言葉と教え

ナーダ・ビンドゥ・ウパニシャッド

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ōṃ vāṅmē manasīti śāntiḥ
vairājātmo pāsanayā sañjāta jñāyavahninā
dagdhvākarmātrānyaṃ yōgī yatpadaṃ yāti tadbhajē

膨大な修練によって獲得した知識の炎で、ヨーギーは三つのカルマを焼き尽くして達成することで奉仕する。

akārō dakṣiṇaḥ pakṣa ukāra stuttara ssmṛtaḥ
makāraḥ pucchamityāhu rardhamātrā tu maskatam(1)

(解放に至るためには、AUMまたはōmとして表される原初音・プラナヴァを瞑想する必要がある。ここでは原初音は白鳥に例えられる)
原初音であるAUMは白鳥にとってAの音節は右の翼を表し、Uの音節は左の翼を表し、Mは尾を表し、半分の音節は頭を表す。

pādādikaṃ guṇā stasya śarīraṃ tattva mucyatē
dharmōsya dakṣiṇaṃ cakṣu radharmō~thō paraḥ smṛtaḥ (2)

属性(グナ)は足である。普遍の魂(パラマートマン)は身体である。法(ダルマ)は右目であり、非法(アダルマ)は左目である。

bhūrlōkaḥ pādayō stasya bhuvarlōkastu jānunī
suvarlōkaḥ kaṭī dēśē nābhidēśē maharjagat (3)

Bhūrloka(地球界)はōmkara白鳥の足として、Bhuvarlōkaブヴァ界はひざとして、Suvarlōkaスヴァ界は腰として、Maharlōkaマハー界はお腹として視覚化されている。

janōlōkastu hṛdayē kaṇṭhē lōka stapa stataḥ
bhruvōrlalāṭamadhyē tu satyalōkō vyavasthitaḥ (4)

原初音の白鳥のハートはJanōlōkaジャノー界であり、Tapolōkaタポ界は喉であり、Satyalōkaサティヤ界は額にある眉間のセンターである。Bhūḥブーは地球であり、Bhuvaḥブヴァッ, Suvaḥスヴァ, Mahaḥマハー, Janaḥ,ジャナTapaḥタパ, Satyaサティヤは地上の上の界を表している。

sahasrāramitī vātra mantra ēṣa pradaśitaḥ
ēvamētaṃ samārūḍhō haṃsayōga vicakṣaṇaḥ (5)

原初のマントラは白鳥のサハスラーラチャクラ(王座のチャクラ)に完全に映し出されている。白鳥のōmkaraに(AUMを熟考し)うまく昇りついた人はハムサヨーガをつかみ、認識していると言われる。(その人は行動がもたらす果実にもはや影響を受けることは無い)

na bhidyatē karmacāraiḥ pāpakōti śatairapi
āgnēyī prathamā mātrā vāyavyēṣā tathā parā (6)
 
ハムサヨーギーは幾千幾百万の罪にも影響されない。{原初音の三つの音節と半分の音節については説明済みである}
見る者は、最初の節Aはアグニ(火)として、次の節のUはヴァーユ(風)としてōmkaraを司る神を知るようになった。

bhānumaṇḍala saākāśā bhavēnmātrā tathōttarā
paramācārdha mātrā yā vāruṇīṃ tāṃ vidurbudhāḥ ( 7)

原初音のMの三番目の音節はスーリヤ(太陽)として知られ、四番目の音節はヴァルナ(水)として知られる。

kālatrayē~pi yasyēmā mātrā nūnaṃ pratiṣṭitāḥ
ēṣa ōṃkāra ākhyātō dhāraṇābhi rnibōdhata (8)

ōṃkāraの三つの音節は時(過去、現在、未来)のすべてにおいて確固として維持されている。集中(ダーラナ)によって理解されるであろう。

ghōṣiṇī prathamā mātrā vidyunmātrā tathā parā
pataṇginī tṛtīyāsyā ccaturthī vāyuvēginī (9)

原初のマントラには主に12の音節がある。その名前はここに記される。初めの原初音の音節はGgōṣiṇī(ゴーシニー)と呼ばれる。二番目の音節はVidyut(ヴィドュ)と呼ばれる。三番目の音節はpataṇginī(パタンギニー)と呼ばれる。四番目の音節はvāyuvēginī(ヴァーユヴェーギニー)と呼ばれる。

pañcamī nāmadhēyā tu ṣaṣṭhī caindryabhīdhiyatē
saptamī vaiṣṇavī nāma aṣṭamī śāṅkarīti ca (10)

