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ダッタ・スタヴァの唱え方⑥(第二詩句)

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Dīnabandhuṃ kṛpāsindhum sarva kāraṇa kāraṇaṃ ǀ
Sarva rakṣākaraṃ vande smaṛtrgāmi sano’vatu ǀǀ
ディーナバンドゥン クルパーシンドゥム サルヴァ カーラナ カーラナン
サルヴァ ラクシャーカラン ヴァンデー スマルトガーミ サノーヴァトゥ

この句では主ダッタの永遠なる慈悲と真の本質が強調されています。
「クルパ・シンドゥム(慈悲の海)」
この方法で呼ばれるに値する人は誰でしょう?
クルパは完全なる慈悲(カルナまたはダヤ)を意味します。他者の苦しみを見るとハートが溶けることを意味します。これは良い特質でしょうか?または悪い特質でしょうか?自分で考えてみてください。

一般的に人は自分自身の個人的問題について慈悲を感じますが(自己憐憫)、他者が困っているときには慈悲の思いを持つ必要がないと思っています。これが世界の働き方です。自分への思いやりは良い兆候と見られ、他人への思いやりは健全な印とは見られません。問題が頭をもたげると残念に感じ、成功している人に嫉妬したり、非難をしたりするのはこの世界では普通のことです。「どうして自分だけに問題が起こる必要があるのか?自分に悲しい知らせが来たときになぜ他の家庭は幸せでいるのか?喜びや幸せがどうしてうちに来ないのか?」
自己憐憫によって人はこのように嘆きます。

なぜ他者が苦しんでいるときに「ああ哀れな!不幸が彼にやってこないように!」と心に浮かんで来ないのでしょう?多くの人が他者に共感できないのは残念なことです。「ああ幸運が私に微笑んだ。欲しいものが得られるなら、幸運が他の人に与えられなくても構わない」と思うのは間違っています。そのような習慣を奨励してはいけません。
自己憐憫は慈悲の正しい定義ではありません。近しい人や大切な人だけに慈悲を持つことも間違っています。友人と敵を分ける人(Aは友人で、Bは私の敵だ)は、正しい慈悲の態度をとることができません。

正しい慈悲とは、この世界に敵も友人もいない人だけがもつことができます。主の目には誰もが同じに映ります。そのような人は、誰かを無視して、誰かにだけ思いやりを見せるということはできません。海のように、その人の慈悲は全ての方角に永遠に流れます。そのような偉大な存在は「クルパ・シンドゥム」つまり慈悲の海と呼ばれます。

「ディーナ・バンドゥム(苦しでいる人すべての親類)」
言うまでもなく、マハートマは慈悲の海ですが、苦しんでいる人、問題に陥っている人の誰にでも無限の慈悲を持っています。そのため彼は「ディーナ・バンドゥム」と呼ばれます。

前の句でこの主は完全に彼に全託した人(プラパンナールティ・ハラム)のみを助けるためにだけやってくると説明しました。しかし苦しんでいる人全員が彼に全託する必要はありません。彼に全託していない人をどう助けることができるのでしょうか?彼はなぜ「全ての貧しい人や哀れな人たち(ディーナ・バンドゥム)の親類」として知られているのでしょうか?これを見てみましょう。

信仰心があり敬虔な聖人のような人は、他の人が快適ではないときに楽しむハートは持っていません。そのような人は食事をする前に贅沢な食事を楽しむことができない不運な人にそれを提供するでしょう。

「神の恵みで私たちの家には食べ物がたくさんある。飢えている人のことをどうして心配する必要がある?結局はその人が向き合わなきゃならない悪いカルマなんだ。それに何ができる?」とは言いません。彼は頼まれなくても目の前にいる人を助けようとします。その人たちに食べ物をあげるまでは食べることができません。聖人のような人がそのような想いを持つことができるなら、全生類の主であるダッタが全ての苦しむ人を助けるために駆けつけるのは当然ではないでしょうか?実際のところ、冷酷で自己中心的な普通の人であっても、物乞いが自分の食べ物を見ていたら食べることができません。隠れて食べるか、食べ終わる前にパンの数切れを物乞いにあげるかします。これが普通の人であるならば、聖人が苦しんでいる人を助けるために駆けつけるのは当然ではないでしょうか?

