言葉と教え

シュリ―マド・バーガヴァタム 第7話

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私たちは、正しさに忠実であっても、人の内に神とその聖なる遊戯への愛を生み出さない場合、それらの行為は力の無駄になると話し合いました。肉体的な疲労感だけが残ってしまいます。それ以外に、他の利点はありません。
聖なる書物を読む人はたくさんいます。
「何度もバーガヴァタムを読みました」、 「バーガヴァタムをたくさんの人々に読ませました」、「バーガヴァタムの物語を規則正しく聞いてきました」、「家でバーガヴァタ・パラヤナ(聖典を最初から最後まで読むこと)を行いました。それは解放を達成するのと同じくらい良いことです」と非常に多くの人々は言います。

間違いなく彼らはバーガヴァタムを読んだり聴いたりしました。しかし、例えば彼らは電話をしていたり、プログラムに参加している他の人々を見ていたりして、他の場所・物事に集中していました。聖典を唱える人:ポウラニカ(プラーナ諸聖典をよく読む人)の行為に欠点を見つけることは大きな過ちです。あらゆるところで文法上の間違いを見つけることもまた頭の痛い大きな問題です。これらの難題は全てが相互に関連し合っています。

「今日はゲストたちがきます。彼らが到着した後にだけ、始めましょう」、または「今日、バーガヴァタムを聞きにくるゲストのために、準備をしなければなりません。大群衆を待っています。全員に対応するように、少しプログラムを遅く始めましょう。」、「今日のプログラムは短縮してください。出席しなければならない他の仕事があります。それらの仕事も神に関係します。それは、私がちょうど今日クリシュナ寺院を訪問しなければならないからです。私はアナンダナ(食事を提供する奉仕)をそこで行いたいです。私たちが今日、ルクミニーカリャナム(クリシュナの妻ルクミニーの婚礼)の章を唱えたように、アナンダナを行いたいです。または、今日、私たちはクリシュナの出生の章を唱えました。それで、私はアナンダナを実行しなければなりません。」
このようにあらゆるところで彼らがパラマートマ(至高の主)に関連した行為をしているかのように人々は語ります。

しかし、神への愛が欠けているならば、これらの行動は何か役に立つのでしょうか? たとえこれらの聖なる物語が何百万回も読まれるとしても、たとえ多くの家庭でバーガヴァタムが詠唱されているとしても、すべての言語のバーガヴァタムの本が家の棚を飾っていたとしても、何か役に立つのでしょうか? 彼らは資源と労力を無駄遣いするだけです。徒労だけが残ります。それはうんざりさせます。果てしなくバジャン(神の賛歌)を唱え続け、それから疲労のために崩れるようです。それが何の目的に役立つのでしょう?

これらの立派な行為と同時に、マインドは完全に主に集中しなければなりません。完全な愛と献身でこれらの行為が実行されるとき、適切な成果が生まれます。そのようにバーガヴァタムを読むことが、本当の読み方です!

ダルマ(正義)の目的は何でしょうか? なぜ、人はダルマ(正しさ)を厳守しなければならないのでしょうか? 最終的な結末は何でしょう? ダルマの最終的な結果は、解放(モクシャ:解脱)を得ることです! 段階的に、私たちは進歩しなければなりません。ダルマの道で段階的に進歩することによって、私たちは最終的に解放を達成します。すべてのこれらの段階は、愛と献身で満たされる苦行(タパス)です。

とは言っても、実際には、ダルマ(正義の法則)によってアルタ(物質的な所得)がシャワーのようにもたらされますが、それは最も幸運な、または最終的な結果ではありません。解放(モクシャ)の獲得が、正義の法(ダルマ)を順守することによる究極的で吉祥な成果なのです!
「私は、これらの良い行為を行うことによって、たくさん利益を得ました。このヤグニャ(儀式)を開始して以来ずっと、私は運に恵まれています。すばらしい家を手に入れました、私の子供たちは幸運でした」 – このように、人々はしばしば話します。これが、あなたが価値のある行動を始めた理由ですか? 良い流れは、あなたが良い行為を行うかどうかにかかわりなく、やって来るかもしれません。同様に、たとえあなたが良い行為をしても、悪い流れが来るかもしれません。その悪い流れのなかにさえ、悲しみだけではなく喜びがあるでしょう。これらすべてを理解しないでしょうか?このように人生を経験しないでしょうか? 私たちは、神に強く献身している人の上に喜びと悲しみが降りてくるのを見ます。また、神を信じない人の上にも似たような喜びと悲しみが降りてくるのを見ます。