五番目の音節はnāmadhēyā(ナーマデーヤー)として知られる。六番目の音節はAiṃdrī(アイムドリー)である。七番目の音節はvaiṣṇavī(ヴァイシュナヴィ)である。八番目の音節はśāṅkarī(シャンカリー)である。

navamī mahatī nāmā dhṛtistu dasamī matā
ēkādaśī bhavēnnārī brāhmītu dvādaśī parā (1 1)

九番目の音節はMahati(マハティ)である。十番目の音節はdhṛti(ドゥルティ)である。十一番目はNari(ナリ)であり、十二番目はbrāhmī(ブラーフミー)である。

prathamāyāṃ tu mātrāyāṃ yadi prāṇairviyujyatē
bharatē varṣarājo~sau sārvabhaumaḥ prajāyatē (12)

(原初音を熟考することの有益性は下記に述べられている)
原初音の最初の音節を熟考しながら死にゆく人は、インドの偉大な皇帝のような再生を得る。

dvitīyāyāṃ samutkrāntō bhavēdyakṣō mahātmavān
vidyādhara stṛtīyāyāṃ gāndharvastu caturthikā (13)

人の魂が二つ目の音節で出発するならば、偉大なヤクシャ(聖なる存在へと達した)として生まれ変わる。もし三番目の音節で死を迎えるのであればヴィディヤダーラ(偉大なる学者)として再び生れるであろう。四番目の音節で死ねば、ガンダルヴァ(音楽において達成した存在)として生まれ変わってくる。

pañcamyāmatha mātrāyāṃ yadi prāṇai rviyujyatē
uṣita ssaha dēvatvaṃ sōmalōkē mahīyatē (14)

人が五つ目の音節を唱えながら死を迎えるならば、神性の域に達し月の世界に生まれ変わるだろう。

ṣaṣṭhyā mindnsya sāyujyaṃ saptamyāṃ vaiṣṇavaṃ padam
aṣṭamyāṃ vrajatē rudraṃ paśūnāṃ ca patiṃ tathā (15)

人が六つ目の音節を唱えながら死を迎えるならば、その人はインドラ(天上の王)に融合する。人が七つ目の音節を唱えながら死ぬならば、その人はヴィシュヌ(世界の保護主)の住まいに到達する。八番目の音節を唱えている最中に死を迎えるならば、ルドラ(創造の主)に達する。

navamyāṃ tu maharlōkaṃ daśamyāṃ tu janaṃ vrajēt
ēkādaśyāṃ tapōlōkaṃ dvādaśyāṃ brahma śāśvatam (16)

九番目の音節を唱えながら死んだ場合はマハーローカに達する。十番目の音節で死を迎えたのならばジャナローカに達する。十一番目の音節で死んだのならタポーローカに達する。十二番目で迎えたらブラフマの永遠の状態に達する。

tataḥ parataraṃ śuddhaṃ vyāpakaṃ nirmalamṃ śivam
sadōditaṃ paraṃ brahma jyōtisā mudayō yataḥ (1 7)

もっとも偉大であり、純粋であり、すべてに浸透し、吉祥であり、すべての光のまばゆく輝く源の上にあるものはパラブラフマンである。

atīndriyaṃ guṇātītaṃ manō līnaṃ yadā bhavēt
anūpamaṃ śivaṃ śāntaṃ yōga yuktassadā viśēt (18)

ヨーガの実践者(修道者)がそのマインドを感覚器官やグナ(属性)を超えて、パラマートマン(超魂)に没頭した状態で留まるとき、比類なき吉祥の、平安なる最高の境地に達する。

tadyukta stanmayō jantu śśanai rmucyētkalēbaram
saṃsthitō yōgadharmēṇa sarva saṇga vivarjitaḥ (19)

ヨーガの実践者は最高の真実に夢中になっているべきである(原初音である‘ōmkara’を熟考し、死ぬ間際の肉体を去るべきである)。ヨーガを実践することと、世俗の縛りを追いやることによって、最高の至福に達するであろう。

tatō vilīna pāśōsau vimalaḥ kamalā prabhuḥ
tēnaiva brahmabhāvēna paramānanda maśnutē (20)

そのような覚悟をした実践者はすべての束縛から自動的に自由になる。彼は、太陽がそうであるように、純粋で比類なきものになり、ブラフマンに没頭しながらつねに最高の至福を愉しむようになる。

ātmānaṃ satataṃ jñātvā kālaṃ naya mahāmatē
prārabdha makhilaṃ bhuñja nnō dvēgaṃ kartu marhasi (21)

