言葉と教え

スリ・スワミジ来日初コンサート推薦文/若林忠宏

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民族音楽研究演奏家/民族音楽療法士・アーユルヴェーダ音楽療法士:若林忠宏

来る5月4日(祝水)、現地インドでカリスマ的な人気と信望を誇るインド古典療法音楽の世界的な演奏者であり療法士である、Sri Ganapati Sachichidananda Swamji氏 初来日コンサートが行われます。とても貴重な機会ですので、是非ご都合をつけて、生の空気感とともに、その音楽に直に触れる体験を得て頂きたいと思い、推薦文を書かせて頂きます。Sri Ganapati Sachichidananda Swamji氏の療法音楽は、以下に述べます三つのジャンル(の要素)を兼ね添えている、ある意味得難い音楽です。だからこそ、その三つの違いをより深くご認識していただきたいと思うのです。

インド古典音楽の三つのジャンル

「旋法Raga(ラーガ)と拍節法Tala(ターラ)」に基づくインド古典音楽の中だけでも明らかに異なる三つのジャンルがあります。それは、「Science-Music」と、その他「Performing-Arts」と「Devotional-Music」です。

これらは本来はひとつの音楽だった訳です。が、中世に「イスラム宮廷古典(芸術鑑賞)音楽」になった性格上や、近現代に王制が廃止され、宮廷楽師が「Performance-Music」や「Commercial-Music」で生き残らねばならない状況になったことで、演奏家による偏りが顕著になってきてしまった経緯があるのです。もちろん、商業的に成功した演奏家にとっても、「Performance性」を出している場合じゃない程の「重く難解なRaga」も当然あります。

その一方で、今日の南インド古典音楽は、そもそも「Devotional-Music」としての性格がとても強く、「科学音楽」に端を発する「古典音楽」 でありながらも、純然たる「宗教音楽」と同じような精神性を持っている音楽もあります。やはりここにも、「Performance性と Devotional性」の割合があり、非常にオーソドックスな演奏スタイルの、良い意味で「伝統の下僕」のような地味な演奏家から、個性を売りにしている派手な演奏家まで様々です。このような要素が混ざり合って、結果として、三つジャンルの境界線は非常に分かりにくくなっています。

また、「宗教音楽」の場合、別な性質があります。それは、「宗教音楽演奏家」であることと「宗教家」であることは本来別次元であるはずなのですが、これもまたその境目は不明瞭であるという側面です。

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純粋で温かい

Sri Ganapati Sachichidananda Swamji氏の音楽とPerformanceの印象を、一言で言うならば、「非常に純粋で、温かい」と申し上げられます。しかし、これはあくまでも「印象」なのです。この「印象」を揺らぎない価値にするためには、こう述べる者(この場合私)と、それに同感して下さる方々の双方の理解の基本に、インド古典音楽に対する「論理的な分別」があるか?否か?ということが大切であるとお伝えしたいのです。

しばしば喩えに上げていますように、アーユルヴェーダ及び中医・漢方などの東洋医学、日本の精進料理などに於ける「医食同源」の考え方では、「食べ物は、美味しい不味い、好き嫌いではない」だけではないはずです。
中医・漢方弁証論治で言うとこの「証」、アーユルヴェーダでの「Dosha(ドーシャ/質)」によって、「合う食べ物、合わない食べ物」があり、それは食べる人の心身の状態によって大きく変わるということです。しかもそれは季節のみならず時間帯によっても変化します。また、何らかの治療(心身を本来の自然 な状態に戻す)の過程によっても変化します。逆に言えば、長年に渡る日常的な「美味しい不味い、好き嫌い」の食事が、そもそも「心身の不健康」の原因なの かも知れません。
ならば、この「医食同源」同様に、私たちの心と体に入って来る「音楽=音の波動、エッセンス」もまた「医音同源」としても考えることを基本にすべきであろう、ということなのです。

医音同源

このような考え方を伝え、気づいて理解してもらうために、私も含め、多くのアーユルヴェーダや東洋医学に関わる人たちは、日々苦悶し、「どうしたらより分かり易く伝えることが出来るだろうか?」と、日々精進しているに違いありません。何故「苦悶」と言うのか? それは、「分かり易い」と「本物」は、本来相反する性質があるからです。