ではなぜ人は苦しむのでしょうか?人が苦しみ・悲しみを経験するのには二つの理由が考えられます。過去生または今世での悪行の結果を刈り取っていると言えます。深遠な英知を持つ人が他者が苦しんでいる原因を知ることができると仮定しましょう。今世での過ちのために困難に巻き込まれている人に対して慈悲を持って、その人を助けようとします。しかし彼は過去生の悪行のために陥っている人のことは助けることができません。そのような人をマハートマと呼ぶことができるでしょうか?できません。

マハートマとは、苦しみの原因に関わらず苦難にある人に慈悲をみせます。これが彼の際立った特徴です。

子どもは火に手を突っ込みます。「あなたは火の中にわざと手を入れましたね。今その結果に苦しんでいるのですよ」とどの母親が言うでしょうか。男の子がわざとか無意識に手を入れたか関係なく、母親は必要な薬を与えます。同じようにマハートマはその背後の原因に関係なく苦しむ人を助けようとします。彼は「あなたがこの問題をもたらしたのです。私は助けられません」とは言いません。彼は慈悲を見せたり助けを与えることに選択肢を持ちません。もし彼が選ぶようなら、人々はどうして彼に近づきますか?彼が問題を解決したり、問題が解決する道を示すことができるために近づくのです。

ここで注意すべきところがあります。マハートマはその人が値するかしないかに関わらず、助けます。これはマハートマの非常に重要な特質です。母親にとって子ども意図的に手を置くか、無意識に手を置くかが関係ないように、マハートマはその人の苦しみだけを見て、苦しんでいる背後の原因・理由は見ません

マハートマが表す違いは一つの点だけになります。マハートマは故意に間違いを犯した人が少しだけ苦しんで、自分の過ちに気づくようにさせます。ですが、無意識に問題に巻き込まれた人の場合には、急いで救援に駆けつけます。マハートマは両方の種類の人を助けるということを注意してください。ある状況の場合には助けるために急いで駆けつけ、別の状況の場合には、また過ちを繰り返さないようにわずかに苦しむようにさせるのです。

どうして主はふさわしくない人を助けるのでしょう?良識に欠けているのでしょうか?違います。主にはその観念についての真髄を持っています。そのため主は全ての人を助けますが、助け方が違います。

もし有徳で聖人のような人(サドゥ・プルシャ)が、他者を起因とする問題に苦しんでいるならば(他人が彼を困らせている場合)、彼は全託の重要性をわかっているので即座に主に全託します。彼は内側の傲慢さが全託するのを阻むことをわかっています。そのため主は即座に彼を助けるために駆けつけます。主がどのようにドラウパティやプラフラーダを助けるために駆けつけたか思い出してみてください。そのように助けるために、主は「プラパンナールティ・ハラ」と呼ばれるのです。

今世だろうと過去生だろうと過去の自分の行為が現在の苦しみの原因であり、責任を負い、自分が犯した罪を本当に悔いている人は自然と全託する傾向があります。その人たちは自動的に主に明け渡します。「この不幸は自分に責任がある。過去の行為が今日の苦しみをもたらした」と気づいた瞬間、その人は自動的に悔い改めて、主に全託します。

この認識がない人には当てはまりません。そのような人は自分のカルマ(行為)が自分の不幸に責任を持つということに気づきません。そのような人物は明け渡しません。助けを求め続けてもなお、自分の主張を続けます。それはおかしな状況です。医者に行っておきながら「先生、私は先生に信がありません。治療法や出してくれる薬を信じていません。でも早く治りたいのです。助けてください」と言っているようなものです。どうやって医者はそのような患者を助けられるでしょうか?そのような患者に治療を施す必要がありますか?もし医者が治療を拒めば患者は「あなたは医者です。治療するのはあなたの義務です。助けてください」と主張します。

「おお、サッドグル、私はあなたに全託しません。あなたに平伏したり、敬意を払ったりもしません。でも私に解放をください」これは何と気が狂っていることでしょう!そのような人に見せられる慈悲は精神病院に向かわせることだけです。それ以外は神でさえもそのような人たちを助けることはできません。

逆に、行為が現在の状態をもたらしたことを認めて全託している人は容易に助けられます。その人の忍耐(サハナ・シャクティ)と集中(エーカグラタ・シャクティ)を高めて、信と勇気の度合を高めることで、彼らの問題は解消されます。主はそのような人を助け、悲しみを消そうとも努めます。

主はあらゆる性質の人を助けると説明してきましたが、助けの種類は異なります。大老ビーシュマやビーマに差し出された助けはこの一例です。

ビーマは自分の力を証明しようと愚かなことに矛を空中に投げつけ、胸に戻ってくるのを待ちました。矛の重みでつぶされてしまっていたでしょう。そのため主は即座に助けにきて守りました。

大老ビーシュマが矢の床に横たわっている時に、主クリシュナが彼を訪れました。大老ビーシュマは主に完全に全託していました。主はアルジュナの矢を使ってガンジス川の水がビーシュマの口に届くようにしました。主は更に彼にジュニャーナ(英知)を伝授しました。

大老ビーシュマとビーマとの間には大きな違いがあります。ビーシュマは自分の過ちを理解していて、完全な懺悔の念を持ち主に全託しました。主は彼を守りました。一方、ビーマは無意識に過ちを犯しました。しかし彼はバクティ(信愛)において絶対的な信を持っていました。もし主が介入しなかったらビーマは砕けてしまっていたでしょう。ビーマに対して主は助言を与えました。ビーシュマにはジュニャーナ(英知)をあたえました。そのように主は両方を助けましたが、手法が違っていました。

