トリプラ・ラハスヤ(三位一体の母なる女神の秘密)8日目
更新日 : 2019.6.21
カテゴリー : シュリ・チャクラ
私たちは毎日トリプラ、トリプラと言っています。今日のダッタを通した母なる女神の教えは素晴らしいものです。ですからこの夜に何もしないわけにはいかなかったのです。(スワミジは当初今夜はバジャンは無いと仰っていた)これは単なる物語ではありません。それはウパデーシャ(教え)です。答えは質問が出てから生じます。
トリプラの女神は主ダッタの舌に座っています。このことすべてを考えるとき、私はダッタが座って講話を話している姿を見ることができます。誰もがアートマン(魂)の知識を欲しがりますが、そのレベルに到達するのに必要となる厳格なステップを通過するのに準備が整っているのは非常にわずかな人です。好奇心と皆さんの願望によって、ある程度までトリプラ・ラハスヤについてくることができるかもしれません。ランプに火を灯すこと、アーラティを行うことが、それが意味を欠いた単なる儀式になってしまったら、それらは知識を授けるでしょうか? アーラティとは何か、ランプに火を灯すのか自分自身に質問してごらんなさい。この好奇心があなたに知識を授けるのです。主ダッタとパラシュラーマの対話を聴くとき、皆さん自身がその経験の一部にならなければなりません。恋愛話のようにその話を聴くことはできません。すべての言葉、パラシュラーマが述べたすべての疑いを経験しなければなりません。自分がパラシュラーマだと想像してみてください。皆さんが彼の肌に入って、この質問をしていると想像してみてください。何人かはすぐについていけるかもしれませんが、他の人はもっと時間がかかるかもしれません。ですがサッドグルにとっては誰もが同じです。皆さんは早く学ぶ人かもしれませんし、ゆっくり学ぶ人かもしれません。サッドグルのある行動を見て、彼が人を差別するように感じるとき、その感覚にこだわっているのなら、あなたは彼の祝福を失ったのです。サッドグルに対しては構いません。もしサッドグルが人を差別したり、差別するように現れているのなら、それはそのための何らかの理由があるのです。実際のところサッドグルは決して差別をしません。
一方で皆さんもそのような人になるように奮闘しなければなりません。ある人がよく学んだとスワミジが言うのを仮定してみてください。嫉妬してはいけません。そのような人になろうとしなさい。嫉妬はひどくむしばんでいく感情です。なぜかわかりますか?何かの知識を得たとしても、嫉妬によって消えてしまいます。
一日一つずつある主題について話してきました。献身、信愛、信、イーシュワラ・プラニダーナ(主への心からの礼拝)などです。イーシュワラ(神)への信愛なくして、何も達成はできません。そのように、皆さんは何かのヨーガを獲得します。呼吸法も良いヨーガです。皆さんにはこれに対する献身が必要です。これを達成するための頑固さが必要です。それで更に集中できるようになり、私たちのゴールに到達できるのです。これが献身です。確固たる決意「これを達成したときだけこの束縛からの解放を達成するだろう」というのが信愛です。信愛のみによって達成されます。そうでもしなければ束縛は皆さんを苦しめて罪に導くでしょう。そのためプロジェクトを引き受けたなら達成するべきです。皆さんはそれが難しすぎるからといって、汚れた手を洗ってしまって怠けて座っていることはできません。少なくとも他の似たようなプロジェクトを手に取って終わらせるべきです。その方が少し簡単かもしれません。それもまた献身です。ですからこれをすべてやる時、皆さんは自己実現を得るのです。そうでなければできません。母なる女神はパラシュラーマの中にもいます。女神は主ダッタの中にもいます。これを全て学ぶ時、ダッタの本質と帰依者たちをテストする本質の重要性をはっきり理解します。
それがサプタシャティ、デーヴィ・バーガヴァタムなどになぜか書かれています。私たちはこのマントラをよく見ます
Ya devi sarva bhuteshu vidya rupena samsthita, namas tasyai namas tasyai namas tasyai namo namaha
(全ての生き物は、学ぶこと、または学ぶプロセスとして、母なる女神を見て礼拝できる)
今日は八日目です。皆さんはスワミジが「タットヴァ(真理)」を繰り返し言い続けていると不思議に思うかもしれません。どうやって「タットヴァ(真理)」を学ぶことができるのでしょうか?家でも両親は時々「私のタットヴァ(真理)を理解できないのか?」とよくタットヴァを言い続けます。私たちも「あなたの性質と態度も全く理解できません」と言わんばかりに「わかりません。タットヴァを理解できません」と言います。タットヴァとは何でしょう?どうやって理解するのでしょう?その意味は何ででしょう?どうやったら学べるのでしょう?それについて考えみましょう。今日、八日目に私たちはタットヴァについて話しています。
