グル・ギーター序文
更新日 : 2020.5.14
カテゴリー : グル・ギーター
サーダカ(霊性の志向者)への教え
無数の願望と欲望が人間にはあります。それらをよく分析するならば、ほとんどが三つの項目に分類されます。
1. その人が、いつも、どこでも優れているべきというもの
2. その人が、すべての知識を所有しているべきというもの
3. その人が、常に幸せで楽しくあるべきというもの
何かの願望を選んで、それを観察してください。上記の三つのどれかに属しているということがわかるでしょう。歴史を紐解いていくと、あらゆる存在の不安と苦悩の隅から隅までが、これらの欲望を実現したいがためであるということが見えてきます。したがって、これらは「基本願望」と呼ばれます。しかし、この願望すべてを達成した人がどこかに存在したのでしょうか。「そうした人たちは存在していた」と大胆に勇気をもって言うために、古代における苦行の伝統についての知識をもつ必要があります。果てしなくさまざまな方法で広がっている私たちの長い伝統の目的は、まさにそれなのです。次に、インドの賢者や聖者たちは、世界中の他のすべての人たちがひどく失敗しているのに関わらず、どうやってそれを獲得したのかという疑問が生まれます。答えは、霊的な教師による指導という、敬意をうけるべき不朽の体系にあります。
インドにおいては子どもたちさえも、「ダルマ(法・正義)」にしたがって「グル(教師)」という言葉を知っています。子どもが母親や父親について知っているのは、単純で自然なことです。しかし奇妙なことに、経典を学び、日々礼拝を実践している人ですら、「グル」が何かを完全には理解していません。宇宙の母について知らないほうが、まだ驚きません!それなら誰が説明をしてくれるのでしょうか? 絶対者の直接的イメージである主シヴァだけが、慈悲の顕れによってそれをすることができます。それが『グル・ギーター』です。
自然を観察し、歴史を学び、それらを熟考し、そして獲得した知識について満足するというのが人間の性質です。しかしそれと同時に、自分が十分には学んでいないと思って、残念になって落ち込みもします。この不満の影がずっと人間につきまとっています。科学が広がり、さまざまな分野における知識が進歩しているのにかかわらず、必ずこの影が人生の希望の光にさしかかります。つまり、この方法によっては、不満を取り去ることができないのです。
教師とは、この不満から私たちを解放し、影のない光の至福にみちたヴィジョンを持たせ、内と外、生と死という二重性を超える認識を可能にさせ、また、私たちの内部へと進む道を照らす存在です。私たちの(カルマの)果報が実り、彼の弟子として受けいれられたとき、私たちは真の教師を得ます。この教師は私たちが困難な道を進んでゴールに達することを可能にします。そうでなければ知性が発達し世間の経験を持った私たちにそれは不可能です。「グル」を持たない人たちは、先に述べた純粋な光を見ることができず、基本願望を満たすことができません。そのため、人生に真のグルが登場することは、大いなる果報であり、前世での良い行いの必然的な結果なのです。
秘教的な力と知識を信じる人々は、さまざまな方法で実践を続けます。インドにおいてそれは大多数の流行です。彼らはバクティ(信愛)、ヨーガ、ジャパ(詠唱)、さまざまな方法で、「サークシャートカール(神聖な人と会うこと)」を得ようと努めています。そしてこれらの多くの道はインドの伝統においてシヴァ派、ヴィシュヌ派、シャクティ派など多くの主義を生み出し、現在のように数えきれない伝統が存在するようになりました。ある主義の別の主義に対する敵対の歴史があります。あまりにもの違いによって、人は自分と他者は無関係だとみなしています。
このような多様性と違いにも関らず、「グルのイニシエーション」のない伝統が一つとしてあるでしょうか?それだけはありません。日々のアヌシュターン(礼拝)、マントラーヌシュタン、儀式、宗教的催しにおいて、「グル」を瞑想しない伝統があるでしょうか?私たちはきっぱりと「否」と言います。
