言葉と教え

ダッタ・スタヴァの唱え方(第六詩句)

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Śoṣaṇaṃ pāpa pankasya deepanaṃ jnāna tejasaḥ
Tāpa-praśamanaṃ vande smaṛtrgāmi sano’vatu
ショーシャナン・パーパ・パンカスヤ・ディーパナン・ジュニャーナ・テージャサハ
ターパ・プラシャマナン・ヴァンデー・スマルトルガーミ・サノーヴァトゥ

信奉者たちの困難を洗い流す主の方法がこの句で詳しく述べられています。
地上の全ての存在は困難/苦難に直面します。金持ち、賢い人、強い人、医者、弁護士—誰もが人生における問題を抱えています。医者でさえも健康問題にぶつかり、金持ちにも金銭問題があります。そもそも問題とはどうして生まれるのでしょうか?それは以前のカルマの結果です。以前のカルマとは何でしょう?昔の行為は以前のカルマと呼ばれます。もし前の日にだめになった/ジャンクな食べ物を食べたら、次の日に苦しみます。この前日そのものが以前の転生(ジャンマ)です。

罪とは人間を取り囲む深い沼のようなもので、人はその中で沈み続けています。状況に応じて人は様々な問題を経験します。年長者たちが「ダーリドリャ・ドーシェ・ナ・カローティ・パーパム、パーパーットゥ・ダーリドゥルヤ・プナレーヴァ・パーパン dāridrya dośe na karoti pāpam, pāpāt daridraḥ punareva pāpaṃ」と言うのはこのためです。その意味は「前世の行為の罪で人は絶対的な貧困に生まれてくる。貧困のためにその転生でさらに罪をおかす。さらなる罪のために、その人はまた絶対的な貧困に生まれてくる」という意味です。

それは車輪のように続きます。こうして沼から出てくることは不可能になり、その人を引きずり落とします。この沼の深さは計り知れません。はじめに嘘をついて(虚偽を行って)、その嘘を隠すためにまた人は嘘をつきます。二つ目の嘘を隠すためにまた嘘をつかなければなりません。そうやって無限のサイクルになります。それから身を守るために、賢者たちは私たちを叱責します。「パーパ・ビーティ(罪への恐れ)が推奨される治療法です。

サッドグルだけがこの罪の沼から人を救出することができます。

「ショーシャナン・パーパ・パンカスヤ」:彼は罪の沼をすべて干上がらせます。

主ダッタは彼の信奉者を引き上げるために、まずすべての罪の沼/泥沼を吸い上げます。彼は完全に干上がらせます。しかし信奉者は罰(シクシャ)から逃げることはできません。主はそれ以上沈むのを防ぎます。そこまでは主が助けます。これには全託(アートマールパナ)が必要とされます。

「ディーパナン・ジュニャーナ・テージャサハ」:彼らの中に叡智と呼ばれるランプを灯します。

罪のために人は言いようのない困難を経験します。そのような困難な時期には、慈善(ダーナム)、苦行(タパス)、ヴラタ(誓願)、プージャー(礼拝)をしようと思わなくなります。「このプージャーにどんな恩恵があるのか? これまで多くのプージャーを行ってきた。それでも問題が生じた」と彼らは主張します。そして善行を行わないために、彼らはさらに沼に滑り落ちていきます。ダーリドゥルヤ(貧困)が増します。彼らはプージャーやその他の善行を、ビジネスの観点で見ます。「これまでやってきた全てのものから何が返ってきたのか? 何もない。将来何を期待できるのか? 誰も助けてくれない。このプージャーも我々の問題を解決はしてはくれない」と考えます。

このようにして、私たちの中にいるダーリドゥルヤ・シャニ(貧困の土星)、ラーフ-ケートゥ(月の交点)が、その人たちをダルマの道を歩むことを許しません(訳注※ 土星、ラーフ、ケートゥは占星学において困難をもたらすとされる)。彼らは沼の中に沈んでいきます。さらにそのような人は神やグル、生を与えてくれた両親も呪います。「どうしてお母さんは私を産んだんだ?この不幸な家系に生まれたのは不運だ」と呪います。自分自身も惜しみません。「なんて無駄な誕生なんだ!こうやって生きるより死んだ方がました。この世界は何を与えてくれた?何もない。だから今日からボットゥ(ビンディ)もつけない。どの神の前でも頭を下げない。」そう人は嘆いて、欲求不満のうちに、ヴァイラーギャ(無執着)を得たように振舞うのです。さらに落ちていくことは彼らの不運です。そのような人たちは乱暴に話したり、自分たちが恵まれないものを楽しんでいるような人に会うと、腹の中は憎しみと嫉妬でいっぱいになります。病気の人は、自分が禁じられている甘い好物を食べている人を見ると嫉妬します。年を取った人は若い人が人生を謳歌するのを嫉妬します。これがダーリドゥルヤと呼ばれるものです。ダーリドゥルヤは金がないことではありません。正しい識別を欠いていることが真のダーリドゥルヤ(貧困)です。