Bhajan: Manase sada bhajasva バジャン:マナセー サダー バハジャスヴァ
繰り返し:おお、探究者よ!いつも心の中の母なるカーリーを礼拝しなさい。社会の皆さんに敬意を授けます。カーリーは、偉大な聖者たちの心のように池で自由に泳いでいる白鳥のようです。
スタンザ1の意味:女神はヒマラヤの娘。女神は世界のすべての所有者である。完全性と純粋性の化身である。サンムカ(スッブラマニア)の母である。幻惑を消し去る。永遠の幸せを授ける。邪悪な人を破滅させる。カーシ(ヴァナラシ)の化身自身である母なるカーリーを礼拝する。
スタンザ2の意味:徳の高い人から礼拝され、サマーディにある帰依者に崇拝される存在。サマーディだけによって成し遂げられ、何にも執着せず、偏見がなく、その哲学は深淵な秘密であり、グルからのイニシエーションを通して知られる存在。ヴェーダの詠唱の本質によって知られる存在、サッチダーナンダを授ける存在、そのようなカーリカ女神に奉仕を捧げる。
母なる女神トリプラ・デーヴィは主ダッタを通して私たちにどうやって現象や哲学を理解するかを教えています。理解しようと試みましょう。母の真理はこのようなものです。
Jaya devi jaganmatah – jaya devi paratpare Jaya kamesa vamakshi – jaya kamakshi sundari
パラシュラーマは主ダッタに尋ねました。
「おお、主よ、学者たちは規定された時刻に文献に述べられているように厳格に行為を行っています。ある人たちは別の手法で神を礼拝しています」
これは、「真理」とは何かという問いに対する反応として出てきたものです。
「ある人はヨーガを通してサマーディに達しています。ある人は弟子たちに講話をしています。ある人たちは会合で議論をしています。ある者はそのような世俗生活のもつれをひどく嫌います。その人たちは皆学者です。しかし彼らの情勢や取り組み方は異なっています。このような違った道でどうやって神聖な知識に到達することができるのでしょうか?ある人は礼拝し、ある人は討論し、ある人は講義をします。それはすべて文献に従っているのだが、しかし各々の手法は違っています。このすべての人たちが得て到達する究極の神聖な知識が一つであり、同じものであることをどうやって理解し信じることができるのでしょうか。人は厳格に経典に従わなければならないと言われています。部分的に従えばよいと思っている人もいます。
主ダッタは言いました。
「私はアートマン(自己)である。あなたは自分がアートマンであると思わなくてはならない。それからはアートマンとは何かという質問は無くなる。アートマンはすべてである。であるから、異なるあなたとか私というものはない。このレベルで熟考し、経験するならば神聖な知識(パラータットヴァ)を理解するだろう。あなたが質問したすべての人は、異なる取り組み方をしているように見えるかもしれないが、彼らは『アハム・ブラフマースミ(私はブラフマンである、私はアートマンである)』の状態にあり、常に同じものを熟考している。影響受けることなく世界の利益のために行動している。異なったように行動しているように見えるが、彼らの状態は一つであり同じものであることを理解しなければならない。理解するのが難しいだろう。ある物語で説明しよう」
講演を行っている人は他にはないものだと信じています。その教えにすべてがあると信じています。他の者は講話には何もなく、カルマ(行動)と礼拝の中にすべてがあると信じています。しかし実際はこれはすべて同じことです。ですのでダッタは物語を話しているのです。
「かつてヴィデーハを統治したジャナカという名の正義の王がいた」とダッタは物語を始めました。私たちの多くがジャナカのことを知っています。彼には敵が全くいませんでした。
「ジャナカはかつて主が喜ぶような偉大なる火の儀式を執り行った。何人かの学者がその礼拝に参列した。同時に主ヴァルナ(水の神)も火の礼拝を行いたいと主張して同じ学者たちを招待した。自分もヤグニャを行っているのだと彼は少し嫉妬してヤグニャをやりたがった。「なぜ私がヤグニャをやるべきではないのか?ジャナカができるなら私にできないはずがあるか?私は神だ」しかし学者たちは誰もヴァルナのヤグニャに行かなかった。ヴァルナよりジャナカが優れていた。ジャナカは非常に正義にあふれていた。彼は『アジャータ・シャトゥルヴ』だった。つまりまったくの無敵だった。ヴァルナは自分がたくさんの奉仕と食べ物を出すと言って学者たちを誘った」
最近では、先祖の儀式儀礼のために皆さんが司祭を招くと、「ヴァダ(風味のいい揚げたスナック)の準備はできてきますか?」と彼らが言います。「ブーレルを作ることを希望します。必ず忘れずに作ってください。私は別の家に午後四時に行かなければなりません。そこで何か料理を作ってもらうことを頼んでいるんです。ここでお昼を食べて、それから向こうへ行かなければなりません」。どうやって先祖たちは解放を得ることができるのでしょうか?
