃え上がり、木は分解されてしまうのです。」

同様に、真我探求とは摩擦であり、攪拌です。英知は本質的に内在します。真我探求と呼ばれる徹底的な攪拌を通して、知識のある人は創造物の中にある非自己の対象を放棄して、知性の中に純粋意識として存在する主を体験的に悟り、主と一体となります。

グルの助けを得て、人は真我探求を始めるべきです。この摩擦によって真我認識が表面に現れます。その過程で、情熱や無知といったあらゆる不純物が除去され、善(サットヴァ)の特質だけが栄えます。火が燃えるときに木自体が捨てられるように、真我認識が高まるにつれて真我以外のものは放棄されます。

オーム
ヴァースデーヴァーヤ・ナマハ

第366話へ続く

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