そのような困難なときにこそ、本当は神とともに過ごす時間を増やすべきです。プージャーを多くやったり寺院を頻繁に訪れるべきです。なぜ『ガルダ・プラーナ』は人が亡くなったときに読誦されるのでしょう? 遺体が安置される場所は寺院です。パラマートマはその肉体を去ります。神聖な空気がそこに生まれます。愛する人たちを健全な態度にするために、その人たちが泣いたり、神をののしったりしないように、亡くなった人に対して適切な態度をとるために『ガルダ・プラーナ』が読まれます。悲しみの時には神とともに過ごして悲しみを忘れます。そのようなときに神を呪うのは間違ったことです。「この困難によって少なくともあなたに近づきました、おお主よ」と考える方がいいのです。

意気消沈したり、落胆したり、落ち込んでいたり、問題の重さに引きずり落とされている人には、ダイヴァ・ジュニャーナ(神についての知識)が生まれるべきです。彼らにヴラタ(誓戒)やプージャー(礼拝の儀式)をするように言っても無駄です。
パラマートマ・タットヴァ(真我の原理)を彼らに教える必要があり、罪への恐れを彼らに教え込むべきです。神についての知識はそれ自体が素晴らしい輝き(マハー・テージャス)です。それは凄まじい熱です。神の光輝/熱と呼ばれるこの慈悲が人に放たれると、罪の沼はただ干上がります。主ダッタは信奉者たちを助けるためにこの方法に依存しています。そのため「ディーパナム・ジュニャーナ・テージャサハ」と言うのです。

現代のレーザー治療が皮膚を切開せずに体から石を除くように、主ダッタはこれらの罪に溺れている人の内側に神の知識と呼ばれるランプを灯します。これを通して彼は沼を干上がらせます。問題も終わります。だからそのようなときにはグルに加護を求めるべきなのです。
知識のランプが灯されると、罪は洗い流され、自動的にその人のターパトラヤ(三種の悲惨)は破壊されます。

「ターパ・プラシャマナン」:彼に加護を求める人の中から三種の悲惨を追い払います。

このターパトラヤとは何でしょう?ターパ(酷暑・悲惨)には、アーディヤートミカ・ターパ、アーディボウティカ・ターパ、アーディダイヴィカ・ターパの三つの種類があります。

アーディヤートミカ・ターパ:ここでの「アーディヤートミカ」という語は、霊性(ヴェーダーンタ)とは関係がありません。この文脈での「アートマ」という言葉は、肉体を指しています。肉体の病気など体が受ける苦しみが、アーディヤートミカ・ターパに分類されます。

アーディボウティカ・ターパ:自然災害やほかの存在から引き起こされる苦しみ。豪雨、台風、地震やその他の自然災害。サソリ、蛇、昆虫、虫、バクテリア、食中毒などからくる苦しみもアーディボウティカ・ターパに分類されます。

アーディダイヴィカ・ターパ:両親、神々、グルの呪い、つまり人間のコントロールを超えた超常的フォースのためにもたらされる苦悩はアーディダイヴィカ・ターパです。

仕事のパートナーや友人を騙すこと、彼らの呪いによってもたらされる苦悩はこれに分類できます。
不正は仕事や金銭の問題でよく見られます。ビジネスは誰にも任せてはいけません。オーナーは慎重に取引を見守る必要があります。同じようにお金や財産のことを自慢することは勧められません。この件については秘密を守るべきです。他者があなたの銀行の残高のことを聞いた瞬間に、彼らはそれに対しての権利があると思います。不正行為がそこから始まります。
主に加護を求める人たちに対して、主ダッタはこの句で述べられている両方の方法を使って、これらの三つのターパを追い払います。したがって彼はターパ・プラシャマナムです。

「ヴァンデー」:この主に敬意を捧げます。
「スマルトルガーミ・サノーヴァトゥ」:呼べば即座に応えてくださるその主が私たちを皆守ってくださるように!

<続く>

☞ダッタ・スタヴァ(全詩句)
☞ダッタ・スタヴァ 音声(英語表記あり)

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