バガヴァット・ギーター 第2章14~16節
更新日 : 2024.12.20
カテゴリー : バガヴァッド・ギーター
「この体を離れた後に、同じ魂は別の体を得る。このことを理解する賢者は惑わされない」。
人は魂は永遠であると知っているので、魂が滅びるという迷いをもたないかもしれません。ですが、暑さと寒さ、喜びと悲しみを経験して、幸せから離れる悲しみと一体化し、惑わされます。
アルジュナが「私は不死の真我を悲しんでいるのではありません。死んでしまう体を悲しんでいるのです」と尋ねると仮定して、クリシュナは言います。
mātrāsparśās tu kauntēya śītōṣṇa sukhaduḥkhadāḥ
āgamāpāyinō ’nityāḥ taṁstitikṣasva bhārataǁ 14 ǁ
暑さと寒さ、喜びと悲しみの経験は、感覚がそれと結びついた対象に接触したときに現れる。経験とはつかの間のもので永続しない。耐えるのだ。
「マートラ」は感覚器官を指します。音、匂いなどは感覚です。感覚器官と結びつく感覚との接触は「マートラ・スパルシャ」です。この接触により、暑さと寒さ、喜びと悲しみが生じます。
5つの動作器官は、口、手、足、性器、肛門です。5つの知覚器官は、皮膚、目、耳、鼻、舌です。
寒さと熱は、時には幸福をもたらし、時には悲しみをもたらします。それとは違って喜びと悲しみは変わりません。そのためクリシュナは特に熱と寒さとは別に言及しています。
感覚と対象との接触 (マートラ・スパルシャ) によって生じるこれらの経験というのは、束の間で永続しません。忍耐しなければなりません。
表面的には、この説明はアルジュナの質問とは無関係であるように見えます。しかしクリシュナは、肉体は永久ではないと直接言う代わりに、感覚、結びつく対象、そしてその結果生じる経験はすべて一時的なものであると言います。
それらが消えると何が残るでしょうか? 何も残りません。これは肉体は永遠ではないと言っていることになります。シュリークリシュナはこのように巧妙に説明しました。
「クリシュナ、それらが自ら現れて、一時的であることに同意します。しかしなぜ私たちはそれに耐えなければならないのですか? 耐えることで何を得られるのですか?」アルジュナがこの質問をするかもしれないと仮定して、クリシュナは言います。
yaṁ hi na vyathayantyētē puruśaṁ puruśarṣabha
samaduḥkhasukhaṁ dhīraṁ sō ’mṛtatvāya kalpatēǁ 15 ǁ
暑さ、寒さ、その他の二元性に悩まされず、喜びや悲しみの間に平衡を保つ賢者(永続するものと非永続のものを識別する人)は、解放に値する。
アルジュナは繰り返し「シュレーヤス Śreyas」(解放)を求め、親族を殺すことでそれを奪われると言っていました。そこでクリシュナは明確に言います。「戦いから逃げてもシュレーヤスは得られない。何がシュレーヤスを与えるのか? どうすればそれが得られるのか?聞きなさい。」
「ディーラ Dhīra 」(勇敢な人)とは、戦争で戦ったり、戦いから逃げたりする人ではありません。私たちのシャーストラは、喜びと悲しみの平衡が取れている人(喜びのときに興奮したり、悲しみのときに落ち込んだりしない人)がディーラであると述べています。
二元性は、永遠の真我に対する絶え間ない認識を揺るがすことはできません。永遠の真我に対する揺るぎない認識をもって、二元性を辛抱強く耐える人は解放を得るでしょう。
nāsatō vidyatē bhāvaḥ nābhāvō vidyatē sataḥ
ubhayōrapi dṛṣṭō ’ntaḥ tvanayōs tattvadarśibhiḥǁ 16 ǁ
非実在は決して存在しない。実在が存在しなくなることもない。この二つの真理がタットヴァ・ヴェーッタ(真理を知る人)によって知られている。
「サット sat」とは永遠で実在のものを意味します。「アサット asat」とは、儚く非実在のものを意味します。
非実在は決して存在しません。実在は決して存在しなくなることはありません。この知識は「ニッティヤーニッティヤ・ヴァストゥ・ヴィヴェーカ Nityānitya-vastu-vivekaḥ」として知られています。二元性とその諸原因は実際には存在しません。存在しないものが存在することがあり得ますか?
「これは熱い」、「あれは冷たい」を証明する「実体」は存在しません。なぜなら、熱と冷たさは単なる変化、または絶え間ない変化だからです。
土器は土に他なりません。ここで土は実在であり、土器は非実在です。土は原因であり、土器はその変容物です。変容物 (カールヤ Kārya) はその原因 (カーラナ)と同じです。変容(土器に変容すること)は非実在です。原因 (カーラナ)だけが実在ものです。なぜならば、創造された物 (カーリヤ) は破壊されると存在しなくなりますが、その原因のものは存在し続けるからです。
不変と認識されるものは「サット(実在)」です。変化すると認識されるものは「アサット(非実在)」です。
対象物を土器や布などに分類する知性にとって、それらは変化するものであり、非実在(アサット)です。
ですが、知性にとって「私」という認識は不変であるため、実在(サット)です。「存在」はそのままです。これに変化はありません。身体と、この身体が引き起こす全てによる二元的経験はアサットです。真我はどこででも安定して存在し、存在しないということはありません。これが、実在を認識した人たちが「真我と真我ではないもの」(アートマ・アナートマ)と「実在と非実在」(サット・アサット)を判断する方法です。
「実在は常に存在する。非実在は存在しない」。
「タット」は「すべて」を意味します。すべてはパラマートマです。パラマートマについての真の認識を持つことが「タットヴァ」です。この認識を持つ人は「タットヴァ・ダルシ」です。