現在の民族の弱まった状況では、それを理解することは難しくなっています。しかし、シヴァ、ヴィシュヌ、あるいはデーヴィの礼拝を授かったと自身をみなす人々、ヨーギ、ジニャーニ(知識を持つ者)と自身をみなす人々は、本来グルの礼拝者です。シヴァ、ヴィシュヌ、デーヴィの礼拝、ヨーガの実践、ヤーギャ(儀式)の遂行という言葉は、「グル・ウパーサナ(グルの礼拝)」に他なりません。
「サダー・シヴァ・サマラームバーム」、「ナーラーヤナ・サマラームバーム」という始まりともに、自分たちの「グル」の系譜を称賛して歌わない伝統はありません。すべての神・女神のストートラ(詩句)において、神・女神を「グル・ルーパ(グルの顕れ)」として語らないものはありません。「ヴェーダ」のすべての詠唱は「シュリ・グルビョー・ナマハ」と始まります。
このようにすべての礼拝の方法において「グル」が祈願され、他の神々の化身は「グル」と一つになっているのです。そのため宇宙の母パールヴァティ・デーヴィ自らがパラメーシュワラ(シヴァ)に尋ねました。「グルとは何でしょう?グルをどのように礼拝するのですか?」と。カイラーシャという彼らの天上の住まいで、すべてのサーダカ(霊的志向者)とマハリシ(聖仙)のための善という目的のために、原初の男女であるパールヴァティとパラメーシュワラによる会話が、七人の偉大なリシ(聖者)たちの臨在のもとで確証されたのです。
しかし、最初に「グル」の伝統とその知識を人間の世界に広めたのは、私たちのダッタートレーヤ・スワミであり、そのため彼は「パラマ・グル(至高の教師)」となりました。彼は「グル・マールガ・プラヴァルタカ(グルの道の創始者)」として知られています。その後、バガヴァーン・ヴィヤーサが諸プラーナ文献と、彼の『スカンダ・プラーナ』におけるシヴァとパールヴァティによる討論によって、同じものを広めました。さらにその後、六つの宗派の設立者であるシュリ・シャンカラチャリヤが「グル」の栄光を、真実の光のなかに解釈して、人類にそれを教えました。
このすばらしい「グル」の伝統は、人類の基本願望を叶えるために設立されたのであり、それは唯一のものなので、それがなければ世界全体にとってその願いの実現は不可能です。言うまでもなく、それは安易なものではありません。「グル」に近づく方法は何か?奉仕する方法は何か?喜ばせる方法は?「グル」を瞑想する方法は?どのように礼拝するのか?これら全てはいくつかの条件、献身、決意、ハードワークによってかたどられています。本書籍は、これらの詳細の総計をつづったものです。常に警戒を怠らず、注意していなければ、「グル」の恩寵を得ることはできません。『グル・ギーター』において、主シャンカラ(シヴァ)は、母なるパールヴァティに、「グル」の礼拝についての手がかりを何も隠さずにすべて明かしています。
グルを選んだならば、まず彼に奉仕する必要が生まれます。しかし実際は、あなたは自分自身で「グル」を選ぶことはできません。というのは、あなたは、誰が「ジニャーニ(英知を持つ人)」であり、そうでないかを見分けることができないからです。
初等科を勉強している生徒が自分ではわからないので、教師に百の位のかけ算の表についてわかるかどうか尋ねたとします。その教師は「もちろんわかる」と答え、それをすらすらと話します。しかし、その生徒はそれが正しいかどうかわからないので、近くにいる親切な人に「これで合っていますか?」と聞きます。その親切な人は、「完全に正しい」と答えます。すると次にその生徒は、その親切な人がちゃんとわかっているのかどうかという疑いにとりつかれます。かわいそうな生徒はそれを知ることができません。彼は虚偽を恐れて他者を信じることができないのです。では、どうしたら、この少年は教師の力を知ることができるでしょうか?
