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シュリーマド・バーガヴァタム 第18話

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ある日、この偉大な賢者はひどく狼狽しており、いまだ純粋なるサラスヴァティ川の川岸の隔離された場所を選び、次のような方法で自身を内省しました。

「私は厳しい鍛錬と完全な献身でヴェーダ、グルそしてアグニ(ホーマの火)に礼拝し、それらの命令に従ってきた。さらにヴェーダの全本質を説いているマハーバーラタを世界に捧げた。このマハーバーラタを通して、女性やシュードラ(四つ目のカーストに属している人)たちも正義(ダルマ)の法則を理解することができる。このために、すべての存在は今、この神聖な法則を理解する資格を得た。

このような幾多の行為の後でさえ、私の内なる自己は不完全さを感じるのか?いつ私は本当に完全になるのだろう?全知であって、なぜ無知のように現れているのか。なぜこの空虚が私を包むのか。どうして空っぽになるのか。どうして何も見えなくなっているのだろう?

このことから、私は人を前進させるダルマ(正義)について、本質的な説明をしていなかったのだと理解すべきだろう。おそらくパラマートマへ導く道を入念に作り上げてはいないのだ。おそらく私自身それがわかっていないのだ。これが、私が不満である理由だろう。これは全知の聖者(パラマハンサ)たちが強く愛するダルマがまた、主マハーヴィシュヌにとっても並外れて愛しいものであることに起因するのだ。」このように偉大な聖賢は悔やみました。

自身を不完全だとみなす聖者が、その不満を嘆いていたとき、聖仙ナーラダが彼を訪れました。聖仙ナーラダの訪問に気づき、聖仙ヴィヤーサは起き上がり、温かく迎え入れました。相応の敬意と多大な尊敬の念とともに、ヴィヤーサは偉大な聖者に礼拝しました。
ここで第一巻の四章は終わりです。

では第五章に入りましょう。この章は、聖者ナーラダとヴィヤーサの会話、ナーラダからヴィヤーサに語られた至高の主の行為と性質を賞賛することの偉大さと、ナーラダの前世の話を含んでいます。

「聖仙ナーラダは、限りなく高名で、手にはヴィーナを持ち、永遠に平安にあり、心地よく座し、そして微笑みながら、隣に座っている聖仙ヴィヤーサにあいさつをし、次のように語りました。『おお、マハトマ(偉大なる魂)よ、あなたは至福で幸せですか?あなたの肉体、マインド、感覚、アートマ(真我)は、至高の主への熟考の中で、永遠に至福なのでしょうか?正義(ダルマ)の全ての法則を理解されているだけではなく、それを実践しています。あなたはマハーバーラタを書きました。それは完全にダルマ(正義、法)にあふれ、素晴らしい叙事詩です。

マハーバーラタには全ての神聖な文献の完璧な真髄が含まれています。あなたはブラフマ(ブラフマの真実)の永遠の原則を熟考され、真我実現を達成しました。これら全ての行いの後でさえ、あなたは落胆しているかのように見えます。なぜそうなってしまうのでしょうか?なぜ幸せではないのですか?どうして空虚で、何も果たしていないように感じるのですか?』

これに対し聖賢ヴィヤーサは答えました。『おぉ、ブラフマリシ・ナーラダよ、おぉ、偉大なる聖者よ、今、話されてきたことは、疑いなき真実です。今言及されたこと全てに強く同意します。にもかかわらず、私の心は幸せではありません。この背景にある理由を解くことができないのです。おぉ、全知の聖者よ、あなたは無限の知識を持っておられます。私が経験しているこの満ち足りない想いの背後にある理由を教えて下さるようお願い致します。