学者たちが博学でも、見つけることがとても難しい他のグループがいて、彼らを見つけても簡単にはやって来ません。奇妙に見えます。午前七時に結婚式を終わらせて、午前九時には先祖代々の儀式を執り行います。十時には埋葬する場所に行き、十一時に礼拝を行い、夜には結婚式を行います。その町には司祭は一人だけでした。先祖代々の儀式を行う一方で、また一方では結婚式や他の吉祥な祭事を行っているのです。音楽隊(伝統的に儀式と関連し伝統音楽と古典音楽を演奏する)が結婚式や葬式でも演奏します。それはとても一本調子です。そのような音楽隊が町には一つあります。スワミジが到着するときや結婚式や他の祭事でも同じ音で演奏します。私は他の日に彼らには何か新しいことを学ぶように言いました。「同じ音を聴くのは疲れます。これではみんな不必要に死んでしまいます。死んだ人は死んだ後もほっといてくれないために皆さんをなぐりに生き返りますよ。そして生きている人たちは皆さんの音楽を聴くことができずに死んでしまうでしょう」。彼らはそれが彼らが知って演奏しているもののすべてだと言って笑いました。その音楽は子どもが鳴いているようです。
「学者たちは誰もヴァルナのところには行かなかった。そこでヴァルナの息子が、父が行う火の礼拝に全員学者をどうにか連れていくべきだと考え、一計を案じた。息子はバラモンの格好を装い、ジャナカ王の宮廷に行き王に尋ねた。『おお、王よ、王の犠牲の火の儀式場はカラスやワシ(無能であることを示すために用いられた句)でいっぱいのようですね。カラスやワシで埋め尽くされた湖のようです。ここには人が誰もいません』。彼は学者全員を侮辱していた。『ここではハムサ(白鳥)が見えませんね。パラマハンサ(啓明を得た魂)がいません。学者は誰もいないのですか?』学者たちは皆あっけにとらわれた。自分たちがカラスやワシと呼ばれて怒りをもった。ひどく立腹し、彼らはヴァルナの息子に霊的な討論を挑んだ」
現代では、殴り合いをする人もいますが、当時はお互いに触れたりもしませんでした。お互い距離をとって座って、誰が学術性を論証をし勝つのか見るだけでした。なんと良いのでしょう?今日ではよく大ゲンカになってお互い殴り合います。それが何の役に立つのでしょうか?髪の毛を引っ張り合って歯をへし折ります。大ゲンカになります。何の得になりますか?ここではお互い触ることもせず、言論で戦います。
「ヴァルナの息子は条件をつけた。討論であなたたちが負けたなら、海で溺れ死んでもらう。私が負けたなら私を溺れさせなさい。彼は完全に傲慢だった。学者たちは侮辱に耐えることができず条件に同意した。けれども彼らはヴァルナに討論で負けた」
何とゆがんだ話でしょう。
「彼らは皆海に沈められた。するとヴァルナの召使いがやって来てヴァルナの火の礼拝に連れて行った。学者たちが海に沈められると、彼らは別の水路を通ってヴァルナの礼拝の場所に連れていかれたのだ。学者たちはいったいどんな道を通っているのかわからなかった。学者たちにヴァルナの場所に連れていかれると、ヴァルナは多大な敬意でもって彼らを扱った。ヴァルナは学者たちがいて非常に幸せだった。