その少年のわずかな知識では、多くのテストをしても教師の知識を見積もることはできません。しかし、かけ算の表を言うことができる教師の能力に加えて、彼の安定した人格の実演、他者による彼についての保証、そしてその教師が生徒に降り注ぐ愛が、だんだんとその少年に影響を与え、その教師を信じ始めます。この「信」によって、生徒はよく学ぶことができるようになり、数学の専門家になっていき、彼の教師が百の段のかけ算だけでなく、数学全体の知識についても知っているのだと理解していきます。そして、彼は子どもの頃に大きな問題だと考えていた百の位のかけ算は、実はとるに足らないものであったということにも気づいていきます。
霊性の道においても同様であり、私たちは自分自身では「グル」の選択について、認識し、決定することができません。少年の話のように、教師の能力についてのいくつかの証拠と、経験豊富な「サーダカ(霊性修行者)」の助言を得た後で、人は彼らの「グル」を選びます。しかし、ここで再び問題が起きます。いわゆる「グル」の魔術、奇跡、壮麗さ、富、雄弁、人気によって、人は間違いを犯し、欺かれてしまいます。では、何が正しい証拠なのでしょうか?
この疑問に答える前に、なぜ人は「グル」を持つことが必要だと思うのか考えていきましょう。それは、三つの基本願望を満たす、陰りのない光を見るためです。まず初めに、あなたはそのことについて不安を感じます。そして、衝動に駆られて偉大な人を訪れると、あなたの心は自分では理解できない平安を感じます。その人がいると、努力することなしにすべての心配を忘れることができます。そのことが、すべての問題が彼によって解決されるだろうという自信と勇気をもたらします。そして、それらのすべて以上に、その人物への愛、好意、そして彼はあなたのものであるという感覚がふと心に浮かんできます。そのような場所は、あなたの「グル」の確固とした場所になることができます。このように、真の「グル」は実際にあなたのところにやって来るのです。彼はあなたの知識が不足しているために、彼を認知することができないのを知っているがために、そのようにしてやって来ます。では、彼がそのようにやって来るのだと考えているだけでいいのでしょうか?あなたの側では何も努力は必要なく、自己満足していていいのでしょうか?そうではありません。最高度の慈悲である本初の「グル」は、弟子のために、無限の方法でさまざまな姿と形を取るからです。彼はあなたのためになる形であなたの周囲を動きまわっているのですが、あなたが必要な資格を得るまで、自分が「グル」であると宣言しません。
先に述べた「衝動」が真の資格です。衝動を持ち、不安を感じているとき、あなたには「このまま不注意でいいのだろうか?」という疑問はありません。仮に答えが「イエス」だったとしても、あなたはそのままでいることはできません。その衝動に駆り立てられて、あなたは熱心に自分の「グル」を探し求めているでしょう。その探求があなたの義務であり、あなたが相応しいかどうかの試金石です。その試金石たる資質がいったん認められると、「グル」は自身をあなたに現します。
いまや私たちは自由になり、すべての問題は解決されたことになるのでしょうか?そのときから、その真の教師があなたに関する責任をすべて引き受けるのでしょうか?もしあなたがそう考えるなら、完全に間違っていることになります。あなたは大きな一段を踏み出したどころか、上に登ってさえいません。あなたは、刃先の上にいて、簡単にそこからすべり落ちます。
今までは、あなたに生じた霊的な衝動が、動揺した心を静めていました。あなたのさまざまな思考は静止しています。あなたの感覚は強められ、大胆になっています。これらの恩恵はすべて「グル」を得たことによります。しかし心が恐怖から解放されたことによって、感覚の統御が去っていってしまうのです。その結果、抑圧されていた世俗的・物質的な欲望が再び渦を巻くようになります。あなたは「グル」に接近した当初の目的を忘れ、彼を通して世俗的な望みを叶えるという思いを楽しむようになります。