主は苦しんでいる人(ディーナ)に対して、無意識の人であっても、親類とみています。主は彼らを助けます。だからこそ彼は「ディーナ・バンドゥム(苦しむ人の親類)」なのです。それが主の特徴です。

一般の医者であっても、自分を信じていないと公言しながら薬を求める患者にも薬を出します。普通の存在である医者がそのような高貴な考えを持っているのなら、至高の主についてはこれ以上何を言えるでしょうか?彼は「ディーナ・バンドゥム(苦しむ人の親類」です。そのような場合は主は罰を減らすことはしないことに注意する必要があります。主は徐々に彼らにサットサンガ(聖なる交友)を紹介します。同時に少しの罰を与えます。真のサットサンガのおかげで、主は彼らが徐々にダルマ(正しい行為)に心が向くようにします。また彼らに少しの量のジュニャーナを注ぎ入れます。これらを通して主は彼らの罪を徐々に消散させて、最終的には永遠の保護で彼らを祝福するのです。

ラーヴァナやヒラニヤクシャのような悪魔に対しても主はこれらの原則に従います。ラーヴァナは犯罪を犯しましたが、主は保護(ラクシャナ)を与えて、彼の課題(シクシャナ)を学ぶようにさせて罰しました(シクシャ)。同じことをヒラニヤクシャや他の悪魔たちにもしました。主は彼らを破壊しませんでした。主は罰して守ったのです。

これにより、主は全託したかどうかに関わらず、全ての人を助けることが明らかになりました。助け方が違うだけです。

「サルヴァ・ラクシャーカラム(誰をも助ける)」
このことから全託するかに関係なく、主はその人を助けるということがわかります。「プラパンナールティ(全託した人の悲しみを消し去るもの)」と「ディーナ・バンドゥム(苦しみある全ての人の親類)」は相反しているわけではありません。二つとも真実です。唯一の違いは、人が全託する場合、主は即座に悟りを与えることです。他の人には主は助けて様々な手法で徐々に主の信奉者になるようにさせます。その信奉者が全託するように主はその人に変容を引き起こします。

ドゥルヴァはどのような知識を持っていたのでしょうか?小さい男の子は何も知りません。男の子の前に現れた後に主はその子の舌に種字を書いて、それによって男の子に主を称賛させるようにしました。主自身が彼に悟りを与えました。

「サルヴァ・カーラナ・カーラナム(全ての原因の原因)」
これは至高の主の真の姿の本質を説明しています。
この世界ではすべての行為には必ず原因があります。全ての世界の物質は五大元素(パンチャ・ブータ)から生じます。言い換えるとパンチャ・ブータがその存在の原因(カーラナ)です。では、この五大元素の原因とは何でしょう?主がこの基本的構成要素(パンチャ・ブータ)が存在する原因です。簡単に言うと、私たちの主ダッタートレーヤはこの創造における全ての原因です。彼はサルヴァ・カーラナ・カーラナム(全ての原因の原因)です。

「ヴァンデー(そのような主を礼拝します)」

「スマルトガーミ・サノーヴァトゥ(即座に私たちの呼びかけに応えられる主が私たち皆を守ってくださいますように!)」

このスマルトガーミ・サノーヴァトゥの句は王冠であり、常に思い出す必要があります。

二つ目の詩句の真髄を理解するために、カルタヴィリヤルジュナとパラシュラーマの話を深く掘り下げる必要があります。全託の前と後とでは何が起こるのでしょう?どう主は助けるのでしょう?この全ては彼らの話からはっきりと理解するようになります。

カルタヴィリヤとパラシュラーマはお互いに敵同士でしたが共にダッタートレーヤをグルとしていました。一人は信奉者であり、もう一人はそうではありませんでした。一方に信愛(バクティ)がなかったわけではなく、信愛とは種類が違ったものであっただけです。相手に知られることなく、両者とも最終的には避難所を求めてグル・ダッタに全託しました。全知の主は両者を助けましたが、助け方が違っていました。二人とも自分が主に全託したとは気づいていませんでした。二人は激しく戦いました。主は両者を守りました。一人にはジーヴァンムクティ(生きながら解放されること)を与え、もう一人を肉体から去らせて至高の段階に到達させました。カルタヴィリヤの呪いを解き、天界に戻しました。パラシュラーマは怒りを溶かしブラフマリシに変容を遂げさせました。主は両者に恩寵を与えました。二人はヨーガで祝福されました。

主にとって敵はいません。だからこそ主は二人を平等に愛して、その資質に変容をもたらしたのです。
同じように、主は、全託したかそうでないかに関係なく、全ての存在の資質に変化を引き起こして、変容をもたらすのです。
この賛美の詩句のすべての段階で「スマルトガーミ・サノーヴァトゥ」という言葉を思い出さなければなりません。それは全詩句のキーポイントです。

☞ダッタ・スタヴァ(全詩句)

☞ダッタ・スタヴァ 音声(英語表記あり)

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