おぉ、偉大なる聖賢ナーラダよ、あなたは非二元である至高の主を礼拝してきました。あなたは、私のこの悲しみの背後にある隠れた理由に気づくでしょう。太陽に似て、あなたは三界すべてを旅しています。あなたはヨーガの強さとともに、風のように全ての存在に入り、目撃者として彼らの心の全活動を見ることができます。
私はパラブラフマーに関する事象のなかで、厳格な鍛錬と完全なる献身を正しく守ってきており、それにより精通するようになりました。それでもなぜ不完全なこういった想いを経験しているのでしょうか?なぜこの悲しみがあるのでしょう?どうして、この満ち足りない想いを持っているのでしょうか?』

これらの質問への答えとして、聖賢ナーラダは答えました。 『おぉ、聖仙よ!あなたは至高の神の偉大なる成就、栄光を入念に作り上げられていないと言っているのですね?私の意見では、至高の主へ向けた幸せを引き起こさない知識は、常に不完全な知識であるということです。これが私の意見です。あなたは疑いなく、限りない知識を世界へ出しました。しかし、その中に、神の栄光を話したものや、主の本質の理解を助けるものは入っていますか?主へのすばらしい幸福感を引き起こし、神のヴィジョンを授ける知識に従ったときだけ、人生は満たされたものになるのです。

おぉヴィヤーサ、あなたがダルマやプルシャルタ(四重の人生の目的)について説明されたように念入りには、主ヴァースデーヴァの栄光の行いを説明はしていません。聖者方はこれらの言葉は、本質(ラサ)や装飾(アラムカラ)を含んだ後でさえ、宇宙を聖別することはできず、主の偉大なる行為について説明していないと考えます。これらはカラスの楽しみの場所に属します。言い換えると感覚的悦楽を求める人のための場所です。純粋な心を持っていて、白鳥のような存在である聖者は、そのような場所では決して幸せにはなれません。

至高の主を讃え、すべての韻文に、主の無限の神聖な行いを讃える名前(ナーマ)を含んだ詩的な韻文はこの上ないものです。なぜならそれは、文法上の間違いや誤字があったとしても、人々の罪を破壊するからです。

聖者や純粋なハートの持ち主は、誰かが唱える主のこの名前を聴くことを楽しみます。誰も主の栄光を歌わない場合でも、そういった人々は自ら神の御名を歌うのです。

すべてのカルマの束縛から解放され、至高の真実(ブラフマ・ニシュタ)の中で確立された存在は、解放のための本質的な知識に達する方向へと導きます。しかし、この同じ知識は、主ハリ(ヴィシュヌ)への献身を伴わないのならば、同じ結果を授けるわけではありません。これが私の意見です。これは事実であり、それならば自分の欲望を満たすために行われ、主に全託されない行為について、これ以上なにを言う必要があるでしょうか。

そのゆえ、おぉ偉大な聖者よ、誓いにあったように真実を固く信じているあなたは、すべての束縛を破壊するために、また平安な心を得るために、無限の力を持った永遠なる至高の主ハリのよく知られた栄光を思い出すべきです。

一方で至高の主の栄光から離れた何かを書こうとする人は、どんな場所でも平安と安定のなかにに休むことができません。「彼」ではなく、その創造物に集中するためにバランスを失ったそのような知識は、強風によって困難で不安定になった船のようなものです。

生来的に人は、物質的安楽と悦びに傾倒しています。ダルマの遵守の名のもとに、あなたは果実をともなう行為(なんらかの結果を期待して行われる行為)を教えています。これは公正なことではありません。あなたは彼らの行為(カルマ)を増やし、その行為の結果である果実を楽しむことを教えています。「このカルマは良い結果を降り注がせるでしょう。この良い行いはあなたを祝福するでしょう。あなたな充分な金銭を得て、物質的な快適さを得るでしょう。この特別な行為は良い子孫をもたらすでしょう。広大な王国の皇帝として祝福されるでしょう。」と。これがあなたが教えてきたことです。しかし解放を得ることについては、あなたは何も教えていないのです』

オーム ナモー ナーラーヤナ

続く

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