真の教師に出会うという良い果報をもっているにも関わらず、その段階から転げ落ちていく人がたくさんいます。そのうえ、これからは「グル」が私たちに課す諸々のテストも始まるのです。
「グル」の臨在のもと、心の平安と幸福を経験したにもかかわらず、もう彼を得てしまったのだし、家族の問題が増えていると考えて、彼を捨ててしまう人々がいます。「グル」が私たちに課すテストの厳しさは、『ダッタ・プラーナ』の「ディーパック」のエピソードで描かれています。同様の例が『マハーバーラタ』の「アルニ」のエピソードです。ディーパックと違って、多くの人が堕落してグルのテストに失敗し、より良い「グル」に乗り換えることを常に考えるようになります。もしそのような考えを楽しむようになったなら、それは失墜の最高水準です。
ここで、スワミジは警告します。もしあなたが多くの間違いを犯したとしても、「グル」はそれら全てに忍耐します。しかしあなたが自分の「グル」を変えようと考えるなら、残りの人生で「グル」を得ることはけっしてありません。あなたはグルを決める前に、十回も、百回もよく考えるべきです。スワミジはあなたの「グル」の決定のためにいくつかのヒントを与えています。それだけではありません。あなたは弟子になる前にいくつかのテストを彼にするかもしれません。急ぐ必要はありません。そのすべてのテストの後に、「彼は私のグルである」とあなた自身で決定し宣言するのです。しかし注意深く決断した後は、もう後戻りする権利を持ちません。あなたが決断するまでは、彼はあなたを弟子として受け入れないでしょう。いったん受け入れられたなら、彼はあなたを去りません。あなたが望まなかったとしても、彼はあなたについていき、あなたを守ります。
『ダッタ・プラーナ』にある「バドラシーラ」の話はこのことを証明しています。彼は私の「グル」ではありませんと言い、また一方でほかの「グル」を求めようとするなら、あなたは両方からの呪いから逃げることはできません。デーヴェーンドラ(インドラ)の話はこれを証明しています。
「アシュワメーダ・ヤーギャ」を百回行うだけでなく、偉大な苦行を行う人はインドラの座に到達するでしょう。美徳がある限りは、彼の力はインドラとして存続します。ですがそのような栄光ある段階に到達した後であっても、多くの間違いをして、その結果、罪の宣告に苦しむ人が多くいます。かつてインドラにはブリハスパティ(神々のグル)という真の教師がいました。そして彼の導きで悪魔たちを鎮圧し、もっとも栄光ある形で王国を統治し続けていました。彼はしばらくの間、何の問題もなく三界に君臨していましたが、やがて耽美的になり、豪華なものや贅沢の奴隷になりました。
インドラが神々の宮廷で「アプサラス(天女)」のダンスを楽しんでいるとき、ブリハスパティの突然の訪問がありました。しかし、ブリハスパティを見ても、デーヴェーンドラは無関心のままでした。ブリハスパティは状況を理解して帰りました。彼がどこに行ったのか知る人はいませんでした。消えてしまったのです。
インドラはブリハスパティが彼に断らずにいなくなったので怒りました。彼はブリハスパティを単なる大臣や僧侶として扱い始め、「グル」としての彼を完全に無視していました。その結果デーヴェーンドラの美徳は消えさってしまいました。悪魔たちは、この有利な状況を捉えて、インドラの天界への襲撃を増やしました。やがて彼は敗北を重ねるようになりました。
その後、インドラは、ブリハスパティよりも優れた学者が彼の「グル」になり、宮廷の僧侶になるということを誇らしげに宣言し、別の「グル」を探し始めました。これは彼の地位から来るエゴの結果でした。
その時代、トワシュタと呼ばれる「プラジャーパティ(生類の祖)」は自身の判断で、「ラチャナ」と名付けられた未婚の悪魔と結婚しました。彼らは「ルーパ」と「ヴィシュワルーパ」という二人の素晴らしい息子を授かりました。まずはルーパがインドラの『グル』になるよう要請されました。しかしルーパは彼に「グル」を変えるべきではありませんと忠告しました。インドラはその後、前者の忠告を無視して、ヴィシュワルーパに話を持ちかけました。
