言葉と教え

シュリーマド・バーガヴァタム 第231話

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サナト・クマーラ・マハリシは話しを続けました。

「心という道具が働く時に限り、個人は、分離した自らの存在、感覚によって感知され目に見える分離した世界、その二つの目撃者としてあり続ける光についての認識を培います。それは個人がこれら三つの存在を別々のものとして経験することを意味します。

言い換えれば、霊的無知(アジュニャーナ)があるがゆえに、この世界、この世界を知覚する身体、、「私」という感覚(自我意識)といった分離した個別の意識を経験します。

熟睡している時には、心は機能しません。そうした時間には、このような個別の意識は存在しません。見る者と見られる者という違いも、ありません。私たちは、鏡や水といった何らかの被写体を映し出す物体の前に立つ時にだけ、自らの反射する姿を見ることができるのです。その時に存在するのは、自分の姿と映し出された姿の二つです。鏡がなかったら、この被写体はどこに存在するのでしょうか? 分離して存在するものはなくなります。その人自身の中で、一つになっています。

これと同じ原理が、真我にも当てはまります。池のほとりに生えている草は、根っこから池の水を吸い上げます。同様に、感覚的喜びに気持ちを集中させることによって、それに惹きつけられている感覚器官は、心に助けられて、理性(ブッディ)の力を奪っていくのです。こうして、識別力が、その人の中で完全に崩壊します。

識別力が失われると、あらゆる過去の記憶が消えてなくなります。こうした記憶をなくした人は、自らの根源をも忘れてしまいます。つまり、真我の叡智を獲得する機会を失ってしまうのです。博識なヴェーダ学者によれば、真我の叡智から遠ざかることは、自殺に相当すると言います。

私たちは、お金や贅沢品といった世俗の付随物に絶えず意識を向け続けてはなりません。それにより、それは人生の四つの目標(プルシャールタ)の全てを台無しにしてしまうのですから。その人は、自分自身をダメにしてしまいます。ですから、そうした考えが浮かんできても、許してはいけません。そのような意識に心を許す人は、聖典が伝える真我の叡智のイニシエーションや、真我実現の機会を失うのです。そして、次の転生では、木や石ころに生まれ変わるのです。

霊的無知という海を心の底から渡り切ろうと思うならば、どんな状況にあっても、世俗的な束縛に対して関心を強めてはいけません。生きていくのに必要な分だけを手にすればよいのです。また、財産を増やそうとしないことも大切です。

人は、世俗的な享楽への関心を深めていき、人生の四段階の目標を完全に失ってしまいます。ダルマ(正義)、アルタ(物質的富)、カーマ(欲望実現)という人生の最初の三つの目標を支配しているのは、時間です。言い換えれば、この三つは、その場限りに存在しています。しかし、人生の究極の目標、すなわち、解放は永遠なるものです。そして、この四つの原理の中で、最高のものです。

神々や高次元の存在はもちろんのこと、動物や低次元の存在も、ただ単にトリグナのバランスが崩れた結果として誕生します。時間は、あらゆる存在の欲望を崩壊させます。ですから、誰であっても、永遠の繁栄を享受することはできません(やがて、全てが崩壊していきます)。

おお王よ、あらゆる生命体は、肉体、感覚器官、知性、「私」という感覚、生命力を伴って、そして、これらから出来ている姿形を身につけているのです。至高の神がこうした生命体に内在し、その肉体、心、感覚器官の鑑賞者として存在しているのです。

至高の神は、根源の姿において輝きながら、全てを支配する鑑賞者として、また、それぞれの魂の親友としてあり続けています。私たちは、非二元性の原理(アベーダ・ジニャーナ)を学び、神との一体化を実現することが大切です。

蛇とロープは別物です。そうであったとしても、人は無知であるがゆえに、ロープの中に蛇を見ます。実態を理解できれば、ロープの存在に蛇を見ることはありません。同様に、原因と結果のエネルギーからなる物質世界は、存在しているかのように見えますが、本来、存在はしていないのです。至高の叡智が得られれば、私たちは、その瞬間に幻想の世界に関する真理を理解できるのです。

至高の神は、永遠に解放された存在です。神は徳も罪も超越しています。不可分なる叡智の顕現なのです。物質的原理から誕生する肉体だけが、喜びや悲しみという不浄に汚されるのです。しかし、神はその影響を受けません。私はその神に全託しています。

Yat-pāda-paṅkaja-palāśa-vilāsa-bhaktyā
Karmāśayaṁ grathitam udgrathayanti santaḥ
Tadvan na rikta-matayo yatayo ’pi ruddha-
Sroto-gaṇās tam araṇaṁ bhaja vāsudevam

これまでに行ってきたあらゆる行為の結果として残る微細な痕跡は、アハンカーラ・グランティ、すなわち、自我意識という結び目となって存在しています。聖者と言われる人たちは、至高の神の足の爪から放たれる光に向かって、永久に献身奉仕しています。その力があるからこそ、聖なる人々は、自我意識の結び目を容易に断ち切って、人生の究極の目標を実現するのです。しかし、霊的求道者は、感覚器官を抑制して、揺れ動く心(やってきては消えてゆく想念の波)を完全に抑えることができません。そのため、修道にある人たちは、自我意識の結び目を簡単には断ち切れずにいるのです。だからこそ、神であるヴァースデーヴァに全託して、奉仕してください」

続く

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