(ここでは実践者が説教をされている)
おお、知性高き人よ!あなた自身が最高の至福であることをいつも知りながら人生を送りなさい。どんな興奮や感情も起こさずに、あなたのプララブダ(過去の行為の果実)を経験しなさい。

utpannē cātma vijñānē prārabdhaṃ naiva muñcati
tattvajñānōdayā dūrdhvaṃ prārabdhaṃ naiva vidyatē (22)

アートマジニャーナ(アートマンまたは真実の自己の知識)に達することによってでは、プララブダから自由になれるわけではない。タットヴァジニャーナ(タットヴァまたは真実の知識)が明らかになった後にのみ、プララブダ(先の行為-よきにつけ悪きにつけ、の果実)から自由になれる。

dēhādīnā masattvāttu yathā svapnē vibōdhataḥ
karma janmantarīyaṃ yat prārabdhamiti kīrtitam (23)

夢の世界では、肉体や他のできごとはアサット(非真実)であるが、感覚は対象を感じている。同様に前世のカルマ(行為)はプララブダ(貯蔵庫)として今世の中で存在する(それらを経験することはできるが見ることはできない)

tattu janmātarābhāvā tpuṃsō naivāsti karhicit
svapna dēhō yathādhyasta stathai vāyaṃ hi dēhakaḥ (24)

ヨーギーは再び生まれることはないため、プララブダも存在しない。彼は夢の中の世界のように肉体を非真実のものとして知覚しているのである。

adhyastasya kutō janma janmābhāvē kutaḥ sthitiḥ
upādānaṃ prapañcasya mṛdbhāṇḍasyēva paśyati (25)

幻想のようなものに向かってどこに再生するのだろうか?どうやって存在するのだろうか。いつ誕生無き状態になるのだろうか。ヨーギーはポットの物質的素材が泥であることを理解し、宇宙の原因についても同様の論理性を見る。

ajñānaṃ cēti vēdāntai stasmi nnaṣṭē kva viśvatā
yathā rajjuṃ parityajya sarpaṃ gṛhṇāti vai bhramāt (26)

哲学者が幻想(アジュニャーナ)と宣言したものは存在しない、それでは宇宙の存在はどこにいってしまうのか?(存在するはずはない)。人が幻想を通してロープを蛇と見間違えるように、サティヤ(永久なる真理)を知らない愚者はこの世界がリアルだと思い、ブラフマンを見ることはできない。

tadva tsatya mavijñāya jagatpaśyati mūdhadhīḥ
rajjukhaṇḍē parijñātē sarparūpaṃ na tiṣṭhati (27)

ロープが蛇と間違われるように、サティヤ(永遠の真理)を知らない愚者は世界を本物だと見る。それが単なるロープの一部でしかなかったことを知るとき、蛇だと思っていた幻想的観念は消え去る。そうではなかろうか?

adhiṣṭhānē tathā jñātē prapañcē śūnyatāṃ gatē
dēhasyāpi prapañcatvāt prārabdhāvasthitiḥ kutaḥ (28)

そして彼が本当の自己(ブラフマン)を知るとき、宇宙は空と化する。宇宙自体が空となると、肉体は宇宙の一部であるが、プララブダ(過去生から生じた功績と落ち度)の疑問はどこにいってしまうのか。

ajñāna jana bādhārtham prārabdhamiti cōcyatē
tataḥ kālavaśādēva prārabdhēca kṣayaṃ gatē (29)

無知の者を目覚めさせるためには、プララブダが用いられる。プララブダが使い果たされたそのときに、―

brahma praṇava sandhāna nādō jyōtirmaya śśivaḥ
svayamāvirbhavē dātmā mēghāpāyē~ṃśu māniva (30)

ブラフマンとともにプラナヴァの集合体を引き起こす音が現れる。その音はシヴァであり、絶対なるまばゆい光である。太陽が雲が散ったところに輝き出でるように、シヴァという音の形が現れ、無明は消し去られる。

siddhāsana sthitō yōgī mudrāṃ sandhāya vaiṣṇavīm
śṛṇuyāddakṣiṇē karṇē nādamantargataṃ sadā (31)

座位のアーサナでヴァイシュナヴィムドラーを実践しているヨーギーは、右の耳からつねに内的な音を聴いている。

abhyasyamānō nādōyaṃ bāhyamāvṛṇutē dhvanim
pakṣā dvipakṣa makhilaṃ jitvā turyapadaṃ vrajēt (32)

ヨーギーが実践している(内的な)音を聴くことで、外界のすべての音を遮断する。継続して聴こうとする実践者は、異なる世界に勝利し、トゥリヤの状態(寝ているときも、起きているときも、夢見のときをも凌駕した至福の状態)に達する。