ヴィシュワルーパは奇妙な性質をもっていました。彼は三つの頭を持ち、いつも一つの口で肉を食べ、一つの口で酒を飲み、一つの口で「ヴェーダ」を絶えず唱えていました。この象徴的な意義は、みなさんの想像力に任せます。
ヴィシュワルーパは神々の「グル」になる稀な機会に喜びました。彼はインドラの僧侶になり、たくさんの「ヤーギャ(儀式)」を行いました。彼はその「ヤーギャ」においてシュリ・ダッタートレーヤ・スワミに祈願し、インドラがシュリ・ダッタートレーヤの祝福をもらえるように取り計らいました。また、インドラにもっとも効き目があり、強力な「ナーラーヤナ・カバチャ」という、保護を確実にするマントラを教えました。
だんだんと勝利の女神がその恩寵をインドラに授けるようになりました。ヴィシュワルーパは「ヤーギャ」を行い続けました。
ヴィシュワルーパは彼の母親を非常に愛していました。その母親は自分の両親や親類が非常に好きでした。ヴィシュワルーパは母の依頼により、「ヤーギャ」の捧げものの一部を秘密裏に悪魔たちに捧げていました。
ヴィシュワルーパは神々による「ヤーギャ」を執り行うようになりました。彼の名声は増しました。悪魔たちからの名声も、秘密の捧げもののおかげで最高潮に達しました。インドラは彼の人気が上がるのをおもしろく思っていませんでした。しかしその秘密には気づいていませんでした。ある日、彼はその秘密を聖賢ナーラダを介して知ることになりました。腹を立てたデーヴェーンドラはヴィシュワルーパの三つの頭を切り落としてしまいました。
自分の「グル」であり、「ブラフミン」を殺した罪は、その後ずっとデーヴェーンドラにつきまとい始めました。しかし彼は気にしませんでした。一方で、悪魔のヴリトラーシュラが、彼への攻勢を強めていました。インドラには「グル」の助けがなかったため、抵抗できませんでした。それでもなんとか攻撃にもちこたえ、聖賢ダディーチの慈悲によって彼は「ヴァジュラーユッダ(強力なミサイル)」を得て、ヴリトラーシュラを殺しました。
インドラはヴリトラーシュラを殺しましたが、また別の「ブラフミン」を殺した罪が前の罪に加えられました。彼は「グル」の強さを欠いていたので、無恐怖のままではいられませんでした。罪の恐怖によって天国から去り、湖の蓮の茎のなかに隠れたのです。彼はそこに一万年も留まり、その間ナフシャが彼の座に就きました。インドラは湖に隠れながら神々や女神の栄光を歌い、そうして『インドラ・カヴァチャ』『ラクシュミー・ストゥティ』『ダッタ・ストゥティ』が生まれたと言われています。
以前にヴィシュワルーパが祭司を務めインドラが行っていた儀式の主宰神は、ほとんどがダッタ・スワミだったので、賛美の歌に喜んだダッタ・スワミが、湖のインドラの前に姿を現し、次のように忠告しました。
「おお、デーヴェーンドラよ、『サッドグル』ブリハスパティを無視し、拒絶したことがあなたの転落の唯一の原因だ。あなたはプライドと傲慢さで盲目になっていた。自分の『グル』を捨てた人は、あなたのようにほかの『グル』に何度も近づいて『グル』を獲得しても、転落に苦しまなければならない。あなたは今、私に祈りを捧げている。私に近づいても、転落から逃れることはできない。したがって、しっかりとした信愛をもち、『サッドグル』であるブリハスパティを瞑想して、彼の慈悲を得よ。彼はあなたの罪を清め、あなたを引き上げるだろう」
インドラは真実を学んで、ブリハスパティを瞑想し始めました。そしてダッタ・スワミが彼の心の中でブリハスパティを思うと、ブリハスパティが彼の前に現われました。
インドラは、ブリハスパティがとこかへ逃げて、隠れてしまったのだと誤解していました。ですが本当は、彼はどこにも行っていなかったのです。彼は遍在です。それが「グル」の伝統・哲学の秘密です。その秘密を知っていたダッタ・スワミがブリハスパティを呼ぶと、彼はダッタ・スワミのすぐ目の前に存在していました。
インドラの後悔と、「カルマ(業)」の経験と、瞑想的な過程、そしてブリハスパティの恩寵で、彼の罪は洗い流されました。彼に当初の栄光が戻りました。
デーヴェーンドラのような偉大な存在の場合でも、そのようなことが起きるのですから、私たちについてはどう言えるでしょうか!
