シュリーマド・バーガヴァタム 第37話
更新日 : 2018.2.9
カテゴリー : シュリーマド・バーガヴァタム
シュリ・クリシュナの馬車が宮殿の道に入ると、王家のすべての女性たちは彼を一目見るためテラスに上がりました。
ハートに女神ラクシュミーが住まう主のダルシャンが日常的にあることに慣れているドワーラカの市民は、その日は非常に長い時間のダルシャンがあっても満足することはありませんでした。この主のハートには豊穣の女神を留めています!彼女はいつも彼と共にいます。主ヴェンカテーシュワラは彼のハートに女神を保ち、すなわちスリニヴァーサ(光が住まう場所)なのです。
彼の胸は女神ラクシュミーの住まいです。彼の腕は世界の保護者の住まいです。そして彼の蓮の御足は彼の栄光を讃える帰依者の避難所です。彼の顔は私たちの目にとって甘露です。
黄金色のピタンバラの衣服で飾られ、ヴァナマラの花輪を身に着けた主クリシュナの馬車が宮殿の道に入ったとき、白い傘が彼の頭上に掲げられました。彼はヴィンジャーマラの扇で扇がれました。たくさんの花々が彼に降り注がれました。その時主は太陽、星、月、虹、そして稲妻で囲まれる雲の様に壮大に光り輝いていました。
シュリ・クリシュナは両親の住居に行き、深い畏敬の念でお辞儀をし、デーヴァキと他の七人の母親に敬意を表しました。彼女たち皆が彼を抱きしめました。溢れる愛で、母親たちは膝に彼を座らせました。彼女たちの目から流れる喜びの涙で彼はすっかり濡れてしまいました。
そこから彼はあらゆる贅沢がある豪華な宮殿に進みました。そこは八人の女王と、一万六千人の女性が住んでいました。
非常に長い間遠くに離れており、夫の到着を遠くから眺めていた妻たちは、恥じらいの入り混じった興奮と共に、主の不在時に実践していた瞑想と修練をもやめてしまいました。彼女たちはただちに椅子から立ち上がりました。
徹底した性格の妻たちはまず心の中で主を抱きしめました。その後目と目を合わせることで主を抱きしめました。彼女たちが立っていた場所から、恥じらいながら頭を下げ、主と視線を合わせ、じっと見つめることで彼を抱きしめました。そして彼女たちは直接彼を抱きしめました。彼女たちはなんと幸運だったのでしょう!
主を見た時の感情に圧倒され、彼女たちは涙をこらえることができませんでした。主クリシュナはいつも彼女たちの側にいました。彼は彼女たちそれぞれにとってエーカンタ(独り占めの)でした。彼女たちにとって彼の御足は瞬間、瞬間より新鮮に現れていました。
本来は落ち着かない性格の女神ラクシュミーが決して離れる(決して飽きる)ことがない主です。誰がその主の蓮の御足を拝見するのを飽きることができるでしょうか?
強力な軍隊に支えられ、すべての方向に触手を広げていた王たちは、母なる地球の重荷になっていました。主クリシュナはそれらの王たちの間に紛争を引き起こしました。最終的に森全体の火災を起こす摩擦を生む風のように、主クリシュナは自分自身は武器を持たず、最終的に相互破壊につながる王たちの摩擦を引き起こしました。この方法で、彼は母なる地球の負担を軽減し、そして平和に満ち足りていました。
主は誰かを殺すために武器を取ることも、殺すために彼らを扇動することもしませんでした。彼はただ彼らの間に摩擦を起こしました。彼らは全員、詐欺師と裏切者でした。彼は裏切者が他の人と戦う原因を作りました。彼が母なる地球の負担を軽減したのです。
幻影の力を用いてクリシュナとして人間界に化身した至高主は、美しい女性たちの間で楽しみ、普通の人間のようでした。女性たちは卓越した美しさと惑わしの遊戯をもってさえも、彼の心の中に僅かなさざ波さえも作ることができませんでした。彼女たちの感覚的な魅了する笑顔と陽気な視線で、おそらく、愛の神マンマタさえが魅惑されるかもしれませんが、主クリシュナの心を乱すことはできませんでした。
Tam ayaṁ manyate loko hy asaṅgam api saṅginam
主はすべてに存在しているが、いかなる対象とも関係しません。
Ātmaupamyena manujaṁ vyāpṛṇvānaṁ yato ‘budhaḥ
どんな仕事に携わっていても、シュリ・クリシュナはすべてに無執着です!しかしながら、この知識を理解できない無知な人間は、主を普通の人間であると考えます。他の人のように、主もまたこの宇宙のカルマの束縛に結びついていると信じます。したがって、無知な人は幻影に閉じ込められます。
霊的無知はこのすべての根源です!その様な人々は「おお、彼も私たちがするように執着を持っている。また束縛にとらわれている。また欲望と怒りのすべての形に包まれている」と信じます。彼らは主がすべてだと理解しません。この幻影にとらわれ、その中で行動します。
すべての存在はシュリハリに対するこの幻影下にありました。現実には、至高主は自然の形態(プラクリティ グナ)・特質から起こる喜び・悲しみと関係ありません。この事実を理解するものだけが彼と一つになるのです!
それでも、この主はプラクリティとその特質(本質とその性質)によって支配される体で彼が現れるように見えます。これは至高の全能者のイシュワラトワームです!存在しないにも関わらず、彼はそれを照らします。彼が存在するにもかかわらず、彼は存在しないかのように現れます。
これはとても理解しがたいことではありませんか?彼はあるようだが、無いように現れます。石と呼ばれる物質を例えて考えてみましょう。石はどのように現れますか?それは石のように現れます。そうです。それは動きません。それはどのように作られたのでしょう?たぶんいくつかの金属あるいは土あるいは化学物質からです。その形態それ自身がパラマートマです!彼は光を当てています。あるいはこの形態を通して彼自身を目に見えるように作っているのです!彼は石のように現れます。水のように現れます。火のようになります。もしあなたが深く考えるなら、この主題を理解するでしょう。
パラマートマに完全に固定された知性(ブッディ)は好き嫌いの罠に陥ることはありまえん。そうではありませんか?
シュリマン ナーラーヤナ!