śrūyatē prathamābhyāsē nādō nānāvidhō mahān
vardhamāna stathābhyāsē śrūyatē sūkṣmasūkṣmataḥ (33)

実践の初期には内的な原初音が多くの大きな音として聴かれる。実践が進むにつれて、それはより微細な音として聴かれるようになる。

ādau jaladhi jīmūta bhērī nirjhara sambhavaḥ
madhyē mardaḷa śabdābhō ghaṇṭākāhaḷaja stathā (34)

実践の初期には鳴り響く海の音や、雲の中の雷の音、ケトルドラムの音、川の流れる音を聴くことができる。中間状態に入ると、マルダラ(太鼓)の音から始まり、ベルやホーンの音が聴かれるようになる。

aṃtētu kiṅkiṇi vaṃśa vīṇā bhramara nisvanaḥ
iti nānāvidhā nādāḥ śrūyantē sūkṣma sūkṣmataḥ (35)

原初音の黙想の最終状態においては、リンリンと鳴るベルの音や笛、ヴィーナ、羽音をたてるミツバチの音などが微細な音として聴かれる。

mahati śrūyamaṇētu mahabhēryādikadhvanau
tatra sūkṣmaṃ sūkṣmataraṃ nāda mēva parāmṛśēt (36)

瞑想中、素晴らしいケトルドラムの音や他の音を聴いている間も、微細で、さらに微細な音を聴き分け、焦点を合わせようとしなければならない。

ghana mutsṛjya vā sūkṣmē sūkṣma mutsṛjya vā ghanē
ramamāṇa mapi kṣiptaṃ manō nānyatra cālayēt (31)

微細な音を聴いている間、濃密な音はそこに残っているだろう。濃密な音に集中している間、微細な音はそこにあるだろう。音を楽しむマインドが他の音に逸らされてはいけない。

yatra kutrāpi vā nādē lagati prathamaṃ manaḥ
tatra tam stlirī bhūtvā tēna sārthaṃ vilīyatē (38)

マインドは、何か一つの音にまずは集中し、それにしっかりと固定され、それに没頭するようになる。

vismṛtya sakalaṃ bāhyaṃ nādē dugdhāmbuva nmanah
ēkībhūyātha sahasā cidākāśē vilīyatē (39)

原初音について瞑想している間、外的な印象に対してマインドは無感覚になるべきであり、ミルクと水のように音と混じり合い、途端にCidākāśē(ハートに広がる無限の空、すなわち無条件の至福)に没頭する。

udāsīnaḥ sthitō bhūtvā sadābhyāsēna suṃyamī
unmanīkārakaṃ sadyō nādamēvāva dhārayēt (40)

熱情を制御できたヨーギーは、対象に対しても違いを認めず、継続的な実践により、マインドを撲滅する原初音に瞑想すべきである。

sarvacintāṃ samutsṛjya sarvacēṣṭā vivarjitaḥ
nādamēvānu sandadhyā nnādē cittaṃ vilīyatē (41)

すべての思考を捨てて、すべての行動を控え、つねに原初音に意識の焦点を合わせるべきである。そのようにすることによってチッタ(知性)は原初音の中に没頭する。

makarandaṃ piban bhṛṅgō gandhān nāpēkṣatē yathā
nādāsaktaṃ sadā cittaṃ viṣayaṃ nahi kāṅkṣatē (42)

蜜を吸っている蜂が匂いに関心が無いように、原初音に没頭しているチッタ(知性)は世俗の外的な快楽への欲求はない。

baddha ssunāda gandhēna sadya ssantyakta cāpalaḥ
nāda grahaṇataścitta mantaraṅgaṃ bhujaṅgamam (43)

ナーダの芳しい香りに引き付けられて、心の誘惑に引かれる性質を捨て、原初音を聴いているヨーギは、ナーガスヴァラ(蛇使いの楽器)の音の中に深く没入している蛇のように、彼のチッタ(心)は完全に没頭する。

vismṛtya viśvamēkāgraṃ kutra cinnahi dhāvati

世俗的な情熱に関与しなくなったそのようなチッタ(心)は欲望に走らない。

madōnmatta gajēndrasya viṣayōdyānacāriṇaḥ (44)

niyāmana samarthōyaṃ ninādō niśitāṇkuśaḥ
nādōṃ~taraṅga sāraṅgabandhanē vāgurāyatē (45)