ダッタ・スワミの化身の一人、ナラシンハ・サラスワティの時代に、同様の事件が起きました。
「グル」が非常に怒っていると感じ、ある修行者が自分の「グル」を捨て、ナラシンハ・サラスワティに近づきました。ナラシンハ・サラスワティはその修行者の思慮を欠く行動を叱責して、「グル」とはどういうものかを教え、「グル」のテストの秘密を明かしました。遂にはその修行者は元の「グル」に返されました。
トリサンクの話はこのタイプの別の例です。
どんな状況下でも「グル」を変えるべきではありません。ですから二、三人の「グル」という質問はありえません。
ですが、あなたの「グル」ではなかった人は偉大ではないのでしょうか?奉仕されるべきではないのでしょうか?
すべての偉大な魂は尊敬されるべできあり、もし必要になるならば、彼らに奉仕すべきです。しかし、彼らを自分たちの「グル」として扱うべきではありません。あなたの「サーダナ(実践)」はあなたのものです。自分の「グル」が教えることは、あなたのための実践の道です。ほかのグルの教えが、自分の「グル」が示した道に沿ったものであれば、受け入れられるかもしれません。そのため自然のもっとも小さな欠片も「サーダカ」にとって「グル」です。『ダッタ・プラーナ』によれば、アヴァドゥータ(自己の力で出現した神人)には二十四の「グル」がいます。ほかの人の教えがあなたの道と性質が同じものでないならば、違う道だと理解して無視すべきです。それだけではありません。自分の弟子たちを彼らに合う別の道に手ほどきして決断するのは「グル」です。ですから「グル」が指示した実践の線やコースは絶対的に従うべきものです。
あなたが素晴らしい人びとに出くわすときはいつでも、「グル」が彼らの形をして来られたのだと考えて、彼らに奉仕するべきです。ですがその人を自分の「グル」としてはいけません。
「サッドグル」が無常の世を去るとき、またはヒマラヤの洞窟のようなはるかかなたの場所に去るとき、かなりの長い期間、離れるとき、または別の教師のところに行くように指示するときは、あなたは別の「グル」に近づいて自分の「グル」とすることができます。それ以外はありません。これは聖典が述べていることであり、敬われている伝統です。
自分たちの「グル」がそこにいるとき、ほかのグルに対しては敬意を払うだけで、その提言やイニシエーション、「ヤントラ(種子図)」をもらったりするべきではありません。犠牲や占星学的予言、手相、ヴァースツ(建築のルールを定めた科学)の名のもとに彼らを追いかけるべきではありません。
ダッタ・スワミは当時、これらすべてをデーヴェーンドラに教えました。
ある人たちはほかの質問を出します。すなわち「グル」の伝統は「シヴァ派」または「ヴィシュヌ派」のどちらにより近いものかどうかというものです。実は、この答えはこの話し合いの中にすでに出ています。
この『グル・ギータ』のなかで、「シヴァ―ヤ・グラヴェー・ナマハ(グルであるシヴァに礼拝します)」と言及しており、それゆえある人は「シヴァ派」により近いと考えます。しかしこの書籍の第百四十一の「シュローカ(詩節)」のなかで、「クリシュナーヤ・クレーシャハーリネー(悲しみの絶滅者・破壊者のクリシュナ)」ともそこにあります。
この『ギータ』の教える機会は、母なるパールヴァティの質問から生じました。ですからこれは「シャクティ派」とも言えます。一体全体どうなっているのでしょう?シュローカの第一三一を参照してください。この疑問すべては消えてしまいます。
またシヴァはなぜ、この書籍でいくつもの箇所で「グル」として示されるのでしょうか?第一の理由はこれがパールヴァティへの教えということです。女性にとって、彼女たちの夫は主たる「グル」です。その夫が手ほどきする器がないとき、二人とも同じ「グル」に近づくべきです。それからも、「グル」は夫を通して妻を祝福します。それはこの伝統を示していますが、パールヴァティの夫であるシヴァは彼女の「グル」でした。