学者の中でヴァルナの息子に負けた一人はカホラと呼ばれる賢人だった。カホラは青唐辛子のように短気な性格だった。彼の息子はアシュタヴァクラと言った。アシュタヴァクラがまだ母親の子宮にいるころ、彼は美しい子どもだった。父親がヴェーダを唱えるのを聴いて、詠唱の間違った発音の父親を馬鹿にした。息子はいくつかの間違いを指摘して、つけ加えた。『唱えているヴェーダは正しい文法ではありません』。息子は間違いを八回か九回指摘した。父親は怒り狂って赤ん坊がアシュタヴァクラ(アシュタ=八、ヴァクラ=欠陥)として生まれてくるように呪った。アシュタヴァクラの体には、八つの奇形があった」
体に欠陥があり歩くのが困難な人をみることがあります。そういう人たちを笑うことはできません。彼らを見ると涙が出ます。その人たちは動作をコントロールできないのです。治療で治すことはできません。この治療となると科学は負けます。何年治療しても彼らの助けにはなりません。お金の無駄です。そのような人たちを医者たちは調査して実験します。ですからもし家にアシュタヴァクラのような人がいるのでしたら彼らの面倒をみるべきです。しかし彼らを実験のために利用する医者の所に連れていってはいけません。ある人はそのように生まれてきます。その子どもたちの面倒をみることは母親にとって非常に困難です。一生のカルマなのです。
「賢人アシュタヴァクラは、父親が海で溺れ死んだことを聞いた。彼は会合にやって来て討論でヴァルナの息子を打ち負かした。そしてヴァルナの息子に海に入っていくことを命じた。するとヴァルナの息子は本当の姿を現し、先に溺れた学者たちを皆海から引き上げた。
その後、アシュタヴァクラは傲慢になった。彼は「私は偉大な学者だ。何でも知っている」と考えた。彼は学者たち全員に対して敬意を欠いていた。アシュタヴァクラのこの態度に学者たちは惨めさを感じた。彼らはおおいに悲嘆し、偉大で高徳なある女性に近づいた。学者たちはアシュタヴァクラが救ってくれたものの、今は侮辱していると感じていた。女性は王の宮廷に来て霊的な討論でアシュタヴァクラを打ち負かした。アシュタヴァクラは討論ではすべての人を打ち負かしてきた。彼は博学であった。彼は父親でさえも馬鹿にして、その結果欠陥を持って生まれた。今や彼は学者たちをも馬鹿にしている。彼はそれほどのエゴイストだった。欠陥がありながら多大な傲慢さがあった。もし健常であればどんなにさらなる傲慢さを持っていただろうか。高徳な女性は討論でアシュタヴァクラを負かした。
『かつて首に真珠のネックレスをつけた人がいました。首にあるのに気づかず彼は至るところを探しました。最後には盗まれたと考えました。それから別の人がやって来て言いました。旦那さん、真珠のネックレスは失くしてもいませんして、盗られてもいません。首にありますよ』という話を彼女は話した」
たくさんの人が腕に子どもを抱えて、至るところに自分の赤ん坊を探します。誰かが指摘してくれるまで親たちは自分の子どもが腕にいることに気づかないのです。ある人たちは手に鍵を持って、体や家や町のいたるところを探すのです。彼らは誰とでもケンカして悲しみを与えます。誰かが手に鍵があることを指摘すると恥ずかしがります。人に深い悲しみを存分に与えた後に恥ずかしがるなら誰がかまいますか?