例えば、アーユルヴェーダのインド料理を研究されている方にとって、「天然食材の自然の甘み」を伝えたいと思う時に、「やっぱりこっちが甘くて美味しい」 と、砂糖入りを選ばれてしまったり。様々な生薬でもある香辛料の「薬効と味覚の絶妙なバランス」を苦心されているところに「やっぱりカレーは辛いのが一番だよね!」と言われてしまうようなジレンマです。つまり、「医食同源」を食べてくれる人々、「医音同源」を聴いてくれる人々の側にも、理解や努力をお願いしないと、「本物を崩したり、妥協したり」の方向性には限界もあり、やや辛く哀しいものがあるからです。本来、「もっと本物に近づけたい」とさえ思っているのですからなおさらです。

それでも、「医食同源の方が、体に直接的に思われるからまだマシだ」というジェラシーも含めた正直な思いもあります。「医音同源が理解されない孤独感」に至っては、「ゆるキャラブームの渦中の『なまはげ』のような存在?」に思える時さえあります。

ところが、このジレンマのテーマをご理解頂いた上で述べさせて頂けることが、「やはり美味しく食べる(楽しく聴く)ということも大切なのだ」という逆説的な課題です。つまり「プラセボ(暗示的な)」要素も含め、「美味しい(楽しい)」のスウィッチによって、頭の認識とは別に、体(心)のあらゆる機能がより良い状態にスタンバイするからです。

非常に難しい問題です。ですが、実はシンプルな問題でもあります。喩えば、勉強が嫌いで凄く遅れてしまった小学三年生が居たとします。一年生の教科書でやっと。しかも煽てて褒めて盛り上げてやっと。しかし、それを続けていても「二年遅れ」は永遠に解決せず、その「ギャップの隙」を狙って、容赦なく病魔が 心や体につけ込んでくる危険があります。確かに、嫌々勉強しても学力にはなりません。ある程度のやる気と「勉強が面白い」という感覚にならないと身に付きません。
その為には、「やる気」と「楽しい」「嬉しい」という感覚を与えなければ始まらないのです。そして、一旦動き出し、当人がその「成長、向上」を自覚出来る ようになれば、どんどん良くなって行くという仕組みです。これをも含め、私たちは日々苦悶しながらも、学び精進し、あれこれ工夫して努力している訳です。

この意味で、Sri Ganapati Sachichidananda Swamji氏は、心地良い楽しい音楽を伝えることにかなり成功しています。だからこそ、楽しむこととは別なところでも理解を深めて頂きたいと願うのです。

科学音楽

ここで、「Science性:Performance性」が、何故「論理的に判断出来るか?」の、幾つかある理由の最も分かり易い一例について端的に申し上げます。

例えば演奏者名とRaga名を知らない音源を「科学音楽」を熟知した人に10秒だけ聴かせるとします。「Performance性」が高い場合、「ああ、これは誰々であろう」「もしくはその弟子だ」が数秒で分かります。「音の癖(個性)」が顕著であるからです。その代わり「何のRagaか?」が数分しないと分からない場合があります。伝統的な手順で示すべきRagaの「Tesittua(個性)」や「Prakriti(本質)」が中々提示されないからです。逆に、「Science性」が高い場合、数秒でRagaが伝わり、流派が分かるのに数分から十数分。演奏者が分かるのにはもっと掛かります。まず 「Raga本意」であること。次に「伝統を重んじる」からです。
これは、将棋に喩えて「碁盤上の碁石の有様」を見て、棋士の方が「何手目辺りで、どっちが優勢で、後何手で勝負が付く」が分かるのと同じです。これは「印象」でもなければ「予言」でもなく。極めて「科学的、論理的」な判断でしょう。
逆に「印象主義」は、将棋を全く知らない人が「白黒の並びが美しい」とか、「ルールは知らないけれど、あの緊張感が凄い良いよね!」と言っていることにほぼ同じです。

