言葉と教え

シュリーマド・バーガヴァタム 第279話

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“Yāvan mano rajasā pūruṣasya sattvena vā tamasā vānuruddham
Cetobhir ākūtibhir ātanoti niraṅkuśaṁ kuśalaṁ cetaraṁ vā

心がトリグナ(純質、激質、暗質の3つの特質)に支配されている限り、人はそれを制御できません。感覚器官と行為器官(10の感覚)の助けを借りて、心は常に人を徳のある行為か、罪行へと駆り立てます。

心は過去の行為の精妙な印象で満たされています。常に快楽を享受することを望みます。根本原質の三つの特質(トリグナ)によって動かされます。欲望、怒りといった不純物に満ちています。心は人体を構成する16の主要要素の中で最も重要です。

様々な転生において、この心は様々な名前と体を取ります。時には天人のような至高の体を取り、時にはより低い動物の体を取ります。個々の真我が体と結びつくとき、違いが生まれます。

Duḥkhaṁ sukhaṁ vyatiriktaṁ ca tīvraṁ kālopapannaṁ phalam āvyanakti
Āliṅgya māyā-racitāntarātmā sva-dehinaṁ saṁsṛti-cakra-kūṭaḥ

心とは、三つの特質(トリグナ)から成る幻想の力の活動に他なりません。霊的な無知のために、人は心と一体であると仮定し、欺かれます。この幻想に囚われた人は、輪廻転生の中で果てしなく回転し続けます。

過去の果報的な行為の結果が経験される準備が整うと、心は時間の影響を受け、その結果を喜びや悲しみという形で経験させます。喜びは過去の純粋な行為(サットヴァ)の結果です。悲しみは、情熱(ラジャス)に駆り立てられた過去の行為の結果です。過度の夢中や執着は、無知(タマス)に駆り立てられた過去の行為の結果です。霊的な無知に囚われた人は、過去の行為のこうした結果から逃れることはできません。

このように、人が心と関わり続ける限り、これらの世俗的な行為は存在し続けます。目覚めた状態においては、心の経験は非常に目に見える形で現れます。目覚めた状態において、心はより新しい欲望を生み出して、より新しい決意を固めます。夢の状態においては、経験は精妙に存在します。この状態においては、心の遊びのような活動が経験されます。しかしながら、真我はすべての活動の目撃者であり続けます。

このように、三つの特質から成る根本原質と関わる心は、天界のような高次の生を得るか、動物のような低次の生を得るかの主因となります。この心は、存在をこうした繰り返される輪廻に囚われさせるのです。

この心が本来の純粋な真我へと融合するとき、存在はトリグナとその影響から解放されます。そして解放を得ます。この観点から見ると、心だけが解放をもたらす責任を負っていると言えます!

魂(真我)は、根本原質の三つの特質(トリグナ)と結びつくと、束縛されると言われています。これは低い状態です。魂が本来の独立したところに確立されたとき、究極の境地と呼ばれます。

トリグナに囚われた心は、あらゆる悲しみの原因となります。同じ心がトリグナの影響を超えたとき、本来の真我に安らぎ、解放の原因となるのです!

スワミジはこう説明しています。「ここでは、心が経験する様々な生、様々な変容、欲望、到達するレベル、そしてその影響がすべて詳細に説明されています。高貴な生を与えるのも心であり、卑しい生を与えるのも心です。個人を悲しみと再生誕へと駆り立てるのも心です。知識と解放を与えるのは心です。

ランプの芯はギーを吸収し、煙とともに炎を生じます。芯がギーの吸収をやめると、火に焼かれて、完全に消えます。同様に、物質的快楽に結びついた様々な活動に傾倒するこの心は、次から次へと思考を生み出し続けます。

芯がギーと結びついて炎を生み出すように、心は世俗的な活動と結びついて思考を生み出します。この心が物質世界と感覚的な快楽から離れると、究極の境地である真我実現を得ます。そして、真の自己を知ることに傾倒するのです。ランプの中のギーのように、心がこの世と関係している限り、幻想に溺れてしまいます」。

ここでジャダバラタは王に、この世との繋がりを断ち切る方法を説いています。人々はこの世と深く結びついて、その結果、苦しんでいます。しかし、彼らはこの束縛を断ち切る方法を知りません。このことを学ぶ必要があります。

ナーラーヤナ

第280話へ続く

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