ネックレスを持ち上げて見るまでは、その人にとってはそこには実際無いのです。自分で見て確認しなければなりません。同じように私たちは本当は自分がアートマンであることを知っていますが、私たちのアートマンを知るためには、平和な心でそうであることを分析しなければなりません。この話の教訓は、アートマンは私たちが尋ねて、熟考するまでは明かされないということです。「私がアートマンだ。これが私の形だ」。アートマンとは何でしょう?アートマンは自分自身を見ている存在です。どうやってそれができるのでしょうか?鏡で見るのでしょうか?その経験を通してでしょうか?内側を見ることができるときだけ、真理を理解できます。スワミジは若い時にはよく内側を見なさいと言っていました。内に入れば、争いも悲しみもありません。失ったものを取り戻すでしょう。失ったものは普通のものではありません。
真珠のネックレスは例にすぎません。真珠のネックレスはここにあります。失くしてはいません。その覆いを取り除けばアートマンを見るでしょう。欲望とマインドからの考えを取り除けば、アートマンは自ずと明らかになります。多くの考えや欲望が心にあります。それを取り除くべきです。その幻想を取り除くべきです。熟考がより深くなり、心に広がる表面的な思考を除いたときだけアートマンの真理をを認識することができます。このような熟考によって可視化されないアートマンを認識することができます。そのように言って高徳な女性は消えていなくなりました。これは話の中の話です。
「おお、パラシュラーマよ、ジャナカは俗世の仕事に夢中になっていたが、真我認識を達成することができた。アシュタヴァクラは霊的知識があり討論に勝ったが、自分自身には勝てなかった。真我実現はできなかった。その後高徳な女性の祝福で彼は真我実現を達成した。どんな道を選ぼうと、瞑想だろうと、信愛の道だろうと、ヨーガだろうと、奉仕(カルマ)だろうと、真我実現のゴールに焦点を合わせて常に観照的であるべきである」
シャンカラ・バガヴァッドパーダは言いました。
Yoga ratova, bhoga ratova, sanga ratova, sanga viheenaha, yasya brahmani ramate chittam Nandati nandatyeva…
「禁欲的だろうが、楽しみに没頭していようが、孤独だろうが、人と一緒にいようが、心がアートマンをしっかり熟考し、アートマンの中に安定したときにだけ、アートマンを経験することができる」
そのときまでは経験することはできません。何らかの活動をしたり、カルマに従ったりすることができますが、そうしながら自分がアートマンであると言い続けなさい。真珠のネックレスや子どもや鍵を探すように、あなたのアートマンがどこにあるのか聞かないようにしなさい。それはあなたの中にあります。幻想で覆われています。幻惑を取り除くのです。どんな活動に携わってもアートマ・ジニャーナ(真我の知識)を経験して、至福を経験し続けなさい。
古代の賢者たちは一人で笑っていました。人は彼らを愚かな人と考えます。そうではありません。彼らは自己と対話しているのです。通常の人のように生きながら、自己と対話しています。彼らは私たちに答えてくれますし、話を聞いてくれますし、話すこともできますし、元気そうです。ですが突然、奇妙なことをやって、それから普通になります。スワミジに話しかけるなら、普通に答えます。しかしスワミジはアートマ・ジニャーナに固定していて、至福に満ちています。スワミジはあなたの中のアートマンも見ています。皆さんが話しかけるとき、あなたの中のアートマンを見ます。あなたの中の至福を見ます。あなたを通して至福を経験します。あなたを利用しているわけではありません。スワミジの近くに来ることであなたはアートマを経験しているのです。あなたはスワミジに溶け込みます。こうするときに意識が輝いて、スワミジは至福を経験し、あなたも経験します。そのためスワミジを見るときに何もかも忘れたように感じるのです。とても良い気持ちでリラックスします。「どんなことがあっても、今朝質問しようと決めたのですが、スワミジの顔を見たら、何かが起きて質問を忘れてしまったのです」怖くはないのです、恐れる必要がありません。それは皆さんがスワミジの至福に溶け込んだということです。スワミジの光があなたに振り落とされたのです。汚れのない、水晶の澄んだ純粋な光と至福があなたに落とされたのです。そこに不純なものは一切ありません。