「今日、私は、一千万回サハスラナーマ(神の千の御名)を唱えました。そういうわけで、私は素晴らしい成果を達成することが出来ました。」
強力なサハスラナーマを唱えることで、宝くじという形の小さな利益を得られたり、迷子になってしまった子供が家に帰ってくることができるとあなたは思っているのでしょうか? それで全てでしょうか? 宝くじによるお金は失われる場合があります。帰ってきた子供は成長し、もう一度家を出て行ってしまいます。これらのどれもが永遠ではありません。それらは儚い答えです。それがすべてです。あなたは家を建てることができたかもしれません。健康を回復し、子供と一緒にに祝福の中で過ごせるかもしれません、巣立った子供が家に戻ってくるかもしれません、 これら全ては間違いなく嬉しいことです、しかし、それらは本質的には取るに足らないことなのです。それらは散逸するでしょう。私たちは、私たちのダルマ(正義)を無駄にしています。このようにバクティ(信・献身)を薄め、台無しにしてしまっています。

このように振る舞ってはいけません。その代わりに、私たちは成果を蓄え、保存しなければなりません。たとえ若干良い、または喜ばしい出来事が起こるとしても、それをあなたの価値ある行為と関連づけないでください。それがあなたの良い行いの結果であると思ってはなりません。どんな結果も想定せずに、あらゆる行為を行ってください。
「私は、何も捜し求めません。最大の愛と信だけで、詠唱するか、この神聖な書物を読んでいます。私は、神を愛し、尊びたいのです。」
このように考えてください。

主への信と献身がないならば、これらの行為は何の役に立つのでしょう? 神への愛がないとき、あなたの価値ある行為から何が得られるでしょうか? 全てこれらの取るに足らない期待が放棄されると、それから、解放という真の成果に達することが出来ます。解放は、ダルマを遵守することの真のふさわしい成果なのです。他のすべては、取るに足らない成果です。
解放だけが、真の答えです。

「私は詠唱し成果をあげました。私の仕事は完了です」。
あなたが一時的な物質的利益を貰うためだけに良い行為を尊ぶならば、そして一旦成果に達したなら、あなたは良い行為を止めてしまいます。
「おお、主よ、私の問題が解決されるかどうかは関係がなく、それは重要でありません。問題に耐える強さを与えてください。あなたの聖なる御足から私の心を決して逸れなくさせてください。私の心があなたの御足に奉げられますよう助けてください。」
これが祈りでなければなりません。取るに足らない成果を決して探し求めてはなりません。

私たちは繰り返しこのメッセージを回想するでしょう。私は、何度も何度もこれを繰り返し続けます。幾度となくこの話を聞いた後にさえ、私たちは間違いを認識することができません。したがって、何度も何度も、このメッセージの要点を繰り返さなければなりません。
これはまるで一日の内多くの時間、鏡の前に立っているようなことです。朝、昼、夕に、あなたは鏡の前に立ちます。出かけなければならないとき、いつも鏡で顔をチェックします。なぜ、あなたは一日のうちの多くの時間、顔が綺麗かをチェックする必要があるのですか? 同様に毎瞬、このメッセージを思い出してください。私は、しばしばあなたにこのことを思い出させ続けます。スワミジはいつもこの同じメッセージを繰り返している事はどうしてかと、不思議がらないでください。私はそれを教え説くのは一度では十分でないと感じています。

誰もがこの問題において注意深くなければなりません。私たちは非常に慎重でなければなりません。解放を達成することはと最高の吉兆でありダルマの公正な果実です! 同様に、アルタ(物質的な富)の目的は単にダルマ(正義)が守られるためであり、カーマ(欲求の成就)の為であってはなりません。

アルタの意味の一つはお金を稼ぐことです。お金を稼ぐことの底にある目的は、ダルマ的(正義の)活動をするためであり、欲求を満たすために使われてはなりません。マハリシ(聖仙)は言っているのはこのことなのです。私たちはダルマを理解しました。つぎに私たちはアルタが何かということを理解しようと試みましょう。お金を稼ぐと同時に何がなされるべきでしょう?

続く

srimad2

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