ほかにも理由があります。「グル」はたやすくも喜んで恩恵を授ける人です。これは、「グル」と同じような速さで恩寵を授けるほかの神や女神はいないことを意味します。そのためかれは「ボーラ・シャンカラ(簡単に喜ぶシャンカラ)」と呼ばれるのです。このため、「グル」はシヴァにたとえられます。
まだほかにもあります。絶対知識は、イリュージョンの対立の結果として「プラクリティ」と「プルシャ」を装いました。それから徐々に「サットヴァ」、「ラジャス」、「タマス」の三つの属性が形成されました。それからナーマとルーパ(名前と形)からなる宇宙が生じました。その宇宙の中にシヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマ、デーヴィなどの名前と、創造―維持―破壊としての活動がありました。
ブラフマーが創造を始めました。彼は「ラジョグナ(ラジャスの属性)」をまとった聖なる人です。彼は自分の創造のなかで、「タモグナ」に身を落とした存在を見ました。宇宙の主である彼は自分の子どもたちをこの惨めな状態から救いたいと心配しました。彼は熟考し、前述の三つの属性を超えた絶対性だけがこのひどい状態を正しい状態にできると理解しました。そして彼は息子の聖賢アトリと、自身の影である息子カルダマ・プラジャーパティを自らのマインドで産み出しました。
その霊感の結果はアナスーヤとアトリの結婚であり、シュリ・ダッタの化身、神の三位一体の権化としての「サッドグル」の出現でした。
「グル」の伝統は、原初の三属性を超えた古来の霊性から生じ、「ダッタアヴァターラ」の物語はこの証となるものです。したがって、それはすべての伝統により近く、同時にどんなものからも離れていないのです。
そのようにダッタ・スワミは、「グル」の伝統のすべての分岐の根源にいます。ですから「グル」に祈る人たちは、
「グルルブラフマー、グルルヴィシュヌフ、グルルデーヴォー、マヘーシュワラハ」
と言います。そのため、シュリ・ダッタ「サッドグル」を知ってか知らずしてか瞑想しているのです。
これらの哲学的な言葉を聴いていると、ある人たちは、人生で欲望から解放され、また世捨て人になりたいと願うときだけ、「グル」を探すことに努力すべきであり、その前ではないのだろうという疑問が生れるかもしれません。
それは間違いです。一本のキノコの成長のように、基本願望は何千万という欲望を生み出しますが、その基本願望を満たすことを目的として、これまで私たちは討議を進めてきました。
「サッドグルムールティ」によって莫大な物質的果報を得たカールタヴィリアールジュナよりもいい例がほしいですか?彼よりももっと例が必要ですか?
他のどんな神格を礼拝しても見られない、「グル」を礼拝することのさらなる利益があります。
他の礼拝ではあなたが願ったものだけを得ます。「グル」の礼拝では、欲しいものだけではなく、あなたが期待する以上のものを得ます。あなたが望まなくても霊的変容が与えられます。そのように、皇帝の地位を望んで「グル」に近づいたカールタヴィリャは、「サーユジュヤ(融合)」の段階まで上昇することができました。
皆さんの物質的願いが満たされる一方で、マインドの扉を開く、皆さんが想像もできない輝かしい世界を見れるように願って、スワミジはこのもっとも秘密の『グル・ギータ』を教えます。単に教えるだけではなく、そこに隠された秘密も説明します。
この教えが果報を受けるのにふさわしくない人に与えられることはなく、ダッタ・スワミがあなたのスワミジを通して受ける価値がある人に講話の中で教えるということが、「シヴァ・グル」の法則です。みなさんはシュリ・ダッタのこの恩寵をよく活用して、解放に達しなければなりません。
ある帰依者たちが、「サーダカ(実践者たち)」に大きな恩恵があることを見て、書籍という形で、この解説つきの講話を出版しました。それはダッタ「サッドグル」への奉仕でもあります。
あなたたちの望みがかない、至福を経験して恩恵がありますように!
シュリ・ダッタの名を唱えながら、
あなたのスワミジ