スワミジは言ってきたことを忘れてきています。私が何も言わない理由はそれです。さもなければ、皆さんはスワミジは忘れっぽいと思ってしまいます。スワミジに「スワミジは多分お忘れになったのでしょう。私が来ると言いましたよ」と言います。すると私は「言ったかね?多分言ったのでしょう」と言います。皆さんよりもスワミジはドラマを演じます。見て見なさい。スワミジはいたずら心に言います。「おお、これは初めて見ました」。スワミジはそれについて全てを知っているとは言いません。その人たちは捧げた物について説明すると高揚するのです。幸せになってもらいたいのです。スワミジに何か持ってきてとても高揚してその物について話します。長いことそれを持っていて、修理して、引退させて、使えなくなったときは捨てます。スワミジにお持ちしましたと言ってそういった物を持って来ます。「そうですか?とても嬉しいです」私に説明する彼らの幸せと、私が驚いているのを見て彼らが興奮するのを見て、私は経験しています。それ自体が神です。すぐに「行きなさい、十年前にも見ています」ということもできるのです。その人たちの傷つきやすい心はどうなってしまうでしょう?もちろん、大人ではありますが、心は小さく傷つきやすいのです。スワミジが言ったことにがっかりしてしまうでしょう。心が悲しくなってしまうでしょう。ですから二分間を無駄にしてもいいのです。私が「おお、とてもいいですね。このメロディを初めて聴きました」スワミジのために演奏した音を考えてミュージシャンはとても幸せです。サンギータ・セヴァ(音楽の奉納)を捧げる幸運で私を祝福してくださいました。彼らと二分間幸せを共有したところで私は何を失うでしょうか?ただ彼らの幸せを見たいのです。とても良いものです。同様に彼らもスワミジが幸せなのを見てとても気分が良いのです。両方が幸せを経験しています。それがアートマ・バヴァナです。それは魂の至福以外何ものでもありません。このことと違うものではありません。小さい例を挙げました。これが奉仕が何たるものなのかです。
ヴェーダーンダの学者たちがここに来て、ここで討論を行います。私は初めてかのように聴いています。私は「とても素晴らしい」と彼らに言います。彼らは「スワミジ、あなたは全てすでにご存じです」と最後には言います。いいのですと言います。彼らをけなすことはしません。誰もけなしてはいけません。人の感情を傷つけてはいけません。小さい子どもが歌いに来たら、聴いて評価しなければなりません。昔子どもが首が長いハヌマーンを描いてもって来ました。私は見てとてもいいねと言いました。「ハヌマーンは空に届くために形を大きくしたときこんな風に見えたよね」と言います。子どもはとても嬉しがります。「お母さん、スワミジがハヌマーンの首はこれみたいに、ここからヴァイクンタに行かなければならないときみたいに、伸びたと言ってた。描いているときにそう考えていたんだよ、お母さん」。彼は小さなナイーブな心でそう考えたのかもしれません。もし代わりに「これは何だ、サルみたいだ」と言ったら、子どもはどんなに傷ついてしまうでしょう?神だけが子どもがどれほど傷ついてしまうか知っています。時間がない時でも、飛行機に乗ろうとする時でも、評価する時間を取ります。聞いていようが、いまいが、神のみぞ知るですが、私は評価してまた会後で会うことを言います。それで十分です。応えて彼らは長いemailを送ってきます。
会って経験する幸せは表現できるものではありません。かつて映画のビッグスターが来ました。プラサードが説明するまで私は彼が映画のスターだと知りませんでした。私は空港で待っていました。目を閉じて座っていました。彼は他の人に静かにするように言っていました。「静かにいてください、彼は偉大なヨーギです。目を閉じて座っておられます。」私自身は目を閉じていたのか寝ていたのかどうかはわかりません。一晩中寝ていなかったので、多分寝ていたのかもしれません。眠ろうとしている人は雑音を聞こえないようにして、アイマスクをしますが、スワミジは窓に向かって座っていました。そのため彼は私が瞑想していると思ったのです。彼自身は自発的に行動して、子どもたちに皆静かにするように言ったのです。誰かが彼のところに話しかけに来たときに彼はどうも怒鳴ったようです。ゆっくりと彼は私のところに来ました。二分間彼と話しました。彼はとても幸せでした。何という名前ですか?ハリソン・フォード。車ですか?彼は映画のビッグスターです。彼はマイソールのアシュラムに来ますと言いました。私に絶対に会いに行きますと言いました。どの転生で彼が会いにくるかはわかりません、この転生かもしれませんが何とも言えません。今日の世界の有名俳優の一人です。
そのため、アートマ・タットヴァ(アートマンの本質)をより理解するためには、サッドグルに避難所を求めなさい。サッドグルの教えに従い、アートマ・タットヴァをより理解しなさい。サッドグルの恩寵を求めなさい。マスターに従いなさい。真我認識に到達しなさい。トリプラ・デーヴィの恩寵で永遠の幸せに到達するために、何度も何度も祝福します。ジェイ・グル・ダッタ
何時ですか?午後10時?いいでしょう。休憩までもう少しあります。
Bhajan: Vani Vani
シュリ・グル・ダッタ