気が狂った象を制御できるとんがった棒のように、音(Nāda)は、悦楽~感覚的な対象の庭~の中に迷ってしまう、ぼーっとなった心をコントロールするのに仕える。ナーダとは、チッタの鹿(気まぐれな心)を捕まえる罠である。

aṃtaraṅga samudrasya rōdhē vēlāyatēpi ca
brahma praṇava saṃlagna nādō jyōtirmayātmakaḥ (46)

音(ナーダ)は、輝いて、ブラフマンの原初音に没入し、内なる海(荒れ狂った心)の波の寄せる岸のようである。心の動乱はナーダとともに停止し、岸辺に静かになった海の波のようである。

mana statra layaṃ yāti tadviṣṇāḥ paramaṃ padam
tāvadākāśa saṅkalpō yāvacchabdaḥ pravartatē (47)

その状態は、心が夢中になっている場であり、ヴィシュヌの最高の椅子となる。心の中の思考は、アーカーシャ(エーテル)の音のようにふるまう。アーカーシャ(エーテルまたは空)はサプダ(音)が存在する限りある。同様に、心はサンカルパ(思考)が存在する限りある。

niśśabdaṃ tatparaṃ brahma paramātmā samīyatē ‘
mādō yāvanmana stāva nnādāntē tu manōnmanī (48)

Niśśabdaṃ―心(静寂)の音のない状態はブラフマンである。それはパラマートマン(超越した存在)以外のなにものでもない。心は音があるかのようにとても長く存在する。心のすべての音の停止の状態はマノーンマニーと呼ばれ、心を超えた状態である。

sa śabdaścākṣarē līnō niśśabdaṃ paramaṃ padam
sadā nādānu sandhānā tsaṅkṣīṇā vāsanā tu yā (49)

この音はAksarabrahman(不滅の)の中に没入している。無音の状態は最上の場所である。継続的なナーダへの熟考は全ての情熱的な結合を破壊していく。

nirañjanē vilīyētē manō vāyu na saṃśayaḥ
nidakōṭi sahasrāṇi bindukōṭi śatāni ca (50)

心は、プラーナ(ヴァーユ)に沿って、ひとえに至福にある最高のブラフマンに没頭する。1兆のナーダと1兆のビンドゥ(すべてのエネルギーと質量)も絶対なるブラフマンの中に没入する。そこに疑いの余地はない。

sarvē tatra layaṃ yānti brahma praṇavanādakē
sarvāvasthā vinirmukta ssarvacintā vivarjitaḥ (51)

全ては原初音のナーダ、ブラフマンに融合する。そのとき、ヨーギーは全ての状態と全ての思考から自由になる。

mṛtavattiṣṭhatē yōgī samuktō nātra saṃśayaḥ
śaṅkha dundublli nādaṃ ca na śṛṇōti kadācana (52)

何の動きもなく、死んだ人間のように、ヨーギーは平静な状態を維持する。そのようなヨーギーをムクタ(自由となった、解放された存在)と呼ぶことに疑う余地はない。その状態に達したヨーギーは、巻き貝の音やDundubhi(大きいケトルドラム)の音を聴くことはないだろう。外的もしくは内的な音も彼を煩わすものはない。

kāṣṭha vadjñāyatē dēha unmanyāvasthayā dhruvam
na jānāti naśītōṣṇaṃ na duḥkhaṃ na sukhaṃ tathā (53)

Unmani(マインドを超えた状態)の状態に達したヨーギーのような身体は、木の丸太のようになってしまうことに疑いの余地はない。そのような知性は、熱さや冷たさ、喜びや悲しみなどの感覚を超えている(二元性の消滅)。

namānam nāvamanaṃ ca santyaktvātha samādhinā
avasthātraya manvēti na cittaṃ yogina ssadā (54)

サマディの状態にあるヨーギーのマインド(知性)は名声や不名誉を諦め、三つの状態を凌駕するだろう。

jāgrannidrā vinirmuktaḥ svarūpāvasthatā miyāt (55)

そのようなヨーギーは睡眠状態(無知な状態を意味する)からも自由となり、彼の真の存在に住まうだろう。彼は至福を経験するだろうし、経験すべきである。

dṛṣṭiḥ sthirā yasya vinā sadṛśyaṃ
vāyuḥ sthirō yasya vinā prayatnam
cittaṃ sthiraṃ yasya vināvalambaṃ
sa brahmatārāntaranādarūpaṃ (56)

対象がなく固定された視点を持つ人、努力なくプラーナが安定している人、チッタ(知性)が何の支持なしに固定された人、彼はブラフマンであり、ナーダの形態である。

ityupaniṣat

ōm vānmē manasiti sāntih
iti nādabindāpaniṣatsamāptā
ōm tatsat

ここでナーダビンドゥウパニシャッドを終える。

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