言葉と教え

バガヴァット・ギーター 第2章17~20節

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「アルジュナよ!タットヴァ・ダルシ(真我の認識を持つ人)の見解を持ちながら、二元性に耐えなさい。二元性は蜃気楼のように、存在しないのに、存在するように見える。この認識をもって、二元性に耐えよ」とクリシュナは言いました。

第16節では、クリシュナは真実とは何かを定義しませんでした。彼は今、その問いに答えることにしました。

avināśhi tu tadviddhi yena sarvam idaṁ tatam
vināśhamavyayasyāsya na kaśhchit kartumarhati ǁ 2-17 ǁ

「全創造物に遍在する「真実の存在」(サット)は、不変であるため、破壊されない。誰もそれを消滅させたり、変化させたりすることはできない」

破壊されるものは「ヴィナーシ」であり、破壊されないものは「アヴィナーシ」です。

第16節では、アサット(非実在)とサット(実在)について教えられました。 第17節では、「トゥ」という言葉によって、非実在は実在から区別され、真実の存在は破壊されないとされてます。

ヴィナーシャ Vināshaとは、知覚できなくなることであり、ヴヤヤ Vyayaとは、拡大または縮小することです。アヴヤヤAvyayaとは、縮小も拡大もないことを意味します。真の存在は分割されず、拡大も縮小もせず、アヴヤヤのままです。

さらに、真の存在は所有物を持たないため、枯渇することもありません。私たちは「デーヴァダッタは財産の減少によって失われた」などと言いますが、真の存在について彼のように「失われる」とは言えません。したがって、アヴヤヤである真の存在を滅ぼすことは誰にもできません。

他者は真の存在を滅ぼすことはできません。では、真の存在は自らを滅ぼすことはできないのでしょうか?ここで述べられているのは、誰も自らを滅ぼすことはできないということです。イーシュヴァラ(神)でさえも。真の存在は自己です。自己は自らの中にいかなる行為も持ちません。

そうであれば、真の存在を放棄した非実在物とは何でしょうか?この問いに答えが与えられます。

antavanta ime dehāḥ nityasyoktāḥ śharīriṇaḥ
anāśino ’prameyasya tasmādyudhyasva bhārata ǁ 2-18 ǁ

「真の存在(シャリーリ)は永遠であり、滅ぼされることはない。それは認識を超越している。真の存在が持つ肉体だけが滅びゆく。このことを知って、今、戦え」

不滅の実在は、粗大な身体の中に自己として存在します。

適切に調べて水が存在しないことが明らかになれば、蜃気楼は消え去ります。つまり、消滅します。身体も同様です。幻影や夢の身体のように、これらの粗大な身体もいずれは終わりを迎えます。自己は身体を持ち、その身体(シャリーラ)の中に存在します。したがって、それはシャリーリ/デーヒ(身体を持つもの)です。

それは永遠であり、不滅であり、測定や想像を超越しています。 「プラメーヤ Prameya」とは、証明によって確定される知識です。証明によって確定できないものは「アプラメーヤ aprameya」です。 プラティヤクシャ(感覚によって捉えられる直接の知覚)、アヌマーナ(直接知覚に基づく推理・推論)、ウパマーナ(比較・対照による知覚)、シャブダ(聖典の言葉)、アルターパッティ(文脈・状況に基づく推理・推論)、アヌパラブディ(不在の知覚)、アイティヒヤ(伝統・伝承)は、広く認められている有効な「プラマーナ Pramāṇa」(証明の根拠)です。

心と五感を用いて得られる知識はプラティヤクシャです。想像力を用いて他の対象を理解することはアヌマーナです。ある対象を他の類似の対象と比較し、それについて学ぶことはウパマーナです。ヴェーダはシャブダ・プラマーナーです。 これら4つは主要な証明です。

他にも証明はありますが、真の存在はアプラマーナ pramāṇa(測れないもの)であり、これらのどれも真の存在を完全に説明することはできません。

ニティヤ(永遠)とアヴィナーシ(不滅)は同義語のように見えますが、そうではありません。この世には、永遠と滅びの2種類があります。死体が焼かれて見えなくなると、滅びたと言います。病気によって体が縮んだり変化する時、見えていても滅びたと言います。アヴィナーシとニティヤという言葉は、これらの滅びが真我には当てはまらないことを示しています。 さらに、私たちは真我を「地」や他の元素と同じような永遠のものと誤解する可能性があります。真我の永遠性が五大元素とは異なることを明確にするために、主はあえてアヴィナーシ(不滅)とニティヤ(永遠)という言葉を用いました。このことを通して、クリシュナは、たとえ大地や他の要素が滅びようとも、真我は不滅で永遠であることを伝えています。

「アルジュナよ!このように、真我は永遠不滅であるという認識をもって戦え。あなたが攻撃しているのは肉体であって、真我ではないことを理解せよ」

ここでクリシュナは戦いを義務として命じているわけではありません。しかし、戦いを求めて戦場に足を踏み入れた後、もしアルジュナが迷妄と悲しみのために戦いから遠ざかるならば、主は迷妄と悲しみの結び目を断ち切らなければなりません。

「戦え」という言葉は、アルジュナが既に始めようとしていたのを補足するもの(アヌヴァダ)であり、主の命令(ヴィディ)ではありません。

主は、悲しみ(ショーカ)や迷妄(モーハ)などの形で存在する輪廻転生(サンサーラ)の種を取り除くために、ギーター・シャーストラを教えるという使命を担われました。ギーター・シャーストラの主な目的は、人を「ニヴリッティ」(帰還の道)へと導くことであり、さらなるプラヴリッティ(行為の道)へと駆り立てることではありません。

この点を確証するために、主はここでカトウパニシャッドから直接2つの詩句を引用されます。

ya enaṁ vetti hantāraṁ yaścainaṁ manyate hatam
ubhau tau na vijānītaḥ nāyaṁ hanti na hanyateǁ 2-19 ǁ

「「私は殺した者だ」と考える者もいれば、「私は殺された者だ」と考える者もいる。このように言う者は無知である。なぜなら、真我は殺されることも殺すこともないからである」

真我を殺した者と考える者、肉体が死ぬ時に自分が殺されたと考える者は無知です。両者とも、「私」と呼ばれる真我を理解してません。 真我は行為を欠いているため、殺すことも殺されることもありません。

na jāyate mriyate vā kadācit
nāyaṁ bhūtvā bhavitā vā na bhūyaḥ
ajo nityaḥ śāśvato ’yaṁ purāṇaḥ
na hanyate hanyamāne śharīreǁ 2-20 ǁ

「真我は決して生まれず、決して死ぬこともない。それは生を持たず、永遠であり、不変であり、太古から存在する。肉体が殺されても、肉体が滅びても、真我は死なない」

636話に続く

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