シュリーマド・バーガヴァタム 第442話
更新日 : 2025.9.5
カテゴリー : シュリーマド・バーガヴァタム
ヴィシュナヴェー・ナマハ
マハルシ・ナーラダは続けました。
「おお皇帝よ!常に満足している心には、あらゆる方向が至福に見える。満足している人は、水だけで生きなければならないときでさえ、至福であり続けるのです。」
一般的に、心は満足を欠いています。永遠の満足を得ることは非常に困難です。過剰な欲望、怒り、色欲、嫉妬、その他の不純なものが心を支配しています。
これとは対照的に、飽くことのない欲望、特に舌やその他の官能的な快楽の奴隷となっている人は、家を守る犬のようなものです。満足感を欠いたブラフミンの輝き、知識、苦行、名声は枯渇して、知識は必然的に弱まります。
喉の渇きが癒され、腹が満たされると、飲食への欲望は消えます。怒りは、その目的が達成されると完全に消えます。しかし、それとは違って、貪欲は決して消えることはありません。あらゆる方角を征服し、この世界が提供できるあらゆる贅沢を享受した後でさえ、貪欲は人から消えることはありません。
様々な知識に精通し、庶民の疑念を払拭するために多くの高尚な集会を主宰するよう求められた学者たちは、しばしば満足感の欠如のために低い境地に堕ちてしまいます。
人は安楽を求めることをやめたとき、初めて欲望を克服することができます。欲望を捨てたとき、初めて怒りを克服することができます。貪欲は、富を蓄積することは悲しみにつながるだけだと深く理解したときにのみ消え去ります。
対象についての真実を徹底的に吟味することによって、それを恐れるものは何もないことが明らかになります。これにより、恐怖は遠ざかります。この創造物における永遠と無常の対象を識別的に知ることによって、悲しみと執着は克服されます。偉大な聖者に仕えることによって、虚栄心は破壊されます。
社会が霊性の道において作り出す障害は、沈黙(マウナ)を実践することで克服できます。身体と感覚を静止させることで、暴力(ヒムサ)を克服できます。他の生類によって引き起こされた悲しみは、その悲しみの原因となった生類への慈悲の気持ちを育むことで克服できます。運命に根ざした悲しみは、真我への絶対的な集中を育むことで克服できます。
病気やその他の身体の苦しみによって引き起こされる悲しみは、ヨーガの修行によって克服されるべきです。善なる性質(サットヴァ)を高める純粋な食物を摂取することで、過度の睡眠を克服することができます。人間は善なる性質(サットヴァ・グナ)を育むことで、世俗的な情熱(ラジョー・グナ)と怠惰・惰性(タモー・グナ)を克服すべきです。無執着(ヴァイラーギャ)を育み、霊的知識(グニャーナ)への傾倒を強めることで、情熱と惰性は克服できます。その後、穏やかな心で、修行者は善なる性質(サットヴァ・グナ)を克服すべきです。
上記で説明した様々な不純物はすべて、求道者が霊的グルへの揺るぎない信愛(グル・バクティ)によって容易に克服することができます。霊的知識という灯火を灯す霊的グルは、至高主に他なりません。そのような霊的グルを普通の人間として扱う人が行う聖典やヴェーダの学習は、象の水浴びと同じくらい無駄なことです。」
グルへのバクティが欠けているのに、グルに仕えることに何の意味があるというのでしょう?象は川で水浴びをした後、湖から上がるとすぐに濁った水を全身に浴びせます。そんな水浴びに何の意味があるというのでしょう?
「ダルマラージャよ!シュリー・クリシュナはすべての生類と根本原質(プラクリティ)にとって唯一の主です。これは真実です。高位のヨーギーたちは、彼の蓮華の御足をハートに置いて、瞑想します。悲しいことに、普通の人々はこの至高主を普通の人だと考えています。同様に、霊的グルは至高主に他なりません。
聖典に定められている様々な修行の究極の目的は、心、五感、そして六つの内なる敵、すなわち色欲その他の欲望、怒り、貪欲、執着、利己心、嫉妬を克服することです。
たとえそれらすべてを制御したとしても、人がダーラナ、ディヤーナ、サマーディの状態を習得できないなら、これらの修行は時間とエネルギーの無駄でしかありません。
人間は農業に従事し、その結果として利益を得ます。しかし、これらの行為とその成果は、輪廻の輪を延ばすだけであり、これらの果報的な行為はどれも解放をもたらすことはできません。同様に、不浄な人が行うプールタ・カルマ(公共用井戸や池を掘る行為など)やイシュタ・カルマ(ヤグナやその他の儀式を行う行為)は、現世の生活に関わる側面においてのみ役立ち、決して解放をもたらすことはできません。
心を征服しようと決意した者は、まず社会から離れるべきです。安楽なものを溜め込むのをやめて、孤独な時間を過ごすべきです。施しを乞い、適度に摂取すべきです。
高すぎず低すぎない快適な場所を選び、マットを敷き、背筋を伸ばして座るべきです。体と手足は快適で安定しているべきです。そして、オームカーラ・マントラを唱えるべきです。
心が欲望を完全に捨てるまで、修行者は鼻先にのみ集中し、吸気、吐気、そして息を止めることを伴うプラーナーヤーマを行うべきです。
プーラカとは、肺が完全に満たされるまで息を吸うことを意味します。完全に吐き出すことはレーチャカである。内と外の両方で息を止めることはクムバカです。
修行者は、欲望によって汚れ、欲望を追い求める傾向がある心を常に監視すべきです。欲望へと迷い込んだ心を正しい道へと戻さなければなりません。五感によるあらゆる活動をやめ、心をしっかりとハートに定めなければならないのです。」
第423話へ続く