もちろん、世の中には、逆に「印象、感覚、気分、感情が全て」のものもたくさんあります。「恋愛」などその最たるものでしょう。そこに「論理」など持ち出す輩は「馬に蹴られろ」と言いたいほど野暮な話です。音楽も、ポップスやイージーリスニングに論理を求める必要は全くありません。意外に西洋クラッシック 音楽も、その名も「印象派」以降は、論理は二の次かほとんど無用です。しかし、インド古典音楽は違うのです。

Sri Ganapati Sachichidananda Swamji氏の音楽を論理的に理解する上で、大切なことは、Sri G.S.Swamiji氏は、第一線のプロ・ミュージシャンであり、その音楽は、紛れもなく「科学音楽~古典音楽」であるとともに、優秀な 「Performing-Art」であり、かなり深い「Devotional-Music」である、ということです。
加えて、或る種の「宗教家」的な存在感とカリスマ性も兼ね添えています。言い換えれば、そのような存在は、トップクラスでは数人しか居ない貴重な存在ではあるはずということです。 
もしかしたら、「印象派の古典音楽マニア」さんに言わせると、「つまらない、感動しない」とか、「電子楽器を使うこと自体古典では無い」などなど とおっしゃるかも知れません。しかし、「印象派」が「つまらない」と言うということは、「Performance性だけではない」ということを意味している訳なのです。

逆に、Sri G.S.Swamiji氏の演奏の中には、「Perfomance性」もありますから、どうぞ演奏会では、その演奏やRagaに大いに恋をして頂きたいとも思います。その方がプラセボも手伝って、心と体により効果も得られるでしょうし、何よりも、演奏者のノリが向上すれば、必然的にRagaの純度も高まります。もちろん、聴衆がよりノルことで「自己顕示欲がより向上する」タイプの演奏家も居ますが、その点で氏は、とても純粋なミュージシャンであると(印象ですが)思います。

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古典音楽における伝統的な洋楽器起用

また、Sri G.S.Swamiji氏のKey-Boadの腕前はかなりのもので、音程を強烈にグリサンドするベントの技法も駆使して、完璧な南インド古典音楽奏法を表現しています。さらに、電子楽器の起用に関して言えば、現代人の感性には、癖の強い伝統民族楽器よりも自然に入り込め療法効果が高いのではないか、と考えられます。Sri G.S.Swamiji氏のステージにもゲスト出演したスライドギターで古典音楽を演奏するPandit Vishwa Mohan Bhat氏(北インド古典音楽)が世界的に受け入れられたのも、Sri G.S.Swamiji氏同様南インド古典音楽のエレキ・マンドリン奏者で45歳の若さで早世しましたが、天才少年としてデビュー(7歳)した U.Srinivas氏も同様に世界的に高い評価を得たのも、洋楽器・電子楽器で高い水準の古典音楽を演奏したからとも考えられます。そもそも南インド古 典音楽は、19世紀から西洋Violinを主要な楽器としていますから、もはや洋楽器起用は伝統的とさえ言えるのです。

前奏部「Alapana(アーラーパナ)」

Sri Ganapati Sachidananda Swamji氏の療法音楽は、もちろん私が紹介に努めております「インド古代科学音楽」及び「インド古典音楽」に基づくものに他なりません。ですが、南インド古典音楽に根ざしておられるので、若干楽曲が出来過ぎているところがあります。しかし、その前奏曲「Alapana(アーラーパナ)」の部分は、北インド古典音楽と共通する即興音楽であり、即興ではその科学性が問われると共に、存分に発揮されます。Swamiji氏の演奏スタイルは、そのAlapanaが充分な長さで繰り広げられる点で、科学音楽、療法音楽としての価値も充分に理解されるだろうということです。北インド古典太鼓も加えた、南インド古典太鼓・打楽器陣が加わって以後の楽曲は、むしろ療法音楽、及び瞑想音楽をたっぷり堪能した後の、リラクゼーションと穏やかな楽しみ、緩やかな高揚と考えて頂ければ、とてもつじつまが合うと言えます。その意味では、楽曲でPerformance性が強烈すぎない点は、むしろ評価に値するとも言えます。

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